高校日本史、大正時代の教科書内容を整理する無料問題です。
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前回の明治後半の問題は、こちらです。
大正時代の無料問題
歴史は暗記ではない
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大正時代の整理問題
1,次の言葉の意味を選んでください。
□1元老 □2陸軍・長州閥 □3海軍・薩摩閥 □4立憲政友会 □5立憲同志会 □6第一次護憲運動
□7立憲国民党 □8憲政会 □9第二次護憲運動 □10シベリア出兵 □11民族自決 □12協調外交
□13社会運動 □14大衆文化 □15小作争議
ア、犬養毅らを中心に憲政本党の後にできた政党で、立憲政友会に対抗した。
イ、伊藤博文と旧自由党の議員を中心に結成した政党で、政党内閣を何度か組織した。
ウ、伊藤博文、山県有朋ら総理大臣経験者が政権を退いた後も、天皇を補佐し、首相選任など影響力を持った。
エ、宮中を補佐する権限を持つ桂太郎が首相に専任されたことで、野党やジャーナリズムから批判を浴び、民衆が議会を包囲した運動
オ、桂太郎が立憲政友会に対して結成しようとした政党で、山本内閣の後、大隈重信を首相に与党となり、中国へ二十一カ条の要求をした。
カ、陸軍出身の寺内正毅が、立憲同志会などまとめて結成した政党。
キ、1922年日本農民組合が結成され、小作料の削減や小作条件の改善を訴えた。
ク、日露戦争後、財政難のなか戦艦建造を政府に要求し、大正時代は山本権兵衛、加藤友三郎が首相になった。
ケ、1911年辛亥革命を受け、2個師団増設を政府に要求し、桂太郎、寺内正毅が首相になった。
コ、パリ講和会議でアメリカのウィルソン大統領が提唱した考えで、朝鮮の三一独立運動、中国の五四運動につながった。
サ、第一次世界大戦後、戦争再発の防止と列強間の協調をめざす動きに、日本も歩調を合わせた外交をした。
シ、米騒動、工場労働者の急増、物価高騰をうけ、労働運動、社会主義運動などさかんになり男性普通選挙につながった。
ス、大戦中にロシア革命が起き、英・仏・米など連合国が干渉戦争をしかけ、日本も加わった。
セ、国民のほとんどが学校教育を受け、都市の労働者やサラリーマンを相手にしたマス=メディアによって作られた文化
ソ、貴族院の清浦圭吾が首相となり、政党を排除したことをうけ、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部がおこした運動。清浦内閣の後、普通選挙法を成立させた。
2,大正時代の首相について、次の選択肢から選んでください。
□1西園寺公望(さいおんじきんもち) □2桂太郎 □3山本権兵衛 □4大隈重信
□5寺内正毅(てらうちまさたけ) □6原敬 □7高橋是清(たかはしこれきよ)
□8清浦圭吾(きようらけいご) □9加藤友三郎 □10 加藤高明(かとうたかあき)
ア、陸軍・長州閥の出身の、山県有朋の部下で、第一次護憲運動をまねき50日あまりで退陣した。
イ、海軍・薩摩閥の出身で、政党員が政府高官につく道を作ったが、汚職事件で退陣した。
第2次内閣では関東大震災が発生した。
ウ、陸軍出身で、前政権与党をまとめて憲政会を作ったが、米騒動により退陣した。
エ、海軍出身だが、協調外交を推進しシベリアからの撤兵、軍縮を行った。
オ、立憲政友会の総裁で、ワシントン会議で日英同盟の破棄、山東権益の返還を決定した。
カ、立憲政友会の総裁で、伊藤博文の部下だったが、2個師団増設をめぐり陸軍大臣が単独辞職したため、退陣に追い込まれた。
キ、立憲政友会の総裁で、衆議院議員だったため平民宰相と呼ばれたが、普通選挙には慎重だった。大戦後の恐慌で財政が行き詰まり、暗殺された。
ク、憲政会の総裁で、第二次護憲運動のあと首相となり、普通選挙法と治安維持法を成立させ、日ソ国交樹立をした。
ケ、元老への批判をかわすため、首相に抜擢され、立憲同志会を与党とした。外相加藤高明の主導でドイツの山東権益を接収し、袁世凱に二十一カ条の要求を認めさせた。
コ、枢密院議長で、陸相・海相以外の大臣を貴族院のみから選んだため、第二次護憲運動につながった。
大正時代の政治についての無料問題
ポイントの整理
・伊藤博文と山県有朋は政界を退いていたが、( )として首相の選任など発言力を持った。
・1901年から13年まで、伊藤博文の部下で立憲政友会の(1 )と、山県有朋の部下で陸軍・長州出身の(2 )が交代で首相を務めた。この期間を( )という。
・第2次(1 )内閣のとき、中国で辛亥革命が発生し、陸軍は帝国国防方針を背景に2個師団増設をせまったが、拒否した。陸軍大臣は不満を感じ単独辞職したため、内閣も崩れた。
・第3次(2 )内閣は、内大臣兼侍従長のあとに首相になったため、立憲政友会の( )と立憲国民党の( )から非難され、( )に発展し、退陣した。
・第1次( )内閣は、立憲政友会を与党に結成し、( )など改正して政党員が政府要職に就く道を開いたが、海軍の汚職事件( )が発覚し、退陣した。
・第2次( )内閣は、( )を与党に結成され、1915年の総選挙に圧勝した後、2個師団増設を決めた。
・欧州ではイギリスなど( )とドイツなど( )が対立し、1914年第一次世界大戦が勃発した。日本は外相( )のもと、日英同盟を口実に中国にあったドイツの( )権益を接収し、中華民国の(3 )に対して( )を飲ませた。これに内外から批判があがった。
・(4 )内閣は陸軍出身で、3の後継者段祺瑞(だんきずい)に( )を与えて、中国への権益拡大を図った。これに批判的だったアメリカと( )を結んで、関係を調整した。また、ロシア革命が起き( )政権が生まれたため、1918年アメリカ、イギリス、フランスなどと(5 )をした。
・4内閣は、前内閣の与党会派をあつめて( )を結成し、立憲政友会に対抗しようとした。日本国内では大戦景気で工場労働者が増加し、都市への人口集中が進んだところ、5に期待した米価格の急騰が原因で( )が全国に広がり、内閣が退陣した。
・(6 )内閣は、立憲政友会の総裁で衆議院議員だったため「平民宰相」と呼ばれた。第一次世界大戦終結の際、元首相の( )を全権としてパリ講和会議に派遣し、1919年6月( )条約で日本は、旧ドイツの( )権益と赤道以北の南洋諸島の( )を得た。中国ではこれに反対して、( )が起き、朝鮮でも民族自決を背景に( )が起きた。
・アメリカ大統領( )の提案で、1920年( )が結成され、日本も常任理事国に入ったが、アメリカとソ連は不参加だった。
・6は普通選挙には慎重で、選挙権の納税資格を3円以下に引き下げ、( )の導入にとどまった。鉄道の拡充、公立・私立大学の設置など掲げたが、大戦後の不況で財政がゆきづまり、1921年に6は暗殺された。
確認問題
問1、大正時代の首相について、それぞれどのような勢力・政党の出身か答えてください。
西園寺公望( )、桂太郎( )、山本権兵衛( )、
大隈重信( )、寺内正毅( )、原敬( )、
問2,大正時代の内閣について、それぞれ崩壊した理由を答えてください。
西園寺公望( )、桂太郎( )、山本権兵衛( )、
大隈重信( )、寺内正毅( )、原敬( )
B, 第一次護憲運動が高まり、民衆が議会を包囲した
C, 内相大浦兼武の汚職事件(覚えなくてよい)
D, 2個師団増設をめぐり陸軍大臣が単独辞職した
E, シベリア出兵をきっかけに米騒動が起きたため
F, 海軍の汚職事件(ジーメンス事件)が発覚したため
問3、大正時代の外交について、これらの事件を年代順に並べてください。
ア、ロシア革命 イ、第一次世界大戦の勃発 ウ、辛亥革命 エ、二十一カ条の要求 オ、三・一独立運動
カ、西原借款 キ、石井・ライジング協定 ク、桂・タフト協定 ケ、国際連盟の発足 コ、ワシントン会議
ワシントン体制と普通選挙についての無料問題
ポイントの整理
・( )内閣は、1921年( )に加藤友三郎ら全権を派遣した。四カ国条約で( )の廃棄が決定し、九カ国条約で旧ドイツの( )を中国に返還することが決定し、海軍軍縮条約で海軍内部の不満をおさえ、米:日=5:3で主力艦を制限することにした。以後、列強と歩調を合わせる( )を展開した。
・海軍出身の( )内閣は軍縮を実行し、( )から撤兵を行った。
・続く第2次( )内閣は、1923年( )の翌日に誕生し、震災の処理にあたった。混乱の中、軍隊によって社会主義者が殺害される( )や、憲兵により大杉栄が殺害される事件が起きた。昭和天皇(当時、摂政宮)が襲撃された( )で責任をとり、退陣した。
・( )内閣は、枢密院議長から首相となり、大臣を貴族院議員で固めたため、(1 )・(2 )・革新倶楽部の3会派が( )を起こした。
・( )内閣は、総選挙で衆議院第一党となった( )の総裁が首相となり、護憲三派の連立政権が成立した。以後、(1 )と(2 )のち( )が政権を交互に担当する2大政党制が確立した(1932年五・一五事までの8年)。
・1925年( )により男子普通選挙が実現し、外相( )による協調外交でソ連との国交を回復した。しかし、共産主義思想の波及を警戒して( )を制定し、国体の変容や私有財産の否定も目的とする結社や参加者を取締った。
・1は陸軍・長州閥の( )を総裁に迎え、革新倶楽部も吸収したため、連立が解消された。
・1926年第1次( )内閣は、加藤高明の後継者として結成されたが、同年末に昭和に改元され、1927年( )の処理に失敗して退陣した。
確認問題
問1、ワシントン会議以降の首相について、それぞれどのような勢力・政党の出身か答えてください。
高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦圭吾、加藤高明、若槻礼次郎、
問2、協調外交について、加藤友三郎と幣原喜重郎が行ったことを選んでください。
加藤友三郎、 幣原喜重郎、
問3、第二次護憲運動の結果、立憲政友会と憲政会(立憲民政党)が交互に政権を担う状態を何と言うか。
大正時代の経済・社会についての無料問題
ポイントの整理
・第一次世界大戦は日本に( )をもたらし、アジア市場で綿織物の市場を広げ、イギリス、フランス、ロシアなど連合国に軍需品を輸出し、( )に転換した。中国には( )と呼ばれる紡績工場が作られ、生糸が好景気だった( )に輸出された。
・世界的な船舶不足から海運・造船業が繫栄し、日本は世界( )位の海運国となり、( )が生まれた。鉄鋼業では( )の鞍山製鉄所が創業し、生産を伸ばした。交戦国( )からの薬品・肥料に代わり、日本の( )が発展した。その結果、工業生産額が( )生産額を超え、重化学工業の発展で男性労働者が増加した。
・大正時代の社会運動を支えた思想が、( )の「天皇機関説」と( )の民本主義である。1918年黎明会など普及活動により、( )の実現と( )への期待が生まれた。
・1912年( )が友愛会を組織し、労働者の権利向上を目指したが、1921年には労働者と資本家の階級闘争主義に転換した。
・工業の発展に対して、農業は停滞していた。1922年賀川豊彦らにより( )が組織され、全国で小作料の引き下げを求め( )が急増した。
・社会主義運動も( )の影響を受け、再び盛り上がり、1922年堺利彦らがコミンテルンの日本支部として( )を非合法に結成された。
・女性解放運動は( )が文学団体の青鞜社に始まり、( )らが新婦人協会を結成して女性の参政権を訴えた。
・西光万吉らにより1922年( )が結成され、部落解放運動を進めた。
確認問題
問1、第一次護憲運動から男性普通選挙制の成立までの思潮・社会運動を何と呼ぶか。
問2,大正時代の社会運動について、次の表を完成させてください。
労働運動 | 1912、鈴木文治が( )を結成、当初は労資協調 1920、初のメーデー 1921、日本労働総同盟、階級闘争主義へ |
農民運動 | 1922、賀川豊彦らが( )を結成し、小作争議を指導 |
社会主義運動 | 1920、日本社会主義同盟で一堂に会す 1922、( )の結成、コミンテルン(ソ連の国際指導組織)の日本支部 |
女性運動 | 1911、平塚らいてうらが( )を結成 1920、市川房江らが( )を設立し、治安警察法が改正される |
部落解放運動 | 1922、西光万吉らが( )を結成 |
大正時代の文化についての無料問題
ポイントの整理
・第一次世界大戦後、都市化が進み( )が出現し、タイピスト・電話交換手など( )が増加した。これらの人々を対象に( )が生まれた。
・マスメディアとして、新聞雑誌の発行部数が増え、総合雑誌に( )・( )、大衆娯楽雑誌に( )などが創刊された。( )とよばれる低価格の本が大量出版され、1925年から( )が始まった。映画は、1930年代から( )と呼ばれる有声映画が広まった。
・学問の分野では1918年原内閣が( )を公布して、公立・私立の大学が設立された。大正デモクラシーの風潮のもと( )が知識人に影響を与えた。
・哲学では( )『善の研究』、民俗学では( )『遠野物語』などが出た。
・理系では1917年( )が設立され、( )がKS磁石鋼(永久磁石)を発明した。
・文学では雑誌( )を中心に( )、武者小路実篤らが人道主義・理想主義を掲げ、( )や谷崎潤一郎らの( )、( )、菊池寛らの( )が活躍した。
・大正末期から社会主義運動、労働運動がさかんになり、( )運動が起こり、( )『蟹工船』などが有名である。
・美術では文部省による文展に対抗して、在野の西洋画家たちにより( )や春陽会が結成された。日本画では( )らが日本美術院を再興した。
確認問題
問1、次の表を完成させてください。
学問 | 文系 | ( )『善の研究』、( )『遠野物語』 ( )『貧乏物語』、 |
理系 | ( )KS磁石鋼、 | |
文学 | ( )派 | 雑誌『白樺』、( )、志賀直哉、有島武郎、 |
( )派 | 雑誌『スバル』、( )、永井荷風、 | |
新思潮派 | 雑誌『新思潮』、( )、菊池寛、 | |
( )文学 | 雑誌『種蒔く人』⇒『戦旗』 ( )、徳永直、 | |
新感覚派 | 雑誌『文芸時代』、( )、横光利一、 | |
大衆文学 | 中里介山、直木三十五、吉川英治、 | |
美術 | 絵画 | 1914、( ):梅原龍三郎、安井曽太郎、 1914、日本美術院の再興:( ) 1922、( ):岸田劉生 |
演劇 | 1924、( ):小山内薫 |
大正時代の年表問題
1,大正時代の年表について、完成させてください。
内閣 | 所属 | 内政 | 外交 |
第2次( ) | 立憲政友会 | 1912、陸軍2個師団増設で陸相が単独辞職 | 1911、辛亥革命で清朝滅ぶ 北京の( )ら軍閥と広東の革命政府に分裂 |
第3次( ) | 陸軍 | 1912、( )が起こり、内閣は53日で退陣 | |
第1次( ) | 海軍 | 与党は( ) 1913、文官任用令、軍部大臣現役武官制の緩和⇒政党員も政府要職に 1914、( )で退陣 | |
第2次 ( ) | 立憲同志会 | 1915、総選挙で圧勝 2個師団増設を決定 | 1914、第一次世界大戦が勃発 1915、ドイツの山東権益を接収 ( ) |
( ) | 陸軍 | 1918、( )がおこり、退陣 | 1917、( )で段祺瑞政権に資金貸与 ( )で日米の中国権益を調整 1918、( ) |
( ) | 立憲政友会 | 1918、大学令 1919、選挙法の改正、3円以上に緩和、小選挙区制 1920、戦後恐慌 1921、暗殺 | 1919、( ) 全権は( ) ヴェルサイユ条約の締結 ( ):朝鮮 ( ):中国 1920、国際連盟の発足 |
( ) | 立憲政友会 | 1921、( ) 全権は( ) 四カ国条約で( )廃棄 1922、九カ国条約で山東権益の返還 ワシントン海軍軍縮条約 | |
( ) | 海軍 | 軍縮の実施 | 1922、シベリア撤兵 |
第2次 ( ) | 海軍 | 1923、( )が発生 亀戸事件、甘粕事件 虎の門事件で退陣 | |
( ) | 貴族院 | 1924、( )が起きる 護憲三派が反発 | |
( ) | 連立政権 のち ( ) | 1925、( ):納税資格撤廃 ( ):社会主義運動の取締り ( ):ソ連と国交回復 立憲政友会が革新倶楽部を吸収⇒( )が単独与党 | |
第1次 ( ) | 1927、金融恐慌が発生 鈴木商店が倒産 | 1926、中国国民党が北伐を開始 |
大正時代の解答
整理問題の解答
1,次の言葉の意味を選んでください。
□1元老 ウ、伊藤博文、山県有朋ら総理大臣経験者が政権を退いた後も、首相選任など影響力を持った。
□2陸軍・長州閥 ケ、2個師団増設を政府に要求し、桂太郎、寺内正毅が首相になった。
□3海軍・薩摩閥 ク、戦艦建造を政府に要求し、山本権兵衛、加藤友三郎が首相になった。
□4立憲政友会 イ、伊藤博文と旧自由党の議員を中心に結成した政党で、政党内閣を何度か組織した。
□5立憲同志会 オ、桂太郎が立憲政友会に対して結成しようとした政党で、大隈重信内閣では与党。
□6第一次護憲運動 エ、宮中を補佐した桂太郎が首相に専任されたことで、野党やジャーナリズムから批判を浴び、民衆が議会を包囲した運動
□7立憲国民党 ア、犬養毅らを中心に憲政本党の後にできた政党で、立憲政友会に対抗した。
□8憲政会 カ、陸軍出身の寺内正毅が、立憲同志会などまとめて結成した政党。
□9第二次護憲運動 ソ、貴族院の清浦圭吾首相が、政党を排除したことをうけ、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部がおこした運動。
□10シベリア出兵 ス、ロシア革命が起き、英・仏・米など連合国が干渉戦争をしかけ、日本も加わった。
□11民族自決 コ、アメリカのウィルソン大統領が提唱した考えで、植民地からの独立運動に影響を与えた。
□12協調外交 サ、第一次世界大戦後、戦争再発の防止と列強間の協調をめざす動きに、歩調を合わせた外交。
□13社会運動 シ、米騒動、工場労働者の急増、物価高騰をうけ、労働運動、社会主義運動などさかんになり男性普通選挙につながった。
□14大衆文化 セ、国民のほとんどが学校教育を受け、都市の労働者やサラリーマンを相手にしたマス=メディアによって作られた文化
□15小作争議 キ、1922年日本農民組合が結成され、小作料の削減や小作条件の改善を訴えた。
2,大正時代の首相について、次の選択肢から選んでください。
□1西園寺公望 カ、立憲政友会の総裁で、2個師団増設をめぐり退陣に追い込まれた。
□2桂太郎 ア、陸軍・長州閥の出身の、山県有朋の部下で、第一次護憲運動をまねき50日あまりで退陣した。
□3山本権兵衛 イ、海軍・薩摩閥の出身で、政党員が政府高官につく道を作ったが、汚職事件で退陣した。
第2次内閣では関東大震災が発生した。
□4大隈重信 ケ、立憲同志会を与党とした。外相加藤高明の主導で袁世凱に二十一カ条の要求を認めさせた。
□5寺内正毅 ウ、陸軍出身で、前政権与党をまとめて憲政会を作ったが、米騒動により退陣した。
□6原敬 キ、立憲政友会の総裁で、衆議院議員だったため平民宰相と呼ばれたが、普通選挙には慎重だった。大戦後の恐慌で財政が行き詰まり、暗殺された。
□7高橋是清 オ、立憲政友会の総裁で、ワシントン会議で日英同盟の破棄、山東権益の返還を決定した。
□8清浦圭吾 コ、枢密院議長で、陸相・海相以外の大臣を貴族院のみから選んだため、第二次護憲運動につながった。
□9加藤友三郎 エ、海軍出身だが、協調外交を推進しシベリアからの撤兵、軍縮を行った。
□10 加藤高明 ク、憲政会の総裁で、第二次護憲運動のあと首相となり、普通選挙法と治安維持法を成立させ、日ソ国交樹立をした。
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大正時代の政治についての解答
ポイントの整理
・伊藤博文と山県有朋は政界を退いていたが、(元老)として首相の選任など発言力を持った。
・1901年から13年まで、伊藤博文の部下で立憲政友会の(1西園寺公望)と、山県有朋の部下で陸軍・長州出身の(2桂太郎)が交代で首相を務めた。この期間を(桂園時代)という。
・第2次(1西園寺公望)内閣のとき、中国で辛亥革命が発生し、陸軍は帝国国防方針を背景に2個師団増設をせまったが、拒否した。陸軍大臣は不満を感じ単独辞職したため、内閣も崩れた。
・第3次(2桂太郎)内閣は、内大臣兼侍従長のあとに首相になったため、立憲政友会の(尾崎行雄)と立憲国民党の(犬養毅)から非難され、(第一次護憲運動)に発展し、退陣した。
・第1次(山本権兵衛)内閣は、立憲政友会を与党に結成し、(文官任用令)など改正して政党員が政府要職に就く道を開いたが、海軍の汚職事件(ジーメンス事件)が発覚し、退陣した。
・第2次(大隈重信)内閣は、(立憲同志会)を与党に結成され、1915年の総選挙に圧勝した後、2個師団増設を決めた。
・欧州ではイギリスなど(三国協商)とドイツなど(三国同盟)が対立し、1914年第一次世界大戦が勃発した。日本は外相(加藤高明)のもと、日英同盟を口実に中国にあったドイツの(山東)権益を接収し、中華民国の(3袁世凱)に対して(二十一カ条の要求)を飲ませた。これに内外から批判があがった。
・(4寺内正毅)内閣は陸軍出身で、3の後継者段祺瑞(だんきずい)に(西原借款)を与えて、中国への権益拡大を図った。これに批判的だったアメリカと(石井・ライジング協定)を結んで、関係を調整した。また、ロシア革命が起き(社会主義)政権が生まれたため、1918年アメリカ、イギリス、フランスなどと(5シベリア出兵)をした。
・4内閣は、前内閣の与党会派をあつめて(憲政会)を結成し、立憲政友会に対抗しようとした。日本国内では大戦景気で工場労働者が増加し、都市への人口集中が進んだところ、5に期待した米価格の急騰が原因で(米騒動)が全国に広がり、内閣が退陣した。
・(6原敬)内閣は、立憲政友会の総裁で衆議院議員だったため「平民宰相」と呼ばれた。第一次世界大戦終結の際、元首相の(西園寺公望)を全権としてパリ講和会議に派遣し、1919年6月(ヴェルサイユ)条約で日本は、旧ドイツの(山東)権益と赤道以北の南洋諸島の(委任統治権)を得た。中国ではこれに反対して、(五・四運動)が起き、朝鮮でも民族自決を背景に(三・一独立運動)が起きた。
・アメリカ大統領(ウィルソン)の提案で、1920年(国際連盟)が結成され、日本も常任理事国に入ったが、アメリカとソ連は不参加だった。
・6は普通選挙には慎重で、選挙権の納税資格を3円以下に引き下げ、(小選挙区)の導入にとどまった。鉄道の拡充、公立・私立大学の設置など掲げたが、大戦後の不況で財政がゆきづまり、1921年に6は暗殺された。
確認問題
問1、内閣の出身勢力と政党
西園寺公望(立憲政友会)、桂太郎(陸軍)、山本権兵衛(海軍)、
大隈重信(立憲同志会)、寺内正毅(陸軍)、原敬(立憲政友会)、
問2,内閣の崩壊した理由
西園寺公望(D)、桂太郎(B)、山本権兵衛(F)、
大隈重信(C)、寺内正毅(E)、原敬(A)
B, 第一次護憲運動が高まり、民衆が議会を包囲した
C, 内相大浦兼武の汚職事件(覚えなくてよい)
D, 2個師団増設をめぐり陸軍大臣が単独辞職した
E, シベリア出兵をきっかけに米騒動が起きたため
F, 海軍の汚職事件(ジーメンス事件)が発覚したため
問3、外交について、年代順に並べてください。
ク 桂・タフト協定(1905年、日本の韓国支配とアメリカのフィリピン支配を相互に認める)
ウ 辛亥革命(1911年)
イ 第一次世界大戦の勃発(1914年)
エ 二十一カ条の要求(1915年)
カ 西原借款(1917年)
キ 石井・ライジング協定(1917年 日米間の中国権益を調整)
ア ロシア革命(1917年)
オ 三・一独立運動(1919年)
ケ 国際連盟の発足(1920年)
コ ワシントン会議(1921年)
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ワシントン体制と普通選挙についての解答
ポイントの整理
・(高橋是清)内閣は、1921年(ワシントン会議)に加藤友三郎ら全権を派遣した。四カ国条約で(日英同盟)の廃棄が決定し、九カ国条約で旧ドイツの(山東権益)を中国に返還することが決定し、海軍軍縮条約で海軍内部の不満をおさえ、米:日=5:3で主力艦を制限することにした。以後、列強と歩調を合わせる(協調外交)を展開した。
・海軍出身の(加藤友三郎)内閣は軍縮を実行し、(シベリア)から撤兵を行った。
・続く第2次(山本権兵衛)内閣は、1923年(関東大震災)の翌日に誕生し、震災の処理にあたった。混乱の中、軍隊によって社会主義者が殺害される(亀戸事件)や、憲兵により大杉栄が殺害される事件が起きた。昭和天皇(当時、摂政宮)が襲撃された(虎の門事件)で責任をとり、退陣した。
・(清浦圭吾)内閣は、枢密院議長から首相となり、大臣を貴族院議員で固めたため、(1立憲政友会)・(2憲政会)・革新倶楽部の3会派が(第二次護憲運動)を起こした。
・(加藤高明)内閣は、総選挙で衆議院第一党となった(憲政会)の総裁が首相となり、護憲三派の連立政権が成立した。以後、(1立憲政友会)と(2憲政会)のち(立憲民政党)が政権を交互に担当する2大政党制が確立した(1932年五・一五事までの8年)。
・1925年(普通選挙法)により男子普通選挙が実現し、外相(幣原喜重郎)による協調外交でソ連との国交を回復した。しかし、共産主義思想の波及を警戒して(治安維持法)を制定し、国体の変容や私有財産の否定も目的とする結社や参加者を取締った。
・1は陸軍・長州閥の(田中義一)を総裁に迎え、革新倶楽部も吸収したため、連立が解消された。
・1926年第1次(若槻礼次郎)内閣は、加藤高明の後継者として結成されたが、同年末に昭和に改元され、1927年(金融恐慌)の処理に失敗して退陣した。
確認問題
問1、首相の勢力・政党
高橋是清(立憲政友会)、加藤友三郎(海軍)、山本権兵衛(海軍)、清浦圭吾(枢密院)、加藤高明(憲政会)、若槻礼次郎(憲政会)、
問2、協調外交
加藤友三郎(ワシントン海軍軍縮条約の締結、山東権益の中国返還、日英同盟の破棄、シベリア撤兵)
幣原喜重郎(日ソ国交樹立)
問3、第二次護憲運動の結果、立憲政友会と憲政会(立憲民政党)が交互に政権を担う状態を何と言うか。
憲政の常道
大正時代の経済・社会についての解答
ポイントの整理
・第一次世界大戦は日本に(大戦景気)をもたらし、アジア市場で綿織物の市場を広げ、イギリス、フランス、ロシアなど連合国に軍需品を輸出し、(債権国)に転換した。中国には(在華紡)と呼ばれる紡績工場が作られ、生糸が好景気だった(アメリカ)に輸出された。
・世界的な船舶不足から海運・造船業が繫栄し、日本は世界( 3 )位の海運国となり、(船成金)が生まれた。鉄鋼業では(満鉄)の鞍山製鉄所が創業し、生産を伸ばした。交戦国(ドイツ)からの薬品・肥料に代わり、日本の(化学工業)が発展した。その結果、工業生産額が(農業)生産額を超え、重化学工業の発展で男性労働者が増加した。
・大正時代の社会運動を支えた思想が、(美濃部達吉)の「天皇機関説」と(吉野作造)の民本主義である。1918年黎明会など普及活動により、(普通選挙)の実現と(政党内閣)への期待が生まれた。
・1912年(鈴木文治)が友愛会を組織し、労働者の権利向上を目指したが、1921年には労働者と資本家の階級闘争主義に転換した。
・工業の発展に対して、農業は停滞していた。1922年賀川豊彦らにより(日本農民組合)が組織され、全国で小作料の引き下げを求め(小作争議)が急増した。
・社会主義運動も(ロシア革命)の影響を受け、再び盛り上がり、1922年堺利彦らがコミンテルンの日本支部として(日本共産党)を非合法に結成された。
・女性解放運動は(平塚らいてう)が文学団体の青鞜社に始まり、(市川房江)らが新婦人協会を結成して女性の参政権を訴えた。
・西光万吉らにより1922年(全国水平社)が結成され、部落解放運動を進めた。
確認問題
問1、大正デモクラシー
問2,大正時代の社会運動について、次の表を完成させてください。
労働運動 | 1912、鈴木文治が(友愛社)を結成、当初は労資協調 1920、初のメーデー 1921、日本労働総同盟、階級闘争主義へ |
農民運動 | 1922、賀川豊彦らが(日本農民組合)を結成し、小作争議を指導 |
社会主義運動 | 1920、日本社会主義同盟で一堂に会す 1922、(日本共産党)の結成、コミンテルン(ソ連の国際指導組織)の日本支部 |
女性運動 | 1911、平塚らいてうらが(青鞜社)を結成 1920、市川房江らが(新婦人協会)を設立し、治安警察法が改正される |
部落解放運動 | 1922、西光万吉らが(全国水平社)を結成 |
大正時代の文化についての解答
ポイントの整理
・第一次世界大戦後、都市化が進み(サラリーマン)が出現し、タイピスト・電話交換手など(職業婦人)が増加した。これらの人々を対象に(大衆文化)が生まれた。
・マスメディアとして、新聞雑誌の発行部数が増え、総合雑誌に(中央公論)・(改造)、大衆娯楽雑誌に(キング)などが創刊された。(円本)とよばれる低価格の本が大量出版され、1925年から(ラジオ放送)が始まった。映画は、1930年代から(トーキー)と呼ばれる有声映画が広まった。
・学問の分野では1918年原内閣が(大学令)を公布して、公立・私立の大学が設立された。大正デモクラシーの風潮のもと(マルクス主義)が知識人に影響を与えた。
・哲学では(西田幾多郎)『善の研究』、民俗学では(柳田国男)『遠野物語』などが出た。
・理系では1917年(理化学研究所)が設立され、(本多光太郎)がKS磁石鋼(永久磁石)を発明した。
・文学では雑誌(白樺)を中心に(有島武郎)、武者小路実篤らが人道主義・理想主義を掲げ、(永井荷風)や谷崎潤一郎らの(耽美派)、(芥川龍之介)、菊池寛らの(新思潮派)が活躍した。
・大正末期から社会主義運動、労働運動がさかんになり、(プロレタリア文学)運動が起こり、(小林多喜二)『蟹工船』などが有名である。
・美術では文部省による文展に対抗して、在野の西洋画家たちにより(二科会)や春陽会が結成された。日本画では(横山大観)らが日本美術院を再興した。
確認問題
問1、次の表を完成させてください。
学問 | 文系 | (西田幾多郎)『善の研究』、(柳田国男)『遠野物語』 (河上肇)『貧乏物語』、 |
理系 | (本多光太郎)KS磁石鋼、 | |
文学 | (白樺)派 | 雑誌『白樺』、(武者小路実篤)、志賀直哉、有島武郎、 |
(耽美)派 | 雑誌『スバル』、(谷崎潤一郎)、永井荷風、 | |
新思潮派 | 雑誌『新思潮』、(芥川龍之介)、菊池寛、 | |
(プロレタリア)文学 | 雑誌『種蒔く人』⇒『戦旗』 (小林多喜二)、徳永直、 | |
新感覚派 | 雑誌『文芸時代』、(川端康成)、横光利一、 | |
大衆文学 | 中里介山、直木三十五、吉川英治、 | |
美術 | 絵画 | 1914、(二科会):梅原龍三郎、安井曽太郎、 1914、日本美術院の再興:(横山大観) 1922、(春陽会):岸田劉生 |
演劇 | 1924、(築地小劇場):小山内薫 |
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