高校日本史の平安後期、の練習問題と年表問題を用意しました。
歴史が苦手な人、定期テスト対策、模試で40点未満の人、などのための問題集です。
11世紀、上皇と武士が政治の表舞台に登場します。
平安時代の特徴はこんな感じです。
- 初期:律令制の立て直し、漢詩文、密教
- 中期:藤原氏の摂関政治、かな文学、浄土教、
- 後期:院政と武士、地方に浄土教が広がる
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前回、平安初期と中期の練習問題はこちらです。
日本史(院政期)の練習問題
歴史は暗記科目じゃない!
歴史は暗記科目と思っていませんか。
暗記だけだと、難しい漢字や人名は覚えても、時代がどう変化したのかサッパリになってしまいます。
大事なのは、教科書・資料集をちゃんと読んで理解しているか、です!
この練習問題のおすすめの使い方は、次のとおりです。
- 1回目は教科書で調べてOK, 2回目以上は理解度のチェック
- 年表問題で前後関係を整理する
- ポイントの整理を音読する
院政の始まりについての練習問題
ポイントの整理
・後三条天皇は1069年( )を出し、中央に荘園の記録をする( )を設置し、荘園の基準を満たさない土地はすべて( )に入れた。
・それ以後、国司の治める( )と貴族と寺社の荘園が明確になり、( )と呼ぶ。
・白河天皇は堀川天皇に位を譲り、( )となった後、院庁(いんのちょう)を開き院政をはじめた。以後、皇位は父方の上皇が決め、摂関家の権力は弱体化した。
・院庁から出される( )と( )が法的な拘束力を持った。
・院の御所を( )とよばれる源氏・平氏の武士が警護した。
・院政は( )、( )、( )の三代まで約100年続いた。
・3人の上皇とも仏教の信仰に篤く、出家して( )となり、六勝寺を造営した。
・上皇の側近として支えた中下級貴族を( )という。
・武装した下級僧侶を( )と呼び、彼らが要求を突き付けることを( )といい、院は( )を利用し鎮圧した。
・上皇は上級貴族に一国の支配権を与えたのを( )の制度といい、上皇みずからも( )で国の収益を握り、公領は上皇や貴族の私領化した。
・一国の支配権をもった貴族は、近親者や子弟を( )にしたが、彼らは任地に行かず、( )を派遣し、( )が実務を行った。
・荘園と公領とも大部分の耕地を( )と呼び、田堵など有力農民が力を持ち( )と呼ばれ、隷属農民を働かせ年貢・公事・夫役の税を納めた。
確認問題
問1、後三条天皇が延久の荘園整理令を出した目的は何か。
問2、荘園と公領の違いを説明せよ。
問3、後三条天皇の子で、院政を本格化させたのは誰か。
問4,院の御所を警護した武士を何というか。
問5、武士が中央政界に進出するきっかけとなったのは何を鎮圧したためか。
問6,院政期の地方支配について、次の語群をそれぞれ3つのグループに分類せよ。
語群
グループ
貴族など支配層(京都人) | |
開発領主・土豪(地元の有力者) | |
民衆(地元民) |
負名と名主の違い
田堵(たと):平安時代の有力な農民
負名(ふみょう):醍醐天皇の時代、名(税を課される田地)を請け負った田堵
名主(みょうしゅ):後三条天皇の後、負名が権利意識を強めて、下人など隷属農民を働かせた
源氏・平氏についての練習問題
空欄①~⑥に人物を、a~dに背景を選択し、その他の空欄に適切な語句を入れてください。
時代 | 桓武平氏 | 清和源氏 | できごと |
延喜の治 | (① ) ・貞盛 | 935( )の乱⇒貞盛・藤原秀郷が鎮圧 | |
経基 | 939( )の乱⇒経基が鎮圧 | ||
天暦の治 | 忠常・これひら | 満仲 | 969、安和の変:満仲が関わる ⇒源氏が摂関家に近づく |
道長・頼通全盛 | 正度 | 頼信 | 1028、平忠常の乱:(a ) ⇒源氏が関東進出のきっかけ |
正衡 | (③ ) | 1051、前九年合戦:(b ) | |
正盛 | (④ )・義親 | 1083、後三年合戦:(c ) | |
白河院政 | 忠盛・忠正 | 為義 | 1107、源義親の乱:(d ) ⇒平氏が勢力を伸ばすきっかけに |
鳥羽院政 | (② ) | (⑤ )・為朝 | 平忠盛が鳥羽院に気に入られ、貴族入り 1156( )の乱 |
後白河院政 | (⑥ ) | 1159( )の乱 | |
1180( )の乱 |
人物
背景
イ、義家の子が出雲で反乱を起こし、平正盛が平定した。
ウ、清原氏の内紛に義家が介入し、藤原清衡を助けた。
エ、上総で起きた反乱を源氏が平定した。
語句
ポイントの整理
・奥州藤原氏は出羽の豪族で、( )で豪族安倍氏の討伐に( )が協力した。清原氏一族の内乱の際、( )は( )に協力した。これを( )という。
・清原氏は藤原氏を名乗り、奥州( )に拠点を構え、( )・( )・( )の三代100年間東北地方を支配した。
・奥州藤原氏の繁栄の基盤は( )と( )で、末法思想の影響で京都から阿弥陀如来の製造に欠かせない( )を産出した。
・京都の浄土教などの流行に応じて、( )や( )、平等院鳳凰堂を模した無量光院を建立したが、1189年( )によって滅亡した。
・源氏と平氏はともに天皇・貴族の血筋を引くため( )として尊敬され、地方の開発領主・在庁官人らを郎党(家臣)にして( )を結成し、中央では軍事貴族( )としての地位を高めた。
・清和源氏は関東の平忠常の乱の平定した後、( )が関東に拠点を作り、奥州の( )、( )を平定して、白河上皇が禁令を出すほど関東の荘園が集まった。
・これに対し、伊勢平氏は荘園を寄進して白河上皇の( )となり、僧兵の入京阻止をした。平忠盛は瀬戸内の海賊を平定したことにより( )の信任を得て、院近臣として重用された。その子の( )のとき、武家政権のきっかけを作った。
確認問題
問1、奥州藤原氏が地位を確立するにあたって、京都に移入したものは何か。
問2、源氏が関東に拠点を築くきっかけは何か。
問3,平清盛と同世代のライバルはだれか。
*武士の誕生には2説あります。1つは、貴族が国司として地方に赴任した後、一族が土着して武士団を作った。もう1つは、開発領主など地元の有力者が貴族と結びつき、武装を専門とするようになった。
平氏政権についての練習問題
ポイントの整理
・1156年( )は崇徳側と後白河側の皇位継承の争いと藤原氏内部の対立が発端で、一日で決着がつき、崇徳上皇は讃岐に流された。
・1159年( )は( )の院近臣内での対立を原因におきた争いで、( )が政権を握るきっかけになった。
・( )は( )に( )(三十三間堂)を寄付し、1167年( )に任命され、一族は栄華を極めた。
・平氏のもとには西日本各地の荘園や( )があつまり、それぞれに( )を置いた。
・父、忠盛の時代から高麗・南宋との貿易が活発になり、安芸に( )を建て、神戸の( )を整備し貿易を始め、日本文化に影響を与えた。
・清盛は娘を天皇に嫁がせ権力をにぎったので、旧勢力の反感を招き、( )で反勢力結集のきっかけを与えた。
確認問題
問1、平清盛が後白河上皇に寄進した寺院は何か。
問2、日宋貿易の拠点はどこか。
問3、清盛が娘の徳子を高倉天皇の中宮に入れ、安徳天皇の外戚として権威を振るった結果、平氏打倒のため藤原成親らが起こした事件を何というか。
院政期の文化についての練習問題
ポイントの整理
・院政期の文化は、京都の貴族文化に( )や( )の地方文化が取り入れられた新鮮で豊かなのが特徴である。
・( )は民間の流行歌の形式で後白河上皇もみずから学んで( )を編んだ。
・( )と( )は庶民だけでなく貴族にも流行り年中行事にも取り入れられた。
・他、説話集として( )や、軍記物語として前九年合戦を書いた( )や、歴史物語の( )( )も編まれた。
・ 浄土教は各地方にも広まり、奥州平泉の( )だけでなく、九州の( )なども有名である。
・また、写経や絵巻物にも( )の技法が使われ始めた。
確認問題
問1、後白河上皇も学び『梁塵秘抄』にまとめた歌の形式は何か。
問2、藤原秀衡の妹が夫を弔うために福島に建てられた建築は何か。
問3、厳島神社に奉納した写経を何というか。
問4、次の絵巻物のうち、院政期のものをすべて選べ。
日本史(院政期)の年表
院政について次の空欄①~⑤に天皇の名前を、その他の空欄に適切な語句を入れてください。
天皇 | 院政 | できごと |
(① ) | 1069、( )を出す 1072、斗枡法で( )を定める⇒米の体積単位が統一 | |
(② ) | 1077、法勝寺を建立(六勝寺のはじまり) 1083、( ) | |
堀河(ほりかわ | ② | 1086、②、院政を開始 1098、源義家に院の昇殿を許可 |
(③ ) | 1108、北面の武士が、延暦寺僧兵の入京を阻止 1124、藤原清衡が( )を建立 | |
崇徳(すとく) | ③ | 1129、③が院政を開始 1132、平忠盛に院の昇殿を許可 1133、平忠盛、院領筑前国の貿易を管理、( )へ 1146、平清盛、安芸守になり、( )を建設 清盛が( )を輸入し、商業活動が活発に |
近衛(このえ) | ||
(④ ) | 1156、( )、④・平清盛・源義朝が勝利 | |
二条 | ④ | 1158、④が院政を開始 1159、( )、平清盛が勝利 |
六条 | 1167、平清盛が( )に就任 | |
高倉(たかくら) | 1171、清盛が娘を高倉天皇に入内させる 1177、( ):院近臣が平氏打倒を計画 | |
1179、平清盛が④を幽閉 | ||
安徳(あんとく | ④ | 1180、源頼政・以仁王の挙兵 同年、( )の遷都 1183、養和の飢饉が発生 同年、平氏の都落ち⇒頼朝、東国の支配権を獲得 |
(⑤ ) | 1185、平氏滅亡 1189、頼朝が( )を滅ぼす 1192、頼朝が( )に就任 | |
土御門(つちみかど) | ⑤ | 1198、⑤が院政を開始 |
天皇
語句
太政大臣、蓮華王院、厳島神社、征夷大将軍、大輪田泊、銅銭、宣旨枡、延久の荘園整理令、
日本史(院政期)の解答
院政の始まりについての解答
ポイントの整理
・後三条天皇は1069年(延久の荘園整理令)を出し、中央に荘園の記録をする(記録荘園券契所)を設置し、荘園の基準を満たさない土地はすべて(公領)に入れた。
・それ以後、国司の治める(公領)と貴族と寺社の荘園が明確になり、(荘園公領制)と呼ぶ。
・白河天皇は堀川天皇に位を譲り、(上皇)となった後、院庁(いんのちょう)を開き院政をはじめた。以後、皇位は父方の上皇が決め、摂関家の権力は弱体化した。
・院庁から出される(院庁下文)と(院宣)が法的な拘束力を持った。
・院の御所を(北面の武士)とよばれる源氏・平氏の武士が警護した。
・院政は(白河)、(鳥羽)、(後白河)の三代まで約100年続いた。
・3人の上皇とも仏教の信仰に篤く、出家して(法皇)となり、六勝寺を造営した。
・上皇の側近として支えた中下級貴族を(院近臣)という。
・武装した下級僧侶を(僧兵)と呼び、彼らが要求を突き付けることを(強訴)といい、院は(武士)を利用し鎮圧した。
・上皇は上級貴族に一国の支配権を与えたのを(知行国)の制度といい、上皇みずからも(院分国)で国の収益を握り、公領は上皇や貴族の私領化した。
・一国の支配権をもった貴族は、近親者や子弟を(国司)にしたが、彼らは任地に行かず、(目代)を派遣し、(在庁官人)が実務を行った。
・荘園と公領とも大部分の耕地を(名)と呼び、田堵など有力農民が力を持ち(田堵)と呼ばれ、隷属農民を働かせ年貢・公事・夫役の税を納めた。
確認問題
問1、荘園の増加で国司による税の徴収が滞ったから。
問2、荘園は貴族や寺社の私領で開発領主が荘官となって管理した。公領は国司が在庁官人を使い税を徴収した土地。
問3、白河上皇
問4,北面の武士
問5、僧兵の強訴
問6,院政期の地方支配について、次の語群をそれぞれ3つのグループに分類せよ。
貴族など支配層(京都人) | 目代、領家、国司、 |
開発領主・土豪(地元の有力者) | 在庁官人、郡司、公文、預所代、 |
民衆(地元民) | 名主、田堵、 |
教科書より簡単な参考書は、こちらがおすすめ!
源氏・平氏についての解答
ポイントの整理
・奥州藤原氏は出羽の豪族で、(前九年合戦)で豪族安倍氏の討伐に(源頼義)が協力した。清原氏一族の内乱の際、(源義家)は(藤原清衡)に協力した。これを(後三年合戦)という。
・清原氏は藤原氏を名乗り、奥州(平泉)に拠点を構え、(藤原清衡)・(藤原重衡)・(藤原秀衡)の三代100年間東北地方を支配した。
・奥州藤原氏の繁栄の基盤は(金)と(馬)で、末法思想の影響で京都から阿弥陀如来の製造に欠かせない(金)を産出した。
・京都の浄土教などの流行に応じて、(中尊寺金色堂)や(毛越寺)、平等院鳳凰堂を模した無量光院を建立したが、1189年(源頼朝)によって滅亡した。
・源氏と平氏はともに天皇・貴族の血筋を引くため(棟梁)として尊敬され、地方の開発領主・在庁官人らを郎党(家臣)にして(武士団)を結成し、中央では軍事貴族(武家)としての地位を高めた。
・清和源氏は関東の平忠常の乱の平定した後、(源頼信)が関東に拠点を作り、奥州の(前九年合戦)、(後三年合戦)を平定して、白河上皇が禁令を出すほど関東の荘園が集まった。
・これに対し、伊勢平氏は荘園を寄進して白河上皇の(北面の武士)となり、僧兵の入京阻止をした。平忠盛は瀬戸内の海賊を平定したことにより(鳥羽上皇)の信任を得て、院近臣として重用された。その子の(平清盛)のとき、武家政権のきっかけを作った。
確認問題
問1、金
問2、平忠常の乱
問3,源義朝
源氏・平氏の整理
源頼信 | 平忠常の乱を平定し、関東に進出した |
源頼義 | 前九年合戦を平定した |
源義家 | 後三年合戦を平定し、白河上皇に認められた |
源義朝 | 平清盛と同世代でライバル、保元の乱では清盛と協力、平治の乱では清盛に敗れた |
源頼朝 | 義朝の子で、鎌倉幕府を開き、奥州藤原氏を滅ぼした |
平忠盛 | 海賊を平定して鳥羽上皇に認められた |
平清盛 | 保元の乱と平治の乱で勝利し、太政大臣になる |
覚えるなら赤字だけでOKです。誰がいつ何をしたかだけ区別できたら十分です。
教科書のインプットには、こちらがおすすめ!
平氏政権についての解答
ポイントの整理
・1156年(保元の乱)は崇徳側と後白河側の皇位継承の争いと藤原氏内部の対立が発端で、一日で決着がつき、崇徳上皇は讃岐に流された。
・1159年(平治の乱)は(後白河上皇)の院近臣内での対立を原因におきた争いで、(平清盛)が政権を握るきっかけになった。
・(平清盛)は(後白河上皇)に(蓮華王院)(三十三間堂)を寄付し、1167年(太政大臣)に任命され、一族は栄華を極めた。
・平氏のもとには西日本各地の荘園や(知行国)があつまり、それぞれに(地頭)を置いた。
・父、忠盛の時代から高麗・南宋との貿易が活発になり、安芸に(厳島神社)を建て、神戸の(大輪田泊)を整備し貿易を始め、日本文化に影響を与えた。
・清盛は娘を天皇に嫁がせ権力をにぎったので、旧勢力の反感を招き、(鹿ケ谷の陰謀)で反勢力結集のきっかけを与えた。
確認問題
問1、蓮華王院(三十三間堂)
問2、大輪田泊(おおわだのとまり)
問3、鹿ケ谷の陰謀
教科書とほぼ同じレベルの問題集は、コレがおすすめ!
院政期の文化についての解答
ポイントの整理
・院政期の文化は、京都の貴族文化に(武士)や(庶民)の地方文化が取り入れられた新鮮で豊かなのが特徴である。
・(今様)は民間の流行歌の形式で後白河上皇もみずから学んで(梁塵秘抄)を編んだ。
・(猿楽)と(田楽)は庶民だけでなく貴族にも流行り年中行事にも取り入れられた。
・他、説話集として(今昔物語集)や、軍記物語として前九年合戦を書いた(陸奥話記)や、歴史物語の(大鏡)(今鏡)も編まれた。
・ 浄土教は各地方にも広まり、奥州平泉の(中尊寺金色堂)だけでなく、九州の(富貴寺大堂)なども有名である。
・また、写経や絵巻物にも(大和絵)の技法が使われ始めた。
田楽、富貴寺大堂、陸奥話記、庶民、大鏡、今鏡、大和絵、鳥獣戯画、
確認問題
問1、今様
問2、白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)
問3、平家納経
問4、源氏物語絵巻、信貴山縁起絵巻、鳥獣戯画、伴大納言絵巻
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平安時代(初期・中期)の練習問題はこちらです。
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