高校日本史、江戸中期の無料練習問題です。
歴史が苦手な人、模試で40点以上取りたい人、定期テスト対策などに合わせています。
新井白石から田沼意次の時代がメインです。
将軍は6代家宣から10代家治にあたりまでの政治・経済・学問について、年表でまとめています。
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教科書での江戸時代の区分
初期1603‐1651 | 家康~家光 | 幕府の仕組みづくり | 慶長・元和・寛永 |
中期1652‐1786 | 家綱~家治 | 改革いろいろ | 元禄・正徳・享保・宝暦・天明 |
後期1787‐1853 | 家斉~家定 | 改革が上手くいかない | 寛政・文化・文政・天保 |
幕末1853‐1868 | 家茂・慶喜 | 天皇中心にしようぜ | 安政・文久・慶応 |
江戸初期の練習問題はこちらです。家綱・綱吉と元禄文化もこちらです。
江戸後期の練習問題はこちらです。
日本史(江戸中期)の練習問題
江戸中期の改革についての練習問題
ポイントの整理
・六代家宣、七代家継と短命の将軍が続き、朱子学者で( )の門弟の新井白石が幕府の実権を握った。白石は柳沢吉保を退け( )を側用人(そばようにん)に政治改革を行った。年号から( )ともいう。
・まず将軍職の権威を高めるため( )を2歳の皇女と結婚させ、( )の創設をした。
・財政では、物価の安定のため( )を鋳造し、( )の接待を簡素化し、( )で長崎貿易で制限を設け、金銀の国外流出を防いだ。
・御三家の紀州藩主から8代将軍になった徳川吉宗は( )を廃し、旗本の山田奉行から( )を町奉行に抜擢し、物価対策や裁判例をまとめた( )の編纂に当たらせた。宿駅の( )は川崎宿の名主であったが、農政建言書に( )を吉宗に出し、荒川、酒匂川の治水など民政で貢献した。儒学者の( )は吉宗の諮問として( )を献じ、( )は徂徠とともに『六諭衍大意』を著した。
・吉宗の政策は米公方と呼ばれるように、諸大名の参勤交代の負担を軽減する代わりに幕府に米を納めさせる( )をとり、年貢の決定法を検見法から( )に変え、商人の力を借りて( )を行い、大坂の( )を公認し、米価の上昇と武家の財政安定をめざした。
・また( )により、金銀の貸借トラブルは当事者間で解決するように決めた。
・さとうきび・櫨・朝鮮人参などの( )の栽培を奨励し、オランダ書を学ばせた( )は飢饉対策にさつまいもの栽培を普及させ、蘭学が発展した。民衆の意見を聞くため( )を設置し、貧民の療養施設( )はその反映した結果である。
・町奉行の( )は火事対策に広小路・( )を設け、鳶職からなる町方の( )の組織をした。
・吉宗は後年( )をまとめ、裁判例に基づく司法基準を示し、元和以降の幕府の法令をまとめた( )を出し、幕府の記録保存を命じた。自身の息子から( )と( )を起こし、のち9代将軍家重の弟から清水家を起こし、あわせて( )と呼ぶ。将軍11代目家斉、15代目慶喜は( )から、老中松平定信は田安家の出身である。
・10代将軍( )の老中田沼意次は財政の立て直しを図るため、( )を活発にし、( )・( )の税収を増やすことを目的とした。
・まず( )を出し貨幣の統一をはかり、農村・都市部の( )を公認した。
・貿易では、仙台藩医( )の提言で、( )らを蝦夷に派遣し、ロシアとの交易可能性を調査させた。また長崎貿易では、( )と( )を輸出して、( )の輸入をはかった。
・こうした政策は民間で、学問・芸術・文化の多様化を促したが、政権末期に( )が起き、息子の田沼意知が(佐野政言)に殺害された。
・朝廷では復古派の竹内式部ら公家たちが摂家に処分される( )が起きた。
・将軍の死後、意次は罷免され、多くの政策は中止された。
確認問題
問1、新井白石の政治について、誤っているものを1つ選べ。
ア、木下順庵から朱子学を学び、政策に反映された。
イ、海舶互市新例で長崎貿易の金額を制限したのは、金銀の流出を防ぐためだった。
ウ、綱吉の時代より金の含有量を減らした正徳小判の改鋳をした。
エ、朝鮮通信使の待遇を簡素化し、「日本国大君殿下」から「日本国王」に改めた。
オ、皇室に新たに閑院宮家を創設して、幕府との結びつきを強めた。
問2、徳川吉宗が登用した人物について、各人物と関連するものをそれぞれ選択せよ。
・荻生徂徠 ( ) ・大岡忠相( ) ・青木昆陽 ( )
・田中丘隅 ( ) ・室鳩巣( ) ・野呂元丈 ( )
選択肢
ア、『政談』を執筆した古文辞学派の儒学者。
イ、加賀藩の朱子学者で、吉宗の侍講となった。
ウ、サツマイモの栽培を広めた、蘭学者。
エ、旗本から江戸町奉行に抜擢され、火消組・目安箱の設置など都市政策を行った。
オ、『民間省要』を吉宗に出し、荒川などの治水事業をした。
カ、吉宗の命令をうけ、オランダの薬草学を研究した。
問3、享保の改革について、誤っているものを1つ選べ。
ア、足高の制は、禄高が少ない旗本を要職に登用する際、任期中のみ不足分を増加する制度。
イ、諸大名に上げ米を実施し、百姓の年貢率を引き上げたが、享保の飢饉で失敗した。
ウ、公事方御定書で裁判例を集め、裁判の合理化をすすめた。
エ、側用人を廃止して、儒学者や百姓も政権に登用した。
オ、漢訳洋書の輸入制限を緩め、青木昆陽らにオランダ語を学ばせた。
問4,大岡忠相の政策について、誤っているものを1つ選べ。
ア、相対済まし令を実施した結果、「三方一両損」の逸話が生まれた。
イ、とび職からなる町火消を組織させ、火除地など設置した。
ウ、目安箱で民衆から意見を集め、小石川療養所の設置につなげた。
エ、公事方御定書の編纂に取り組んだ。
問5、田沼意次の政治について、誤っているものを1つ選べ。
ア、商業活動を重視し、堂島米市場を公認した。
イ、南鐐二朱銀を出し、金貨の不足に対処した。
ウ、長崎貿易を奨励し、銅と俵物の輸出を増やした。
エ、政権末期に天明の飢饉が起こり、打ちこわしや百姓一揆が急増した。
問6,田沼意次が長崎貿易について、新井白石と正反対の政策をとったのはなぜか。
江戸中期の産業についての練習問題
近代以前の産業、いわゆる伝統工芸の話なので、中学校の地理+雑学のような感じです。
ポイントの整理
農業
・17世紀後半から18世紀前半の約100年間に経済が大きく変化した。まず、農具は灌漑に( )が使われ、耕作に( )、脱穀に( )・( )、選別に( )・( )が普及した。
・さらに刈敷にかわり( )が発達したところでは、( )( )・油粕・下肥・糠などの( )を遠隔地から購入した。
・新しい農業時術や栽培法を紹介した農書に宮崎安貞( )が登場した。
・全国では( )がすすみ農地が増え、幕府や藩は蔵米を貨幣に替え、( )の栽培を奨励し、江戸初期と違い農村においても貨幣経済が浸透した。
・駿河と山城は( )の栽培で有名で、紀伊は( )、備後は( )、琉球と奄美は( )で有名だった。
・出羽村上では( )の栽培、阿波では( )生産が盛んで、木綿で有名な尾張・三河・河内では、河内木綿や 有松絞の染料に用いられ、庶民の普段着が主だった。
備中鍬、唐箕(とうみ)、〆粕(しめかす)、商品作物、い草、新田開発、農業全書、千石どおし、
木材と漆
・17世紀のの終わりから、飛騨(岐阜)・紀伊(和歌山)の材木商人が、( )・( )・( )の山林伐採を請け負い、消費地の( )や( )に販売した。( )の備長炭などが、幕府や藩の貢納品、消費地の三都(江戸・大坂・京都)と城下町で販売。
・( )は漆器の南部塗(岩手県)会津塗(福島県)輪島塗(石川県)春慶塗(飛騨岐阜)の材料になり、( )という職人が全国の山里で活躍した。
漁業と製塩
・漁業では九十九里の( )や蝦夷の( )を、商品作物の肥料の( )や( )に加工した。また、瀬戸内海の鯛、高知のカツオ(現在でも有名)や紀伊太地の( )がさかんになった。17世紀末から( )に代わって、干しアワビ、いりこ、ふかひれなどの( )と昆布が日清貿易の主要な輸出品になった。
・塩田では中世の揚浜塩田より、潮の干満の差を利用する( )が瀬戸内地方を中心に広まった。
確認問題
問1,江戸時代の農業について、誤っているものを1つ選べ。
ア、幕府・藩の収入の大部分は百姓の年貢に依存した。
イ、干鰯や下肥などの肥料は、米や野菜と交換して入手した。
ウ、駿河の茶、出羽村上の紅花など、地域の気候を生かした商品作物が生まれた。
エ、18世紀前半までに新田開発がすすみ、年貢が増加した。
オ、宮崎安貞『農業全書』は農業技術の普及につながった。
問2、江戸時代の土木工事について、誤っているものを1つ選べ。
ア、鴻池新田は大阪の豪商が開発した。
イ、農具の発明は、土木工事の進展にもつながった。
ウ、土木工事が発展したため、揚浜塩田が普及した。
エ、新田開発は江戸中期以降あまり進展しなかった。
オ、京都の豪商角倉了以は水路の開削も行った。
問3、江戸時代の漁業について、誤っているものを1つ選べ。
ア、蝦夷地はアイヌとの場所請負制で鰊・昆布の取引が行われた。
イ、九十九里浜では鰯漁がさかんで、干鰯・〆粕は金肥となった。
ウ、漁業について、網元と網子という主従関係があった。
エ、長崎貿易では、ナマコ・フカヒレ・昆布など俵物が輸入された。
オ、土佐・薩摩・伊豆では鰹節が作られ、全国で売られた。
問4、江戸時代の木材加工について、誤っているものを1つ選べ。
ア、紀伊や飛騨は木材加工がさかんだった。
イ、秋田杉、木曾檜は藩が直轄する山林から切り出された。
ウ、材木の切り出しには木地師とよばれる職人が活躍した。
エ、漆器は南部塗、会津塗、輪島塗などが有名である。
手工業
・日本酒は秀吉の桃山城近くの( )と神戸近郊の( )が有名である。醤油は紀伊から各地に製造法が広まり、千葉の( )・( )、紀伊の湯浅が有名で、播磨の( )は京料理にあわせた色の薄い醤油を開発した。
・( )は生糸に必要なカイコのエサであり、絹糸から京都の高価な金襴・緞子で有名な( )、桐生の桐生絹、長野の( )、茨城と栃木の間の( )は、高度な技術を必要とする( )を( )に導入し、尾張まで広がった。
・麻は越後縮、奈良晒、近江麻で有名、民衆の服は麻・木綿が主だった。
交通
・陸上交通は秀吉の全国統一に始まり、江戸時代に東海道など( )と主要な拠点を結ぶ( )が整備され、( )が管理した。一里ごとに道程の碑や木が植えられ( )という目印があった。
・街道には関所が設けられ、通行に( )を要し、特に関東への( )は厳しく取り締まれた。
・( )は参勤交代など大名らが使う( )・( )の他、( )として発展し周辺地域の流通センターとなった。( )は問屋場の宿役人の問屋・年寄・帳付らが、公用の書状・荷物などを運ぶ( )を手配し、不足した場合は周辺農村からの( )があった。やがて、( )も登場し、重要な情報の正確な伝達に重用された。庶民の寺社詣の際には( )に宿泊した。
・水上交通が、ほとんど主な物資の大量輸送手段であり、運河や河川の整備が行われ、特に京都の豪商( )などは高瀬舟や小舟が通行できる川や水路の工事をよく行った。( )もいかだを組んで、その上に荷物を積んで、河川の輸送に使われた。その河口には港町に( )があった。
・海上交通は、17世紀後半江戸商人の( )が出羽酒田から江戸にいたる大型船( )を用いた東廻り航路と西回り航路を完成させ、大坂江戸間だけでなくほぼ全国を周遊できるようにした。しかし、18世紀前半( )が酒・油・木綿を積んでより大坂から江戸へはやく運び、( )との競合の末、優位な立場になった。18世紀末には蝦夷地と大坂を結ぶ( )が日本海を通じて発達した。
確認問題
問1,江戸時代の手工業について、誤っているものを1つ選べ。
ア、尾張の木綿は機織り機から、明治以降の織機・楽器・機械工業につながった。
イ、醬油は銚子・野田・紀伊にくわえ、灘が有名である。
ウ、結城縞では高度な技術が必要な高機が用いられ、工場制手工業を生んだ。
エ、京都では西陣織・友禅染が発達した。
オ、野々村仁清は上絵付の技法をつくり、京焼の祖と呼ばれる。
問2,江戸時代の街道について、誤っているものを1つ選べ。
ア、宿駅の問屋場では、伝馬役の手配が行われ、近隣の百姓が使役された。
イ、大名は参勤交代の時、本陣や旅籠屋に宿泊した。
ウ、関東の関所では、鉄砲の持ち込みや大名の妻の出国を厳しく取り締まった。
エ、遠隔地を結ぶ馬車は発達しなかった。
オ、五街道は17世紀半ばから道中奉行が管理した。
問3,江戸時代の海上交通について、誤っているものを1つ選べ。
ア、角倉了以によって出羽酒田を起点とする西廻り航路・東廻り航路が完成した。
イ、江戸・大坂間は樽廻船が菱垣廻船より発達した。
ウ、湖や川などの移動には高瀬舟など小舟が用いられた。
エ、18世紀末から大坂と松前を結ぶ北前船が発達した。
オ、北前船を営んだ安田善次郎は、明治以降安田財閥を築いた。
金融
・家康は( )・( )をおき、品質や重さの統一された( )を鋳造した。後藤庄三郎も小判・一分金など計数貨幣を鋳造した。金貨ははじめ規格が統一された貨幣なので、その枚数と価値は等しかった。
・のち銀は( )と( )がつくられ、これは重さによって価値の異なる( )だった。
・( )は近江坂本など全国十か所で寛永期に( )が大量に鋳造された。こうして、金・銀・銭の( )が全国に流通するようになった。他、年貢米を金や銀に交換したので、米の生産量と金銀の価値がほぼ並行した。
・西日本では( )が主で、東日本では( )が主だったため、大坂と江戸の間で金銀の交換比率や相場に変動があり、( )が活躍した。本両替は幕府・藩を相手に お金の出し入れ、金銀の交換、貸付を行った。
・小判は改鋳が何度か行われ、万延小判は( )後、外国に金が流出するのを防ぐため、極端に小さかった。また、金銀の不足分は交換を約束する券として( )が17世紀後半から各城下町で流通した。
三都
・江戸は将軍のお膝元で、七割が( )で、( )は2割もなかったが、数は18世紀で1600を超え、そのほとんどが( )・商家奉公人など農村からの流入者で、( )や日用稼ぎで暮らし裏長屋の劣悪な環境に住み、物価高騰や飢饉になると真っ先に生活を破壊され、商店を襲撃する( )が起きやすかった。
・大坂は天下の台所として発展し、各藩の( )が集中し、年貢米など公的な商品を扱うのを( )といい、( )は各藩や江戸屋敷への送金を担った。また民間の各地からの商品の( )も集まった。
・江戸大坂間の海運は危険がともなうため、共同保障として江戸の( )や大坂の( )が存在した。
・伊勢商人の( )は江戸で呉服屋を営み、その利益で三都や各城下町で( )をはじめ、明治以降は三菱・住友とならぶ三大財閥に成長した。
・都市部の問屋のなかには農村の( )とつながりを持ち、百姓に手工業生産をさせる( )をはじめた。
・18世紀前半になると商人・職人の( )・( )が力を持ち公認されるようになる。
・( )では、農村と都市部の間で発達し、問屋と仲買との取引が行われ、大坂では( )の米市場、( )の魚市場、( )の青物市場が有名で、江戸では、( )の魚市場と( )の青物市場が有名だった。
・京都は幕府が京都所司代と町奉行を置き、朝廷の権威を通じて( )の統制を行った。( )・( )の大商人の本拠地でもあった。
確認問題
問1,江戸時代の金融について、誤っているものを1つ選べ。
ア、銀座は銀貨を鋳造した場所である。
イ、江戸時代の貨幣は、金・銀・銭の計数貨幣である。
ウ、江戸と大坂間で金銀の交換比率が変動したため両替商が生まれた。
エ、金銀の不足を補うため、藩札がそのまま紙幣として流通した。
問2,江戸時代の商業について、誤っているもの1つ選べ。
ア、諸藩の年貢米などを扱った商人を蔵元・掛屋という。
イ、伊勢商人の三井家は江戸・大坂などで両替商を行った。
ウ、海運業の相互補助のため、江戸の二十四組問屋が結成された。
エ、問屋は百姓に原料を貸して製品を作らせる問屋制家内工業を行った。
問3,江戸の町のようすについて、誤っているものを1つ選べ。
ア、裏長屋に店借して、日用の仕事をする人々の生活は安定していた。
イ、武家地が7割をしめたが、しだいに農村から多くの人々が流入した。
ウ、江戸は日本橋の魚市場と神田の青物市場が有名だった。
エ、江戸の町人地の行政は町奉行が担った。
問4,江戸時代の大坂について、誤っているものを1つ選べ。
ア、大坂が諸大名の蔵屋敷が集中したので、武家地が大半を占めた。
イ、大坂から江戸には樽廻船が活躍した。
ウ、堂島米市場は吉宗の時代に公認された。
エ、幕府は大阪城代と町奉行を置いた。
江戸中期の動揺についての練習問題
ポイントの整理
・18世紀からは、豪農は貧しい百姓への貸付によって田畑を増やし( )を行い、村役人となり、商品作物の生産・流通や金融を取り仕切った。一方、田畑を失った百姓は小作人や年季奉公人、あるいは都市に流入した。結果、( )と小作人らが対立する( )が頻発した。
・百姓一揆は17世紀はじめ、武装蜂起や( )など中世の性格をもっていたが、17世紀後半は代表者が百姓全体の要求を直訴する( )が主で、代表者の村役人は( )と称えられた。17世紀末から( )など広範囲にわたる一揆が増えた。18世紀から藩に協力的な商人や村役人の家を打ちこわすことが起きた。
・藩や幕府は百姓一揆を厳しく取り締まるが、飢饉や凶作のときに多発し、明治初期までに約3,700件起きたことが確認されている。
・1732年( )は西日本の凶作が原因で、江戸で( )がおきた。
・さらに1782年( )は東北地方の壊滅的な冷害に加え、浅間山の大噴火で大量の死亡者を出し、全国で激しい( )や( )が多発した。この危機に素早く対応した白河藩主( )が老中に抜擢された。
確認問題
問1,江戸時代の民衆の反乱について、誤っているものを1つ選べ。
ア、打ちこわしは小作人たちが村役人や商家を襲撃した事件をいう。
イ、藩全体など広範囲にわたる一揆を惣百姓一揆という。
ウ、飢饉がおきると、都市部では日用など不安定で貧しい人々が暴動を起こした。
エ、一揆の要求は受け入れられることがあっても、代表者は厳しく処罰された。
オ、貨幣経済の浸透で村内に豪農と小作人という格差が広がった。
江戸時代の学問についての練習問題
倫理の話ともかぶっています。機械的な暗記よりも、人物それぞれのキャラを理解しましょう。
・儒学について
次の表に人物名をいれてください。
朱子学:理論中心 | 京学:林家など | (①藤原惺窩)1561-1619、京都相国寺の僧で、朱子学を学び広めた。 |
(② )1583-1657、①の弟子で家康に仕え、上野忍ケ丘に私塾を開き、幕府の思想的基盤となる。 | ||
(③林鳳岡)1644-1732、家綱、綱吉らに仕え、初代大学頭になる。湯島聖堂ができる。 | ||
(④ )1644-98、加賀前田家に仕え、綱吉の侍講(家庭教師)。弟子に⑤と⑥がいる。 | ||
(⑤ )1657-1725、家宣・家継に仕え、正徳の治を主導した。儒教に基づく理想主義的な政策を行った。『読史余論』など。 | ||
(⑥室鳩巣)1658-1734、加賀前田綱紀に仕え、吉宗の侍講となる。 | ||
雨森芳洲1668‐1755、対馬の外交官で、中国語も朝鮮語も話せた。 | ||
(⑭ )1736-1807、寛政の改革のとき、朱子学を正学とすることを松平定信に建言した。 | ||
南学:土佐で起きた | 谷時中1598?-1649、土佐の僧から、儒学者に | |
(⑦山崎闇斎)1618-82、朱子学と神道をあわせた「垂加神道」を唱えた。尊王論のもとになった。 | ||
野中兼山1615‐63、土佐藩家老、新田開発・殖産興業など政治を推進 | ||
陽明学:実践中心 | (⑧中江藤樹)1608-48、孝を重視。 | |
(⑨ )1619-91、⑧に学び、岡山藩池田光政に仕え、『大学或問』で幕府を批判、古河藩で土木工事を指導。 | ||
大塩平八郎1793-1837、私塾洗心洞を開き、陽明学を講じた。 | ||
古学:朱子学に批判的 | 聖学 | (⑩山鹿素行)1622‐85、会津の兵学者、『聖教要論』で朱子学を批判。『中朝事実』で日本中心の中華思想を唱えた。大石内蔵助の先生。 |
古義学派 | (⑪ )1627‐1706、孔子・孟子の古典に立ち返ろうと、京都に私塾古義堂を開く。 | |
古文辞学派 | (⑫ )1666‐1728、吉宗に仕えた。実証的な文献学から経世論を説く。『政談』など。私塾に蘐園塾(けんえんじゅく)。 | |
(⑬太宰春台)1680‐1747、⑫の弟子。武士も商業を行い、専売制度で利益を上げるべきと主張。 |
人物名
荻生徂徠(おぎゅうそらい)、山崎闇斎(やまざきあんさい)、木下順庵(きのしたじゅんあん)、藤原惺窩(ふじわらせいか)、新井白石、林鳳岡(はやしほうこう)、柴野栗山(しばのりつざん)、
・その他の道徳
心学をおこし、儒教を加味しつつ、商業の正当性、商人の道徳を簡単な言葉で説く | |
安藤昌益 | 八戸の医者。本草学・需仏に通じ、武士の農民搾取を批判。 |
1832年天保の飢饉あと、農村の復興にあたり、報徳仕法を説いた。別名金次郎 |
・歴史学
『本朝通鑑』:歴代天皇の歴史を編年体で記した。司馬光『資治通鑑』にならい、実証主義的な歴史叙述をめざした。 | |
『中朝事実』:日本こそが中心という考えを記した | |
『大日本史』:江戸の彰考館で編纂。大義名分による社会の安定を解く。 | |
『読史余論』:公家政権は九変し、武家政権は五変して徳川政権になったと、解釈。 『古史通』:日本書紀の神話時代を合理的に解釈 『藩翰譜』:大名の系譜をまとめたもの |
・国学について
戸田茂睡1629-1706 | 和歌に俗語を入れようと主張。 |
(①契沖)1640-1701 | 『万葉集代匠記』で茂睡の説を立証した。 |
(②北村季吟)1624‐1705 | 幕府の歌学方。『源氏物語湖月抄』で作者の意図を知ろうとした。 |
荷田春満1669-1736 | 古文・国史を研究。 |
(③ )1697‐1769 | 『国意考』で儒教・仏教の影響をうけない日本固有の思想を研究。『万葉考』 |
(④ )Ⅰ730-1801 | 「もののあはれ」を提唱。『古事記伝』を書き、国学の基礎をつくる。 |
(⑤ )Ⅰ776-1843 | 復古神道を説き、尊王攘夷論に影響を与える。 |
塙保己一1746‐1821 | 幕府の援助で和学講談所を設け、『群書類従』を編纂した。 |
・水戸学について
前期 | 2代藩主(① )のもと、徳をもって治める者は力で支配する覇者に勝る大義名分論をもとに、尊王斥覇の考え。 |
後期 | 9代藩主(② )のもと、藤田幽谷・④⑤らの尊王斥覇から攘夷論を展開。⇒( )に結びつく。 |
藤田幽谷1774‐1826 | 彰考館総裁として『大日本史』の編纂にあたる。 |
(③ )1806‐55 | ②の側用人。藩政改革で弘道館を設置。『弘道館記述義』 |
(④ )1782-1863 | 幽谷に師事し、『新論』で( )を唱えた。 |
・尊王論について
(①竹内式部)1712‐67 | 尊王斥覇に基づき公家に儒学を講じ、宝暦事件で幕府に追放された。 |
(②山県大弐)1725‐67 | 江戸で尊王斥覇を説き、明和事件で死罪となった。 |
(③ )Ⅰ780-1832 | 安芸の人。『日本外史』で勤王思想を説いた。 |
(④ )Ⅰ776-1843 | 儒学・仏教に影響されない復古神道を説いた。 |
・自然科学
(① )1630‐1714 | 『大和本草』:1300種の動植物・鉱物を分類、朱子学者 『女大学』:女子向けの道徳書 |
(② )1623‐97 | 『農政全書』:農業技術の普及 |
(③関孝和)1640?‐1708 | 『発微算法』:和算の大成。代数筆算・円周率など |
(④ )1639‐1715 | 『貞享暦』:幕府の天文方。カレンダーを修正した。 |
・洋学について
(① )Ⅰ657-1725 | イタリア人宣教師を尋問し、『西洋紀聞』『采覧異言』をまとめる。 |
(② )Ⅰ698-1769 | 吉宗の命でオランダ語を学び、サツマイモの栽培を広めた |
(③野呂元丈)Ⅰ693-1761 | 吉宗の命でオランダ語を学び、薬物学を紹介。 |
(④ )Ⅰ723-1803 | ⑤とともに『解体新書』を訳述。 |
(⑤ )Ⅰ733-1817 | ④とともに『解体新書』を訳述。『蘭学事始』 |
(⑥大槻玄沢)Ⅰ757-1827 | 蘭医。江戸に芝蘭堂(しらんどう)を開く。 |
稲村三伯1758-1811 | 最初のオランダ語辞書『ハルマ和解』を作成。 |
(⑦ )1728‐79 | エレキテルを発明。 |
(⑧ )1745-1818 | 全国の沿岸を測量。大日本沿海輿地全図 |
(⑨ )1810‐63 | 蘭医。適塾を開き、福沢諭吉・大村益次郎など指導。 |
(⑩ )1811‐64 | 陽明学・蘭学・砲学を学び、開国を唱えた。 |
・学校・私塾について
・幕府の学校⇒東京大学の前身
・林羅山が家康に仕え、忍岡学塾を創設、綱吉の時代( )に学問所が創設され、林鳳岡が初代大学頭になり、以後林家が大学頭を世襲。吉宗の時代から古学派の( )を登用したことで、古学派と諸学派の( )が生まれ、その中から実証中心の( )が生まれた。寛政の改革のとき、林家の家塾は( )に改められ朱子学を正学とした。
・一方、( )が貞享暦を完成させて、幕府に天文方がおかれた。( )も天文方で学び、全国の測量を始めた。高橋至時(よしとき)は西洋暦を取りいれ寛政暦を作り、1811年天文方は( )に改められた。洋書の研究は1828年シーボルト事件、1838年蛮社の獄があり、政治思想にはつながらず、医学・兵学・地理学など科学技術が中心だった。
・私塾
・17世紀中ごろから、( )は岡山に花畠教場を作り、( )が近江に藤樹書院を建て、
( )が京都に古義堂を始めた。
・18世紀には大坂町人の出資で( )が作られ、朱子学・陽明学が教えられ、富永仲基・片山蟠桃(かたやまばんとう)を排出した。江戸では( )の蘐園塾(けんえんじゅく)がある。
・蘭学は大槻玄沢がはじめた江戸の( )や、緒方洪庵がはじめた大坂の( )、シーボルトがはじめた長崎の鳴滝塾がある。
・洗心洞は( )が大坂で開いた私塾で、松下村塾は萩で開かれた。
江戸中期の年表問題
江戸中期の改革について、次の空欄に適切な語句を入れてください。
将軍 | 中心人物 | できごと |
家宣(1709‐12) | ( ) | 1709、シドッチを尋問する 1710、( )を創設する 1711、( )を簡素化 将軍を「日本国王」に改める |
家継(1713‐16) | 1714、正徳金銀を発行 1715、( )で長崎貿易の金額を制限 | |
吉宗(1716‐45) | 徳川吉宗 | 1717、( )を江戸町奉行に 1719、( ):金銭トラブルは当事者で解決 1720、キリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可 同年、江戸に町火消を設置 1721、( )を設置し、民衆の意見を集める 1722、( )の制を開始。新田開発を奨励し、 幕領で( )を実施。 同年、小石川療養所を設置。 1723、( ):役に対し禄高の不足分を補う 1730、参勤交代を元に戻す。三卿の1つ田安家を創設。 同年、大坂堂島米市場を公認。 1732、( )が起き、江戸で打ちこわしが発生 1736、長崎貿易を制限 1739、( )を登用 1740、三卿の1つ一橋家を創設。 1742、( )が完成 1744、御触書寛保集成が完成 1746、オランダ船2隻、中国船10隻に制限 |
家重(1745-1760) | 1754‐64、一揆、打ちこわしが激化 この時、国学・蘭学の発達が顕著になる 1758、( )で竹内式部を追放。三卿の清水家。 1764、長崎貿易の不振につき、( )の生産を奨励 | |
家治(1760-1786) | ( ) | 1767、が側用人に、72老中に 1772、( )を発行 同年、各業種で( )を公認 1774、( )ら『解体新書』を出す 1782、( )が発生 1783、浅間山の大噴火 1784、佐野政言が意次の子、意知を刺殺 1786、( )らが蝦夷地を探索 |
語句
日本史(江戸中期)の解答
江戸中期の改革についての解答
ポイントの整理
・六代家宣、七代家継と短命の将軍が続き、朱子学者で(木下順庵)の門弟の新井白石が幕府の実権を握った。白石は柳沢吉保を退け(間部詮房)を側用人(そばようにん)に政治改革を行った。年号から(正徳の政治)ともいう。
・まず将軍職の権威を高めるため(家継)を2歳の皇女と結婚させ、(閑院宮家)の創設をした。
・財政では、物価の安定のため(正徳小判)を鋳造し、(朝鮮通信使)の接待を簡素化し、(海舶互市新例)で長崎貿易で制限を設け、金銀の国外流出を防いだ。
・御三家の紀州藩主から8代将軍になった徳川吉宗は(側用人)を廃し、旗本の山田奉行から(大岡忠相)を町奉行に抜擢し、物価対策や裁判例をまとめた(公事方御定書)の編纂に当たらせた。宿駅の(田中丘隅)は川崎宿の名主であったが、農政建言書に(民間省要)を吉宗に出し、荒川、酒匂川の治水など民政で貢献した。儒学者の(荻生徂徠)は吉宗の諮問として(政談)を献じ、(室鳩巣)は徂徠とともに『六諭衍大意』を著した。
・吉宗の政策は米公方と呼ばれるように、諸大名の参勤交代の負担を軽減する代わりに幕府に米を納めさせる(上げ米)をとり、年貢の決定法を検見法から(定免法)に変え、商人の力を借りて(新田開発)を行い、大坂の(堂島米市場)を公認し、米価の上昇と武家の財政安定をめざした。
・また(相対済し令)により、金銀の貸借トラブルは当事者間で解決するように決めた。
・さとうきび・櫨・朝鮮人参などの(商品作物)の栽培を奨励し、オランダ書を学ばせた(青木昆陽)は飢饉対策にさつまいもの栽培を普及させ、蘭学が発展した。民衆の意見を聞くため(目安箱)を設置し、貧民の療養施設(小石川療養所)はその反映した結果である。
・町奉行の(大岡忠相)は火事対策に広小路・(火除地)を設け、鳶職からなる町方の(火消組)の組織をした。
・吉宗は後年(公事方御定書)をまとめ、裁判例に基づく司法基準を示し、元和以降の幕府の法令をまとめた(御触書寛保集成)を出し、幕府の記録保存を命じた。自身の息子から(田安家)と(一橋家)を起こし、のち9代将軍家重の弟から(清水家)を起こし、あわせて(三卿)と呼ぶ。将軍11代目家斉、15代目慶喜は(一橋家)から、老中松平定信は(田安家)の出身である。
・10代将軍(家治)の老中田沼意次は財政の立て直しを図るため、(民間の経済活動)を活発にし、(運上)・(冥加)の税収を増やすことを目的とした。
・まず(南鐐二朱銀)を出し貨幣の統一をはかり、農村・都市部の(株仲間)を公認した。
・貿易では、仙台藩医(工藤平助)の提言で、(最上徳内)らを蝦夷に派遣し、ロシアとの交易可能性を調査させた。また長崎貿易では、(銅)と(俵物)を輸出して、(金・銀)の輸入をはかった。
・こうした政策は民間で、学問・芸術・文化の多様化を促したが、政権末期に(天明の飢饉)が起き、息子の田沼意知が佐野政言に殺害された。
・朝廷では復古派の竹内式部ら公家たちが摂家に処分される(宝暦事件)が起きた。
・将軍の死後、意次は罷免され、多くの政策は中止された。
確認問題
問1、新井白石の政治について、誤っているものを1つ選べ。
ウ、綱吉の時代より金の含有量を減らした正徳小判の改鋳をした。
金の含有量を増やしました。
問2、徳川吉宗が登用した人物について、各人物と関連するものをそれぞれ選択せよ。
・荻生徂徠 ( ア ) ・大岡忠相( エ ) ・青木昆陽 ( ウ )
・田中丘隅 ( オ ) ・室鳩巣( イ ) ・野呂元丈 ( カ )
選択肢
ア、『政談』を執筆した古文辞学派の儒学者。
イ、加賀藩の朱子学者で、吉宗の侍講となった。
ウ、サツマイモの栽培を広めた、蘭学者。
エ、旗本から江戸町奉行に抜擢され、火消組・目安箱の設置など都市政策を行った。
オ、『民間省要』を吉宗に出し、荒川などの治水事業をした。
カ、吉宗の命令をうけ、オランダの薬草学を研究した。
問3、享保の改革について、誤っているものを1つ選べ。
イ、諸大名に上げ米を実施し、百姓の年貢率を引き上げたが、享保の飢饉で失敗した。
百姓の負担が増えたところに享保の飢饉が発生し、百姓一揆や打ちこわしが増えたのは事実ですが、
幕府の収入は安定し、その後上げ米を廃止したので、「失敗」とは言い切れません。
問4,大岡忠相の政策について、誤っているものを1つ選べ。
ア、相対済し令を実施した結果、「三方一両損」の逸話が生まれた。
相対済し令は、金銭トラブルは当事者で解決するよう決めた法令です。
町奉行は金銭の訴状は受け付けないことにしました。
問5、田沼意次の政治について、誤っているものを1つ選べ。
ア、商業活動を重視し、堂島米市場を公認した。
堂島米市場を公認したのは、享保の改革のときです。
問6,田沼意次が長崎貿易について、新井白石と正反対の政策をとったのはなぜか。
新井白石は金銀の国外流出を防ぐため、長崎貿易を制限したが、その後、日本各地で商品作物や地場産業が発達し、田沼意次は俵物を輸出することで反対に金銀の流入を図った。
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江戸中期の産業についての解答
ポイントの整理
農業
・17世紀後半から18世紀前半の約100年間に経済が大きく変化した。まず、農具は灌漑に(踏車)が使われ、耕作に(備中鍬)、脱穀に(千歯こき)・(からざお)、選別に(唐箕)・(千石どおし)が普及した。
・さらに刈敷にかわり(商品作物)が発達したところでは、(干鰯)(〆粕)・油粕・下肥・糠などの(金肥)を遠隔地から購入した。
・新しい農業時術や栽培法を紹介した農書に宮崎安貞(農業全書)が登場した。
・全国では(新田開発)がすすみ農地が増え、幕府や藩は蔵米を貨幣に替え、(商品作物)の栽培を奨励し、江戸初期と違い農村においても貨幣経済が浸透した。
・駿河と山城は(茶)の栽培で有名で、紀伊は(みかん)、備後は(い草)、琉球と奄美は(黒砂糖)で有名だった。
・出羽村上では(紅花)の栽培、阿波では(藍)生産が盛んで、木綿で有名な尾張・三河・河内では、河内木綿や 有松絞の染料に用いられ、庶民の普段着が主だった。
木材と漆
・17世紀のの終わりから、飛騨(岐阜)・紀伊(和歌山)の材木商人が、(蝦夷地)・(陸奥)・(出羽)の山林伐採を請け負い、消費地の(江戸)や(京都)に販売した。(熊野)の備長炭などが、幕府や藩の貢納品、消費地の三都(江戸・大坂・京都)と城下町で販売。
・(漆)は漆器の南部塗(岩手県)会津塗(福島県)輪島塗(石川県)春慶塗(飛騨岐阜)の材料になり、(木地師)という職人が全国の山里で活躍した。
漁業と製塩
・漁業では九十九里の(鰯)や蝦夷の(鰊)を、商品作物の肥料の(干鰯)や(〆粕)に加工した。また、瀬戸内海の鯛、高知のカツオ(現在でも有名)や紀伊太地の(捕鯨)がさかんになった。17世紀末から(銅)に代わって、干しアワビ、いりこ、ふかひれなどの(俵物)と昆布が日清貿易の主要な輸出品になった。
・塩田では中世の揚浜塩田より、潮の干満の差を利用する(入浜塩田)が瀬戸内地方を中心に広まった。
確認問題
問1,江戸時代の農業について、誤っているものを1つ選べ。
イ、干鰯や下肥などの肥料は、米や野菜と交換して入手した。
現金で購入していました。
問2、江戸時代の土木工事について、誤っているものを1つ選べ。
ウ、土木工事が発展したため、揚浜塩田が普及した。
入浜塩田が発達しました。
問3、江戸時代の漁業について、誤っているものを1つ選べ。
エ、長崎貿易では、ナマコ・フカヒレ・昆布など俵物が輸入された。
俵物が「輸出」されました。
問4、江戸時代の木材加工について、誤っているものを1つ選べ。
ウ、材木の切り出しには木地師とよばれる職人が活躍した。
「木地師」は木工職人のことです。材木の切り出しの職人は杣(そま)です。
手工業
・日本酒は秀吉の桃山城近くの(伏見)と神戸近郊の(灘)が有名である。醤油は紀伊から各地に製造法が広まり、千葉の(銚子)・(野田)、紀伊の湯浅が有名で、播磨の(龍野)は京料理にあわせた色の薄い醤油を開発した。
・(桑)は生糸に必要なカイコのエサであり、絹糸から京都の高価な金襴・緞子で有名な(西陣織)、桐生の桐生絹、長野の(上田紬)、茨城と栃木の間の(結城縞)は、高度な技術を必要とする(高機)を(マニュファクチュア)に導入し、尾張まで広がった。
・麻は越後縮、奈良晒、近江麻で有名、民衆の服は麻・木綿が主だった。
交通
・陸上交通は秀吉の全国統一に始まり、江戸時代に東海道など(五街道)と主要な拠点を結ぶ(脇街道)が整備され、(道中奉行)が管理した。一里ごとに道程の碑や木が植えられ(一里塚)という目印があった。
・街道には関所が設けられ、通行に(手形)を要し、特に関東への(入り鉄砲に出女)は厳しく取り締まれた。
・(宿駅)は参勤交代など大名らが使う(本陣)・(脇本陣)の他、(宿場町)として発展し周辺地域の流通センターとなった。(伝馬役)は問屋場の宿役人の問屋・年寄・帳付らが、公用の書状・荷物などを運ぶ(継飛脚)を手配し、不足した場合は周辺農村からの(助郷)があった。やがて、(町飛脚)も登場し、重要な情報の正確な伝達に重用された。庶民の寺社詣の際には(旅籠屋)に宿泊した。
・水上交通が、ほとんど主な物資の大量輸送手段であり、運河や河川の整備が行われ、特に京都の豪商(角倉了以)などは高瀬舟や小舟が通行できる川や水路の工事をよく行った。(木材)もいかだを組んで、その上に荷物を積んで、河川の輸送に使われた。その河口には港町に(河岸)があった。
・海上交通は、17世紀後半江戸商人の(河村瑞賢)が出羽酒田から江戸にいたる大型船(菱垣廻船)を用いた東廻り航路と西回り航路を完成させ、大坂江戸間だけでなくほぼ全国を周遊できるようにした。しかし、18世紀前半(樽廻船)が酒・油・木綿を積んでより大坂から江戸へはやく運び、(菱垣廻船)との競合の末、優位な立場になった。18世紀末には蝦夷地と大坂を結ぶ(北前船)が日本海を通じて発達した。
確認問題
問1,江戸時代の手工業について、誤っているものを1つ選べ。
イ、醬油は銚子・野田・紀伊にくわえ、灘が有名である。
灘は酒造で有名です。
問2,江戸時代の街道について、誤っているものを1つ選べ。
イ、大名は参勤交代の時、本陣や旅籠屋に宿泊した。
旅籠屋を利用するのは、庶民です。
問3,江戸時代の海上交通について、誤っているものを1つ選べ。
ア、角倉了以によって出羽酒田を起点とする西廻り航路・東廻り航路が完成した。
河村瑞賢の誤り。
金融
・家康は(金座)・(銀座)をおき、品質や重さの統一された(計数貨幣)を鋳造した。後藤庄三郎も小判・一分金など計数貨幣を鋳造した。金貨ははじめ規格が統一された貨幣なので、その枚数と価値は等しかった。
・のち銀は(丁銀)と(豆板銀)がつくられ、これは重さによって価値の異なる(秤量貨幣)だった。
・(銅銭)は近江坂本など全国十か所で寛永期に(寛永通宝)が大量に鋳造された。こうして、金・銀・銭の(三貨)が全国に流通するようになった。他、年貢米を金や銀に交換したので、米の生産量と金銀の価値がほぼ並行した。
・西日本では(銀遣い)が主で、東日本では(金遣い)が主だったため、大坂と江戸の間で金銀の交換比率や相場に変動があり、(両替商)が活躍した。本両替は幕府・藩を相手に お金の出し入れ、金銀の交換、貸付を行った。
・小判は改鋳が何度か行われ、万延小判は(安政の五カ国条約)後、外国に金が流出するのを防ぐため、極端に小さかった。また、金銀の不足分は交換を約束する券として(藩札)が17世紀後半から各城下町で流通した。
三都
・江戸は将軍のお膝元で、七割が(武家地)で、(町人地)は2割もなかったが、数は18世紀で1600を超え、そのほとんどが(店借)・商家奉公人など農村からの流入者で、(振売)や日用稼ぎで暮らし裏長屋の劣悪な環境に住み、物価高騰や飢饉になると真っ先に生活を破壊され、商店を襲撃する(打ちこわし)が起きやすかった。
・大坂は天下の台所として発展し、各藩の(蔵屋敷)が集中し、年貢米など公的な商品を扱うのを(蔵元)といい、(掛屋)は各藩や江戸屋敷への送金を担った。また民間の各地からの商品の(納屋物)も集まった。
・江戸大坂間の海運は危険がともなうため、共同保障として江戸の(十組問屋)や大坂の(二十四組問屋)が存在した。
・伊勢商人の(三井高利)は江戸で呉服屋を営み、その利益で三都や各城下町で(両替商)をはじめ、明治以降は三菱・住友とならぶ三大財閥に成長した。
・都市部の問屋のなかには農村の(豪農)とつながりを持ち、百姓に手工業生産をさせる(問屋制家内工業)をはじめた。
・18世紀前半になると商人・職人の(仲間)・(組合)が力を持ち公認されるようになる。
・(卸売市場)では、農村と都市部の間で発達し、問屋と仲買との取引が行われ、大坂では(堂島)の米市場、(雑喉場)の魚市場、(天満)の青物市場が有名で、江戸では、(日本橋)の魚市場と(神田)の青物市場が有名だった。
・京都は幕府が京都所司代と町奉行を置き、朝廷の権威を通じて(寺社)の統制を行った。(呉服屋)・(両替商)の大商人の本拠地でもあった。
確認問題
問1,江戸時代の金融について、誤っているものを1つ選べ。
イ、江戸時代の貨幣は、金・銀・銭の計数貨幣である。
銀は秤量貨幣(重さで価値が変わる貨幣)でした。
問2,江戸時代の商業について、誤っているもの1つ選べ。
ウ、海運業の相互補助のため、江戸の二十四組問屋が結成された。
江戸は十組問屋(とくみといや)です。
問3,江戸の町のようすについて、誤っているものを1つ選べ。
ア、裏長屋に店借して、日用の仕事をする人々の生活は安定していた。
「宵越しの銭は持たぬ」(1日で稼いだ金はその日に使い切る)ということわざがありますが、基本的には不安定です。
問4,江戸時代の大坂について、誤っているものを1つ選べ。
ア、大坂が諸大名の蔵屋敷が集中したので、武家地が大半を占めた。
大坂の大半は町人地でした。
やさしめの問題集です、画像をそのままクリックしてください。
江戸中期の動揺についての解答
ポイントの整理
・18世紀からは、豪農は貧しい百姓への貸付によって田畑を増やし(地主手作)を行い、村役人となり、商品作物の生産・流通や金融を取り仕切った。一方、田畑を失った百姓は小作人や年季奉公人、あるいは都市に流入した。結果、(豪農)と小作人らが対立する(村方騒動)が頻発した。
・百姓一揆は17世紀はじめ、武装蜂起や(逃散)など中世の性格をもっていたが、17世紀後半は代表者が百姓全体の要求を直訴する(代表越訴型一揆)が主で、代表者の村役人は(義民)と称えられた。17世紀末から(惣百姓一揆)など広範囲にわたる一揆が増えた。18世紀から藩に協力的な商人や村役人の家を打ちこわすことが起きた。
・藩や幕府は百姓一揆を厳しく取り締まるが、飢饉や凶作のときに多発し、明治初期までに約3,700件起きたことが確認されている。
・1732年(享保の飢饉)は西日本の凶作が原因で、江戸で(打ちこわし)がおきた。
・さらに1782年(天明の飢饉)は東北地方の壊滅的な冷害に加え、浅間山の大噴火で大量の死亡者を出し、全国で激しい(百姓一揆)や(打ちこわし)が多発した。この危機に素早く対応した白河藩主(松平定信)が老中に抜擢された。
確認問題
問1,江戸時代の民衆の反乱について、誤っているものを1つ選べ。
ア、打ちこわしは小作人たちが村役人や商家を襲撃した事件をいう。
打ちこわしは「都市」で貧しい人々が起こした事件を指します。
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江戸時代の学問についての解答
・儒学について
朱子学:理論中心 | 京学:林家など | (①藤原惺窩)1561-1619、京都相国寺の僧で、朱子学を学び広めた。 |
(②林羅山)1583-1657、①の弟子で家康に仕え、上野忍ケ丘に私塾を開き、幕府の思想的基盤となる。 | ||
(③林鳳岡)1644-1732、家綱、綱吉らに仕え、初代大学頭になる。湯島聖堂ができる。 | ||
(④木下順庵)1644-98、加賀前田家に仕え、綱吉の侍講(家庭教師)。弟子に⑤と⑥がいる。 | ||
(⑤新井白石)1657-1725、家宣・家継に仕え、正徳の治を主導した。儒教に基づく理想主義的な政策を行った。『読史余論』など。 | ||
(⑥室鳩巣)1658-1734、加賀前田綱紀に仕え、吉宗の侍講となる。 | ||
雨森芳洲1668‐1755、対馬の外交官で、中国語も朝鮮語も話せた。 | ||
(⑭柴野栗山)1736-1807、寛政の改革のとき、朱子学を正学とすることを松平定信に建言した。 | ||
南学:土佐で起きた | 谷時中1598?-1649、土佐の僧から、儒学者に | |
(⑦山崎闇斎)1618-82、朱子学と神道をあわせた「垂加神道」を唱えた。尊王論のもとになった。 | ||
野中兼山1615‐63、土佐藩家老、新田開発・殖産興業など政治を推進 | ||
陽明学:実践中心 | (⑧中江藤樹)1608-48、孝を重視。 | |
(⑨熊沢蕃山)1619-91、⑧に学び、岡山藩池田光政に仕え、『大学或問』で幕府を批判、古河藩で土木工事を指導。 | ||
大塩平八郎1793-1837、私塾洗心洞を開き、陽明学を講じた。 | ||
古学:朱子学に批判的 | 聖学 | (⑩山鹿素行)1622‐85、会津の兵学者、『聖教要論』で朱子学を批判。『中朝事実』で日本中心の中華思想を唱えた。大石内蔵助の先生。 |
古義学派 | (⑪伊藤仁斎)1627‐1706、孔子・孟子の古典に立ち返ろうと、京都に私塾古義堂を開く。 | |
古文辞学派 | (⑫荻生徂徠)1666‐1728、吉宗に仕えた。実証的な文献学から経世論を説く。『政談』など。私塾に蘐園塾(けんえんじゅく)。 | |
(⑬太宰春台)1680‐1747、⑫の弟子。武士も商業を行い、専売制度で利益を上げるべきと主張。 |
・その他の道徳
石田梅岩 | 心学をおこし、儒教を加味しつつ、商業の正当性、商人の道徳を簡単な言葉で説く |
安藤昌益 | 八戸の医者。本草学・需仏に通じ、武士の農民搾取を批判。 |
二宮尊徳 | 1832年天保の飢饉あと、農村の復興にあたり、報徳仕法を説いた。別名金次郎 |
・歴史学
林羅山 | 『本朝通鑑』:歴代天皇の歴史を編年体で記した。司馬光『資治通鑑』にならい、実証主義的な歴史叙述をめざした。 |
山鹿素行 | 『中朝事実』:日本こそが中心という考えを記した |
徳川光圀 | 『大日本史』:江戸の彰考館で編纂。大義名分による社会の安定を解く。 |
新井白石 | 『読史余論』:公家政権は九変し、武家政権は五変して徳川政権になったと、解釈。 『古史通』:日本書紀の神話時代を合理的に解釈 『藩翰譜』:大名の系譜をまとめたもの |
・国学について
戸田茂睡1629-1706 | 和歌に俗語を入れようと主張。 |
(①契沖)1640-1701 | 『万葉集代匠記』で茂睡の説を立証した。 |
(②北村季吟)1624‐1705 | 幕府の歌学方。『源氏物語湖月抄』で作者の意図を知ろうとした。 |
荷田春満1669-1736 | 古文・国史を研究。 |
(③賀茂真淵)1697‐1769 | 『国意考』で儒教・仏教の影響をうけない日本固有の思想を研究。『万葉考』 |
(④本居宣長)Ⅰ730-1801 | 「もののあはれ」を提唱。『古事記伝』を書き、国学の基礎をつくる。 |
(⑤平田篤胤)Ⅰ776-1843 | 復古神道を説き、尊王攘夷論に影響を与える。 |
塙保己一1746‐1821 | 幕府の援助で和学講談所を設け、『群書類従』を編纂した。 |
・水戸学について
前期 | 2代藩主(①徳川光圀)のもと、徳をもって治める者は力で支配する覇者に勝る大義名分論をもとに、尊王斥覇の考え。 |
後期 | 9代藩主(②徳川斉昭)のもと、藤田幽谷・④⑤らの尊王斥覇から攘夷論を展開。⇒(尊王攘夷論)に結びつく。 |
藤田幽谷1774‐1826 | 彰考館総裁として『大日本史』の編纂にあたる。 |
(③藤田東湖)1806‐55 | ②の側用人。藩政改革で弘道館を設置。『弘道館記述義』 |
(④会沢正志斎)1782-1863 | 幽谷に師事し、『新論』で(尊王攘夷論)を唱えた。 |
・尊王論について
(①竹内式部)1712‐67 | 尊王斥覇に基づき公家に儒学を講じ、宝暦事件で幕府に追放された。 |
(②山県大弐)1725‐67 | 江戸で尊王斥覇を説き、明和事件で死罪となった。 |
(③頼山陽)Ⅰ780-1832 | 安芸の人。『日本外史』で勤王思想を説いた。 |
(④平田篤胤)Ⅰ776-1843 | 儒学・仏教に影響されない復古神道を説いた。 |
・自然科学
(①貝原益軒)1630‐1714 | 『大和本草』:1300種の動植物・鉱物を分類、朱子学者 『女大学』:女子向けの道徳書 |
(②宮崎安貞)1623‐97 | 『農政全書』:農業技術の普及 |
(③関孝和)1640?‐1708 | 『発微算法』:和算の大成。代数筆算・円周率など |
(④渋川春海)1639‐1715 | 『貞享暦』:幕府の天文方。カレンダーを修正した。 |
・洋学について
(①新井白石)Ⅰ657-1725 | イタリア人宣教師を尋問し、『西洋紀聞』『采覧異言』をまとめる。 |
(②青木昆陽)Ⅰ698-1769 | 吉宗の命でオランダ語を学び、サツマイモの栽培を広めた |
(③野呂元丈)Ⅰ693-1761 | 吉宗の命でオランダ語を学び、薬物学を紹介。 |
(④前野良沢)Ⅰ723-1803 | ⑤とともに『解体新書』を訳述。 |
(⑤杉田玄白)Ⅰ733-1817 | ④とともに『解体新書』を訳述。『蘭学事始』 |
(⑥大槻玄沢)Ⅰ757-1827 | 蘭医。江戸に芝蘭堂(しらんどう)を開く。 |
稲村三伯1758-1811 | 最初のオランダ語辞書『ハルマ和解』を作成。 |
(⑦平賀源内)1728‐79 | エレキテルを発明。 |
(⑧伊能忠敬)1745-1818 | 全国の沿岸を測量。大日本沿海輿地全図 |
(⑨緒方洪庵)1810‐63 | 蘭医。適塾を開き、福沢諭吉・大村益次郎など指導。 |
(⑩佐久間象山)1811‐64 | 陽明学・蘭学・砲学を学び、開国を唱えた。 |
・学校・私塾について
・幕府の学校⇒東京大学の前身
・林羅山が家康に仕え、忍岡学塾を創設、綱吉の時代(湯島聖堂)に学問所が創設され、林鳳岡が初代大学頭になり、以後林家が大学頭を世襲。吉宗の時代から古学派の(荻生徂徠)を登用したことで、古学派と諸学派の(折衷学派)が生まれ、その中から実証中心の(考証学派)が生まれた。寛政の改革のとき、林家の家塾は(昌平坂学問所)に改められ朱子学を正学とした。
・一方、(渋川春海)が貞享暦を完成させて、幕府に天文方がおかれた。(伊能忠敬)も天文方で学び、全国の測量を始めた。高橋至時(よしとき)は西洋暦を取りいれ寛政暦を作り、1811年天文方は(蛮書和解御用)に改められた。洋書の研究は1828年シーボルト事件、1838年蛮社の獄があり、政治思想にはつながらず、医学・兵学・地理学など科学技術が中心だった。
・私塾
・17世紀中ごろから、(熊沢蕃山)は岡山に花畠教場を作り、(中江藤樹)が近江に藤樹書院を建て、
(伊藤仁斎)が京都に古義堂を始めた。
・18世紀には大坂町人の出資で(懐徳堂)が作られ、朱子学・陽明学が教えられ、富永仲基・片山蟠桃(かたやまばんとう)を排出した。江戸では(荻生徂徠)の蘐園塾(けんえんじゅく)がある。
・蘭学は大槻玄沢がはじめた江戸の(芝蘭堂)や、緒方洪庵がはじめた大坂の(適塾)、シーボルトがはじめた長崎の鳴滝塾がある。
・洗心洞は(大塩平八郎)が大坂で開いた私塾で、松下村塾は萩で開かれた。
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