高校日本史、平安時代の無料練習問題です。
歴史が苦手な人、定期テスト対策、模試で40点以上取ったことない、ような人に合わせています。
平安初期から中期までの練習問題と年表を載せています。
794年から1185年まで、初期・中期・後期で3つの特徴があります。
- 初期:律令の立て直し・中国風文化、密教を重視
- 中期:藤原氏が最強、かな文字など日本風貴族文化、極楽に転生したい系の仏教
- 後期:院政と武士が主役、絵巻物、極楽信仰が全国に広がる
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このページのつづき、平安後期(院政期)はこちらです。
日本史(平安時代)の練習問題
歴史は暗記科目じゃない!
歴史が苦手な人は、歴史は暗記することが多い、とよく言いますよね。
しかし、言葉をいくら暗記しても、すぐに忘れてしまうのは普通です。
歴史が得意な僕でも、教科書の内容をけっこう忘れています。
歴史は、教科書・資料集をちゃんと読んで理解しているか、が問われる科目です!
この練習問題のおすすめの使い方はこちら!
- 1回目は教科書を読みながら解く、2回目以降は理解できているかのチェック
- 年表で内容を時代順に整理する
- ポイントの整理を音読する
平安初期の政治についての練習問題
ポイントの整理
・桓武・嵯峨・清和天皇の時代は、( )の立て直しを行った。
・桓武天皇の時代、784年に長岡京への遷都のとき藤原種継の暗殺などの政変や洪水被害によって、794年( )に再び遷都する。
・桓武天皇は国司の取締りを厳しくするため、令で定められていない官職の( )のうち、国司の交代に際し事務手続きを監視する( )を置く。また、民衆の負担を減らす政策を行ったが効果は薄い。
・奈良時代は、日本海側に秋田城、太平洋側に( )を置く。
・802年征夷大将軍( )が( )を帰順させ、鎮守府を北上川の上流の( )に置き、東北の軍事拠点となる。
恭仁京(くにきょう)、平安京、平城京、大野城、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)、刀伊、
坂上田村麻呂、シャクシャイン、阿弖流為(アテルイ)、紀古佐美、胆沢城(いさわじょう)、
例外官、令外官(りょうげのかん)、浮浪、逃散(ちょうさん)、偽籍、健児(こんでい)、多賀城、
確認問題
問1,桓武天皇が国司を取り締まりを厳しくしたり、民衆の負担を減らそうとしたりしたのは、なぜか。
問2、桓武天皇が行った政策のうち、令に定められていない新たな官職を何というか。
問3、桓武天皇が民衆の負担を減らすため軍団を廃止して、郡司の子弟や志願兵で構成された兵を何というか。
問4,桓武天皇は、なぜ平安京造営と蝦夷との戦争を停止したか。
平安初期の改革についての練習問題
ポイントの整理
・嵯峨天皇は( )をきっかけに政策を実行する。
・令外官のひとつ( )は、天皇の命令を太政官たちにすぐに伝える秘書官で、北家の( )が初代を務める。
・( )は都の警察・裁判など治安維持をはかる組織。
・嵯峨天皇の時代の格と式は( )にまとめられ、貞観・延喜とまとめて( )という。令の解釈を公式に統一した本を( ) という。
令義解(りょうのぎげ)、蔵人頭(くろうどのとう)、公卿、薬子の変、
確認問題
問1、令外官のひとつで、天皇の命令を太政官にすみやかに伝える秘書官を何というか。
問2、律令の補足・修正した箇所を何というか。
問3、嵯峨天皇の時代の格・式を集めたものを何というか。
問4、令の公式解釈を記した本を何というか。
弘仁・貞観文化の練習問題
難しい言葉が多いけど、漢詩・密教・まんだらが特徴です。
ポイントの整理
・平安初期は平安京中心の貴族文化で、宮廷では( )が重んじられ、仏教は( )が重視された。
・代表的な文人として、( )天皇・( )・( )・小野篁(たかむら)などがいる。
・空海は、漢詩文の書き方を批評した( )や詩文集の( )を書き、書道が有名で、嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに( )と称されている。
・官僚になるための学校、大学では儒教を学習する( )や中国の歴史や文学を学習する( )がさかんになり、貴族は一族の子弟のための寄宿舎として( )を設けた。
・最澄と空海は唐で( )を学び、平安初期に天皇・貴族の庇護を受けた。
・最澄は( )に本山を置き、( )を開いたが、奈良仏教と戒壇をめぐり対立し、( )を書いて反論した。
・最澄のあと、( )が台密を完成させ、浄土信仰や鎌倉仏教にも派生した。
・空海は高野山金剛峯寺に本山を置き、( )を開き、( )で仏教の優位性を説き、嵯峨天皇から( )を与えられた。
・密教の登場により、神社の中に神宮寺を立てたり、寺院に鎮守を祭る( )がすすみ、山岳信仰と結びつき( )の源流が出来あがった。
確認問題
問1、平安初め文芸を中心に国家の隆盛を目指す思想を何というか。
問2、貴族が一族の子弟の教育に設けた寄宿舎を何というか。
問3、空海が開き、庶民も学ぶことができた学校は何か。
問4、密教は山岳信仰と結びつき何の源流になったか。
問5、密教の世界(金剛界・胎蔵界)を構図化した絵を何と言うか。
藤原北家の野望についての練習問題
藤原北家は中臣鎌足の孫、房前(ふささき)を祖とする一族です。冬嗣から後、すごい権力を握ります。
①~⑤には人物名、事件の内容は記号、その他の空欄には語句、をぞれぞれ埋めてください。
天皇 | 藤原 | 特色 | できごと |
SaGa | (① ) | 北家の台頭 | 810①、蔵人頭になる 810、薬子の変:( ) |
淳和(じゅんな) | |||
仁明(にんみょう | (② ) | 842、承和の変:( ) | |
文徳(もんとく) | 摂関政治の開始 | 857、②太政大臣になる 858、②、事実上の( )になる | |
清和(せいわ) | 866、応天門の変:( ) ⇒②、正式に( )になる | ||
(③ ) | 872、③、正式に( )になる | ||
陽成(ようぜい) | |||
光孝(こうこう) | 887、③、正式に( )になる | ||
宇多(うだ) | 888、阿衡の紛議:( ) | ||
(④ ) | 891、(⑤ )が蔵人頭になる | ||
894、遣唐使を停止 | |||
DAIGO | 899、⑤が右大臣に、④が左大臣になる 901、昌泰の変:( ) 天皇が直接政治をしたため、( )という | ||
朱雀(すざく) | 忠平 | 935-41:承平・天慶の乱(藤原純友・平将門) | |
村上 | 天皇が直接政治をしたため、( )という | ||
実頼 | 967、実頼、関白になる | ||
冷泉(れいぜい) | 伊尹(これまさ | 摂関政治の確立 | 969、安和の変:( ) 以後、藤原氏が摂政・関白になりつづける |
人物名
事件の内容
イ、左大臣源高明(たかあきら)が大宰府に左遷させられた事件
ウ、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)が謀反を企てたとして流罪になった事件
エ、平城太上天皇が藤原式家と奈良に戻ろうと企て失敗した事件
オ、宇多天皇の詔のある文字を理由に、任官を拒否した事件
カ、伴善男(とものよしお)が放火をし、藤原氏は伴・紀両氏を流罪にした事件
語句
ポイントの整理
・薬子の変の後、( )(蔵人頭)と嵯峨天皇が姻戚関係になる。
・子の良房は、清和天皇の( )となり、( )と( )で藤原北家以外の勢力を排除。
・基経(良房の甥)は、初めて( )になり公卿ら太政官より上の立場に立ち、( )で宇多天皇の勅書を撤回させた。
・( )は宇多天皇に重用されたが、( )で時平により大宰府に左遷され、死後北野天満宮に学問の神として祭られた。
・醍醐・村上天皇の時代、摂政・関白がおかれなかったので、( )と称えられた。
・969年( )で左大臣源高明が左遷されて以降、藤原北家が摂政・関白の地位を独占した。
菅原道真、
確認問題
問1,醍醐天皇の時代に行われた事業のうち、誤っているものを1つ選べ。
ア、『古今和歌集』が編纂された。
イ、最後の班田を命じ、延喜の荘園整理令が出された。
ウ、六国史の最後、『日本三代実録』が編纂された。
エ、奈良の吉野に移り、南朝を建てた。
オ、延喜格式が編まれた。
問2,藤原北家と事件について、空欄に適切な語句を入れ、表を完成させよ。
藤原氏 | 事件 |
( ) | 842( ):伴健岑・橘逸勢らを追放した事件 |
866( ):伴善男が放火をし、流罪に処せられた事件 | |
( ) | 888( ):勅書に抗議をして、撤回させた事件 |
( ) | 901( ):菅原道真を大宰府に左遷した事件 |
藤原伊尹 | 969( ):醍醐天皇の子源高明を左遷した事件 |
奈良時代は、軍事衝突や藤原氏が失敗した事件もある。
平安時代は、陰謀によって他の貴族を徹底的に排除した事件が多い。
摂関政治の練習問題
ポイントの整理
・藤原北家は、母方が子孫の面倒をみる習慣を利用して( )になる。
・その内部でも、政権争いがあり、叔父( )と甥( )の対立は、有名で「かな文学」の発達にまで影響する。
・摂政・関白は人事権も握っていたので、中下級貴族は、経済的に有利な( )の地位を求めて、朝廷の儀式や寺社の造営に私財を出す( )や収入の多い官に再任してもらう( )を慣例化してしまう。
・結果、中下級貴族は摂関家など上級貴族に隷属し、官職の昇進などは家柄でほぼ決まった。
・中央の政治は、公卿の合議と天皇の決済で、文書として伝達された。
確認問題
問1、藤原道長の娘、彰子に仕えた女房で、『源氏物語』を著したのは誰か。
問2、中下級貴族は、摂関家に取り入るため私財を投じて、希望する官職を得ることを何というか。
問3、この時代、神事や仏事、唐の儀礼など取り入れ発達したのは何か。
平安中期の国際関係についての練習問題
ポイントの整理
・907年に唐が滅んで960年に宋が再統一を果たすまで、五十数年混乱した。
・10世紀初め、唐が滅んだのと同じ頃に、朝鮮半島では新羅が滅んで( )が立ち、奈良時代から交流のあった渤海は( )に滅ぼされた。
・9世紀後半には( )の商人が博多によく来航したことで、菅原道真は( )の中止を提案した。
・日本人の海外渡航は禁じられたが、天台山や五台山の巡礼目的の( )は渡航を認められた。
・10世紀以降、中国以外の民族も独自の文化を発展させたが、宋も( )学や( )宗など中世以後の日本に影響を与える文化を発達させた。
確認問題
問1、次の問題で正しいものをすべて選べ。
ア、高麗が滅んだあと918年に新羅が建ち、青磁など文化を発展させた。
イ、日本から宋への輸出品には、金・水銀・硫黄などがあった。
ウ、遣唐使の廃止以来、平安時代は中国・朝鮮と一切交流をしていない。
エ、菅原道真の建議が、遣唐使廃止のきっかけになった。
オ、渤海は、女真族の金によって滅ぼされた。
国風文化の練習問題
ポイントの整理
・国風文化は、貴族社会を中心に日本の風土や文化に合わせて( )で洗練された文化。
・かな文字による文学では、和歌は最初の勅撰和歌集( )が編纂され、( )など有名な歌人を輩出。
・ かな物語の最古は( )であるが、その後、紫式部による( )や清少納言による( )など、かな文学がさかんになった。
・日記は( )が女房に仮託した( )や、初めて女性のよって書かれた( )がある。
・摂関期は最新の学問であった( )が貴族社会で圧倒的な勢力を持ち、神仏習合がすすんだ結果( )が生まれる。
・釈迦の死後、道徳が力を失くし世が乱れるという考えを( )という。
・そうした時代、阿弥陀如来にすがり来世で極楽への成仏を願う教えを( )という。
・( )は、京の市で浄土の教えを民衆に広める。( )は( )を書き、極楽へ往生することがとても簡単だと書き、日本人の精神世界に大きな影響を現在まで与えている。( )も流行。
・貴族社会では、( )によりその日の、吉凶に生活が左右されがちになり、極端に穢れや災厄を嫌う風習があった。
・怨霊や疫病神の祟りを恐れ、( )を開く習慣から、浄土の教えが貴族社会に浸透し、大量の阿弥陀如来像の生産から( )により、( )が完成した。
・藤原頼通は、阿弥陀堂として( )を建立し、また、阿弥陀仏がお迎えに来る図の( )も信仰の対象になった。
・( )は日本画の起源で、( )やふすま・屏風に描かれ、題材も日本風のものである。
・書は優雅な線が好まれるようになり、小野道風・藤原佐理・藤原成行を( )という。
・漆の上に金銀で描いた( )の技法や、貝殻の真珠片を貼り合わせる螺鈿の技法も発達する。
・白木に檜皮葺の貴族の暮らした邸宅のつくりを( )という。それぞれ渡り廊下に繋がれた建物内は、御簾・几帳・襖で区切りその仕切られた場所を局といい、座る場所に畳を敷いた。
・貴族の男性は、日常は直衣、狩衣を着るが、正装では( )、それを簡略化した( )を着た。女性は裳という袴の上から何重もの単衣・表衣・唐衣(日本風の模様や着色がされている)を着る( )(十二単)を着ていた。
・貴族は10~15歳で成人の儀式を行い、女子は( )といい、男子は( )といい官職についた。
御霊会、来迎図、平等院鳳凰堂、経塚、往生要集、寄木造、寝殿造、裳着、元服、浄土教、分業、六歌仙、
確認問題
問1、最初の歌物語は何か。
問2、『源氏物語』成立まもない時期に、その世界に魅了された人物の日記は何か。
問3、唐絵(からえ)に対し、日本風の絵画を何というか。
問4、平安初めの貴族は中国風の風俗で、獣肉なども食べていたが、中ごろから災厄を嫌う風習が広まった。そのきっかけは何の影響か。
問5、摂関期、加持祈祷などで圧倒的な力を持った宗派は何か。
問6、当時の浄土信仰について正しいものを選択せよ。
ア、貴族社会では、災厄や穢れを恐れるあまり、加持祈祷に頼った。
イ、空也は『往生要集』を著し、極楽へ往生する方法を説いた。
ウ、来迎図は、大日如来を中心に密教の教えを構図化したものである。
エ、藤原道長の別荘跡に、頼通は平等院鳳凰堂を建立した。
オ、平安京内では、東寺、西寺以外の寺院は建立の認められた。
荘園公領制の練習問題
ポイントの整理
・平安初めは、律令制立て直しのため、国司の交代に際して( )が厳しく取り締まった。
・税収が安定しないため、それぞれの官庁が財源のため諸司田をもち、天皇も勅旨田をもった。天皇と近親関係のある皇族・貴族をまとめて( )と呼び、彼らが私的に土地を集めていた。
・902年( )で不法な私有地を取り締まったが、律令制はすでに機能しなくなり、地方政治は国司任せになった。
・平安の中ごろ、国の徴税などの権限は( )が握り、強欲な税の取り立てを行った。
・その他の国司は任国に赴かなくなり、( )に政治を任せ、世襲の( )が指揮を執った。
・口分田が崩れた結果、( )という農地単位で税を納めるようになり、その農地の所有者を( )という。
・税のうち、租・庸・調、公挙出の系統をひくものは、( )と呼ばれた。
・近畿地方では、( )と呼ばれる有力農民が国司(受領)と結んで、大規模な経営を行ったり、地方の( )は豪族的な性格を帯びる。
・10世紀より、国郡制にたより開発する荘園、( )がおとろえる。
・その代わり、臨時雑役を免除される代わりに新しい土地の開発を行う( )が増え、彼らの多くは国衙の( )になったが、一方で、重い税負担を逃れるため、( )に寄進する者が増えた。
・( )はさらに地位の高い( )に土地を寄進し、開発領主は、大寺社や摂関家の保護を受け、荘官となり、税を免除され、国衙の役人の立ち入りできない( )の特権を持った。
・荘園に対し、国司が税を取る土地を( )とよび、地方ではそれらが並立した。
延喜の荘園整理令、荘官、墾田地系荘園、延久の荘園整理令、勘解由使、院宮王臣家、
確認問題
問1、戸籍・計帳の制度が崩れた結果、地方政治は、誰任せになったか。
問2、国衙の指揮は、11世紀後半から、だれが中心になるか。
問3、国司が任地に行かず、収入だけ受け取ることを何というか。
問4、平安中期から課税対象となる農地を何と呼んでいたか。
問5、その農地を所有する責任者を何というか。
問6、受領が一定期間、農地の耕作を請け負わせた有力農民を何というか。
問7、開発領主が貴族などに土地を寄進する代わりに、自分は荘官となり保護を受ける形の荘園を何というか。
問8、荘園には税をかけられず、役人の立ち入りもできなかった。これを何というか。
任地に派遣される国司は1人だけでなく、守・介・掾など複数いたが、受領が最高責任者になると、任地に行くのは受領だけになった。
武士の成長についての練習問題
ポイントの整理
・開発領主が利権をめぐって争ったり、盗賊の鎮圧のため、中下級貴族が、( )として派遣され、そのまま土地に住みつき武士へと発展した。
・主人(棟梁)のもとに子弟などの家子、その下に地方豪族などを郎党に置き、( )を結成した。
・良馬の産地である関東では、( )の結成が進み、( )が反乱を起こしたが、朝廷側の関東の武士により鎮圧された。
・おなじころ、( )が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こしたが、朝廷側の武士により鎮圧された。このふたつの反乱をまとめて、( )といい、朝廷と貴族は武士の力を知り、貴族は屋敷の警護に( )を置き、宮中では( )を警護に置いた。
・地方では、受領直属の武士を( )といい、国衙に属する武士を( )といい、反乱や盗賊の鎮圧に( )が置かれた。
確認問題
問1、地方に派遣された中下級貴族と地元の豪族とが結びつき出来た武力を専門とする集団を何というか。
問2、平将門の乱と藤原純友の乱をまとめて何というか。
問3、貴族の警護を務めた武士を何というか。
問4、宮中の警護を務めた武士を何というか。
問5、地方での反乱や盗賊の制圧にあたるために置かれた武士を何というか。
日本史(平安時代)の年表
平安初期の年表
桓武天皇 | 784長岡京に遷都 785藤原種継暗殺⇒早良親王を太子から外す 788~( )との戦争⇒東北地方に拡大 792( )の制を定める⇒陸奥・出羽・大宰府以外で軍団を廃止 794( )に遷都 795公出挙を3割に減らし、雑徭も半減 797頃( )を設置し、国司の交代時に監督 ( )を征夷大将軍とする 801機内の班田を12年ごとにする 805徳政論争⇒蝦夷討伐と平安京造営を中止 |
平城天皇 | 806観察使をおき、国司を監督 ( )を寵愛し、兄の仲成を重用する |
嵯峨天皇 | 809平城天皇、奈良に帰る 810藤原冬嗣が( )になる 同年、( )⇒藤原式家が没落 816平安京に( )を設置 820( )を編纂 823大宰府に公営田を実施 |
語句
藤原薬子、薬子の変、弘仁格式、
平安中期の年表
天皇 | 藤原 | 特色 | できごと |
嵯峨(さが) | (① ) | 北家の台頭 | 810①、蔵人頭になる 810、( ):平城太上天皇が奈良に帰ろうとした事件 |
淳和(じゅんな) | |||
仁明(にんみょう | (② ) | 842、( ):伴健岑・橘逸勢らを追放した事件 | |
文徳(もんとく) | 摂関政治の開始 | 857、②太政大臣になる 858、②、事実上の( )になる | |
清和(せいわ) | 866、( ):伴善男が放火をし、流罪に処せられた事件 ⇒②、正式に( )になる | ||
(③ ) | 872、③、正式に( )になる | ||
陽成(ようぜい) | |||
光孝(こうこう) | 887、③、正式に( )になる | ||
宇多(うだ) | 888、( ):勅書に抗議し、撤回させた | ||
(④ ) | 891、(⑤ )が蔵人頭になる | ||
894、遣唐使を停止 | |||
醍醐(だいご) | 899、⑤が右大臣に、④が左大臣になる 901、( ):⑤が大宰府に左遷された 天皇が直接政治をしたため、( )という 901、六国史の最後、( )を編纂 902、( )を出し、最後の班田 905、( )を編集⇒勅撰和歌集 914、三善清行「意見封事十二箇条」で、国家窮乏を訴える 927、( )が完成 | ||
朱雀(すざく) | 忠平 | 935-41:承平・天慶の乱(藤原純友・平将門) | |
村上 | 天皇が直接政治をしたため、( )という 951、『後撰和歌集』を編集 958、本朝十二銭の最後、乾元大宝を鋳造 | ||
実頼 | 967、実頼、関白になる | ||
冷泉(れいぜい) | 伊尹(これまさ | 摂関政治の確立 | 969、( ):源高明を左遷した事件 以後、藤原氏が摂政・関白になりつづける |
円融(えんゆう) | 兼通 頼忠、 兼家、 道隆、 道兼、 | 972、兼通(兄)と兼家(弟)との対立 | |
花山(かざん) | 995、(⑥ )(叔父)と伊周(甥)との対立 | ||
一条 | |||
三条 | (⑥ ) | 1016、⑥が摂政となる⇒後一条、後朱雀、後冷泉は孫 | |
後一条 | 1017、⑦が摂政となる⇒「望月の歌」は翌年 | ||
(⑦ ) | 1020、⑥が法成寺を建てる | ||
後朱雀 | |||
後冷泉 | 1051ー( )が東北で始まる 1052、いわゆる( )の年 1053、⑦が( )を建立 |
人物
語句
日本史(平安時代)の解答
平安初期の政治についての解答
ポイントの整理
・桓武・嵯峨・清和天皇の時代は、(律令制)の立て直しを行った。
・桓武天皇の時代、784年に長岡京への遷都のとき藤原種継の暗殺などの政変や洪水被害によって、794年(平安京)に再び遷都する。
・桓武天皇は国司の取締りを厳しくするため、令で定められていない官職の(令外官)のうち、国司の交代に際し事務手続きを監視する(勘解由使)を置く。また、民衆の負担を減らす政策を行ったが効果は薄い。
・奈良時代は、日本海側に秋田城、太平洋側に(多賀城)を置く。
・802年征夷大将軍(坂上田村麻呂)が(阿弖流為)を帰順させ、鎮守府を北上川の上流の(胆沢城)に置き、東北の軍事拠点となる。
確認問題
問1,国家財政が悪化し、民衆の浮浪・逃亡が相次いだため。
問2、令外官(りょうげのかん)
問3、健児(こんでい)
問4,民衆を苦しめている原因は、軍事と造営であるという徳政論を聞き入れたから。
教科書よりやさしい参考書はこちらです。
平安初期の改革についての解答
ポイントの整理
・嵯峨天皇は(薬子の変)をきっかけに政策を実行する。
・令外官のひとつ(蔵人頭)は、天皇の命令を太政官たちにすぐに伝える秘書官で、北家の(藤原冬嗣)が初代を務める。
・(検非違使)は都の警察・裁判など治安維持をはかる組織。
・嵯峨天皇の時代の格と式は(弘仁格式)にまとめられ、貞観・延喜とまとめて(三代格式)という。令の解釈を公式に統一した本を(令義解)という。
確認問題
問1、蔵人頭
問2、格式
問3、弘仁格式
問4、令義解
この問題よりやさしい問題集です。
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弘仁・貞観文化の解答
ポイントの整理
・平安初期は平安京中心の貴族文化で、宮廷では(漢詩文)が重んじられ、仏教は(密教)が重視された。
・代表的な文人として、(嵯峨)天皇・(空海)・(菅原道真)・小野篁(たかむら)などがいる。
・空海は、漢詩文の書き方を批評した(文鏡秘府論)や詩文集の(性霊集)を書き、書道が有名で、嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに(三筆)と称されている。
・官僚になるための学校、大学では儒教を学習する(明経道)や中国の歴史や文学を学習する(紀伝道)がさかんになり、貴族は一族の子弟のための寄宿舎として(大学別曹)を設けた。
・最澄と空海は唐で(密教)を学び、平安初期に天皇・貴族の庇護を受けた。
・最澄は(比叡山延暦寺)に本山を置き、(天台宗)を開いたが、奈良仏教と戒壇をめぐり対立し、(顕戒論)を書いて反論した。
・最澄のあと、(円仁・円珍)が台密を完成させ、浄土信仰や鎌倉仏教にも派生した。
・空海は高野山金剛峯寺に本山を置き、(天台宗)を開き、(三教指帰)で仏教の優位性を説き、嵯峨天皇から( 教王護国寺)を与えられた。
・密教の登場により、神社の中に神宮寺を立てたり、寺院に鎮守を祭る(神仏習合)がすすみ、山岳信仰と結びつき(修験道)の源流が出来あがった。
確認問題
問1、文章経国
問2、大学別曹
問3、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)
問4、修験道
問5、曼荼羅(まんだら)
たぶんみんな好きでない仏像問題は省略しました。
教科書の内容はすべて整理できる問題集です。
藤原北家の野望についての解答
年表は省略します。
ポイントの整理
・薬子の変の後、(藤原冬嗣)(蔵人頭)と嵯峨天皇が姻戚関係になる。
・子の良房は、清和天皇の(摂政)となり、(承和の変)と(応天門の変)で藤原北家以外の勢力を排除。
・基経(良房の甥)は、初めて(関白)になり公卿ら太政官より上の立場に立ち、(阿衡の紛議)で宇多天皇の勅書を撤回させた。
・(菅原道真)は宇多天皇に重用されたが、(昌泰の変)で時平により大宰府に左遷され、死後北野天満宮に学問の神として祭られた。
・醍醐・村上天皇の時代、摂政・関白がおかれなかったので、(延喜・天暦の治)と称えられた。
・969年(安和の変)で左大臣源高明が左遷されて以降、藤原北家が摂政・関白の地位を独占した。
確認問題
問1,醍醐天皇の時代に行われた事業のうち、誤っているものを1つ選べ。
エ、奈良の吉野に移り、南朝を建てた。⇒後醍醐天皇の時代(鎌倉時代の直後)です。
問2,藤原北家と事件について、空欄に適切な語句を入れ、表を完成させよ。
藤原氏 | 事件 |
(藤原良房) | 842(承和の変):伴健岑・橘逸勢らを追放した事件 |
866(応天門の変):伴善男が放火をし、流罪に処せられた事件 | |
(藤原基経) | 888(阿衡の紛議):勅書に抗議をして、撤回させた事件 |
(藤原時平) | 901(昌泰の変):菅原道真を大宰府に左遷した事件 |
藤原伊尹 | 969(安和の変):醍醐天皇の子源高明を左遷した事件 |
教科書内容とほぼ同じレベルの問題集です。
摂関政治の解答
ポイントの整理
・藤原北家は、母方が子孫の面倒をみる習慣を利用して(摂政・関白)になる。
・その内部でも、政権争いがあり、叔父(道長)と甥(伊周)の対立は、有名で「かな文学」の発達にまで影響する。
・摂政・関白は人事権も握っていたので、中下級貴族は、経済的に有利な(受領)の地位を求めて、朝廷の儀式や寺社の造営に私財を出す(成功)や収入の多い官に再任してもらう(重任)を慣例化してしまう。
・結果、中下級貴族は摂関家など上級貴族に隷属し、官職の昇進などは家柄でほぼ決まった。
・中央の政治は、公卿の合議と天皇の決済で、文書として伝達された。
確認問題
問1、紫式部
問2、成功
問3、年中行事
道長が「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」と詠んだとき、摂政でも関白でもありませんでした。
道長の娘3人が皇后、息子が摂政、孫3人が天皇、とカンペキな権力を握っていたからでした。
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平安中期の国際関係についての解答
ポイントの整理
・907年に唐が滅んで960年に宋が再統一を果たすまで、五十数年混乱した。
・10世紀初め、唐が滅んだのと同じ頃に、朝鮮半島では新羅が滅んで(高麗)が立ち、奈良時代から交流のあった渤海は(遼)に滅ぼされた。
・9世紀後半には(唐)の商人が博多によく来航したことで、菅原道真は(遣唐使)の中止を提案した。
・日本人の海外渡航は禁じられたが、天台山や五台山の巡礼目的の(僧)は渡航を認められた。
・10世紀以降、中国以外の民族も独自の文化を発展させたが、宋も(朱子)学や(禅)宗など中世以後の日本に影響を与える文化を発達させた。
確認問題
問1、次の問題で正しいものをすべて選べ。
イ、日本から宋への輸出品には、金・水銀・硫黄などがあった。
エ、菅原道真の建議が、遣唐使廃止のきっかけになった。
国風文化の解答
ポイントの整理
・国風文化は、貴族社会を中心に日本の風土や文化に合わせて(優雅)で洗練された文化。
・かな文字による文学では、和歌は最初の勅撰和歌集(古今和歌集)が編纂され、(六歌仙)など有名な歌人を輩出。
・ かな物語の最古は(竹取物語)であるが、その後、紫式部による(源氏物語)や清少納言による(枕草子)など、かな文学がさかんになった。
・日記は(紀貫之)が女房に仮託した(土佐日記)や、初めて女性のよって書かれた(蜻蛉日記)がある。
・摂関期は最新の学問であった(密教)が貴族社会で圧倒的な勢力を持ち、神仏習合がすすんだ結果(本地垂迹説)が生まれる。
・釈迦の死後、道徳が力を失くし世が乱れるという考えを(末法)という。
・そうした時代、阿弥陀如来にすがり来世で極楽への成仏を願う教えを(浄土教)という。
・(空也)は、京の市で浄土の教えを民衆に広める。(源信)は(往生要集)を書き、極楽へ往生することがとても簡単だと書き、日本人の精神世界に大きな影響を現在まで与えている。(経塚)も流行。
・貴族社会では、(陰陽道)によりその日の、吉凶に生活が左右されがちになり、極端に穢れや災厄を嫌う風習があった。
・怨霊や疫病神の祟りを恐れ、(御霊会)を開く習慣から、浄土の教えが貴族社会に浸透し、大量の阿弥陀如来像の生産から(分業)により、(寄木造)が完成した。
・藤原頼通は、阿弥陀堂として(平等院鳳凰堂)を建立し、また、阿弥陀仏がお迎えに来る図の(来迎図)も信仰の対象になった。
・(大和絵)は日本画の起源で、(絵巻物)やふすま・屏風に描かれ、題材も日本風のものである。
・書は優雅な線が好まれるようになり、小野道風・藤原佐理・藤原成行を(三跡)という。
・漆の上に金銀で描いた(蒔絵)の技法や、貝殻の真珠片を貼り合わせる螺鈿の技法も発達する。
・白木に檜皮葺の貴族の暮らした邸宅のつくりを(寝殿造)という。それぞれ渡り廊下に繋がれた建物内は、御簾・几帳・襖で区切りその仕切られた場所を局といい、座る場所に畳を敷いた。
・貴族の男性は、日常は直衣、狩衣を着るが、正装では(束帯)、それを簡略化した(衣冠)を着た。女性は裳という袴の上から何重もの単衣・表衣・唐衣(日本風の模様や着色がされている)を着る(女房装束)(十二単)を着ていた。
・貴族は10~15歳で成人の儀式を行い、女子は(裳着)といい、男子は(元服)といい官職についた。
確認問題
問1、伊勢物語
問2、更級日記
問3、大和絵
問4、陰陽道
問5、密教
問6、当時の浄土信仰について正しいものを選択せよ。エ
ア、貴族社会では、災厄や穢れを恐れるあまり、加持祈祷に頼った。⇒浄土信仰と無関係
イ、空也は『往生要集』を著し、極楽へ往生する方法を説いた。⇒空也でなく源信
ウ、来迎図は、大日如来を中心に密教の教えを構図化したものである。⇒来迎図は阿弥陀如来が極楽から死者を迎えに来る様子を描いた絵。
エ、藤原道長の別荘跡に、頼通は平等院鳳凰堂を建立した。
オ、平安京内では、東寺、西寺以外の寺院は建立の認められた。⇒認められませんでした。
荘園公領制の解答
ポイントの整理
・平安初めは、律令制立て直しのため、国司の交代に際して(勘解由使)が厳しく取り締まった。
・税収が安定しないため、それぞれの官庁が財源のため諸司田をもち、天皇も勅旨田をもった。天皇と近親関係のある皇族・貴族をまとめて(院宮王臣家)と呼び、彼らが私的に土地を集めていた。
・902年(延喜の荘園整理令)で不法な私有地を取り締まったが、律令制はすでに機能しなくなり、地方政治は国司任せになった。
・平安の中ごろ、国の徴税などの権限は(受領)が握り、強欲な税の取り立てを行った。
・その他の国司は任国に赴かなくなり、(目代)に政治を任せ、世襲の(在庁官人)が指揮を執った。
・口分田が崩れた結果、(名)という農地単位で税を納めるようになり、その農地の所有者を(負名)という。
・税のうち、租・庸・調、公挙出の系統をひくものは、(官物)と呼ばれた。
・近畿地方では、(田堵)と呼ばれる有力農民が国司(受領)と結んで、大規模な経営を行ったり、地方の(開発領主)は豪族的な性格を帯びる。
・10世紀より、国郡制にたより開発する荘園、(墾田地形荘園)がおとろえる。
・その代わり、臨時雑役を免除される代わりに新しい土地の開発を行う(開発領主)が増え、彼らの多くは国衙の(在庁官人)になったが、一方で、重い税負担を逃れるため、(権力者)に寄進する者が増えた。
・彼らは土地を(領家)に寄進して、(領家)はさらに地位の高い(本家)に土地を寄進し、開発領主は、大寺社や摂関家の保護を受け、荘官となり、税を免除され、国衙の役人の立ち入りできない(不入)の特権を持った。
・荘園に対し、国司が税を取る土地を(公領)とよび、地方ではそれらが並立した。
確認問題
問1、受領
問2、目代
問3、遥任
問4、名
問5、負名
問6、田堵
問7、寄進地系荘園
問8、不輸・不入の権権
武士の成長についての解答
ポイントの整理
・開発領主が利権をめぐって争ったり、盗賊の鎮圧のため、中下級貴族が(押領使・追捕使)として派遣され、そのまま土地に住みつき武士へと発展した。
・主人(棟梁)のもとに子弟などの家子、その下に地方豪族などを郎党に置き、(武士団)を結成した。
・良馬の産地である関東では、(武士団)の結成が進み、(平将門)が反乱を起こしたが、朝廷側の関東の武士により鎮圧された。
・おなじころ、(藤原純友)が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こしたが、朝廷側の武士により鎮圧された。このふたつの反乱をまとめて、(承平・天慶の乱)といい、朝廷と貴族は武士の力を知り、貴族は屋敷の警護に(侍)を置き、宮中では(滝口の武者)を警護に置いた。
・地方では、受領直属の武士を(館侍)といい、国衙に属する武士を(国侍)といい、反乱や盗賊の鎮圧に(押領使・追捕使)が置かれた。
確認問題
問1、武士団
問2、承平・天慶の乱
問3、侍
問4、滝口の武者
問5、押領使・追捕使(土豪の武士が任命されることが多い)
このページのつづき、平安後期(院政期)はこちらです。
前回の単元、奈良時代の練習問題はこちらです。