高校日本史、江戸後期と幕末の練習問題です。
歴史が苦手な人、模試で40点とどかない人、定期テスト対策したい人向けに作っています。
松平定信の寛政の改革から戊辰戦争までの時代です。幕府と欧米がポイントになります。
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江戸初期(家康~綱吉)の練習問題はこちらです。
江戸中期(新井白石から田沼意次)の練習問題はこちらです。
日本史(江戸後期)の練習問題
歴史は暗記ではない!
歴史=暗記だと思っていませんか?
確かに難しい言葉は、覚える必要があります。
しかし、大切なのは、言葉をつなげて人に説明できるくらい教科書を理解しているか、です。
歴史は時間を軸に「社会の変化」を考察する学問なので、誰がどんな理由で何をしてどう変わったかを見ましょう。
江戸後期は幕府だけでなく、欧米列強や諸藩が関わってきます。
この練習問題は、つぎのように使ってください。
- 1回目は教科書を見てOK、2回目から反復練習
- 年表問題で時系列を整理
- ポイントの整理を音読
鎖国の動揺についての練習問題
18世紀末から19世紀初め、商売をしたい欧米VS.鎖国したい江戸幕府
ポイントの整理
・18世紀末ごろから欧米のアジア・アフリカ侵略と欧米諸国間の対立・競争が激化した。
・1792年ロシアの( )が根室に来て、通商と江戸入港を求めた。幕府はアイヌとロシアとの提携が危惧し、1789年( )と近藤重蔵に択捉島を探検させ、ロシアとの国境とした。さらに幕府は( )を蝦夷地に入植させ、アイヌを( )と同化させようと習俗を改めさせた。
・1804年( )が長崎に入港したが、幕府が追い返したため、ロシアは樺太と択捉島を攻撃した。それをうけ、松前藩と蝦夷地を幕府の直轄地とし( )を置いて、東北諸藩を警護にあたらせた。同じころ( )が樺太を探検した。
・1811年国後島に上陸した( )を捕らえたが、淡路商人の尽力でロシアに釈放し解決した。これを( )という。その後、1821年に幕府は蝦夷地を( )に返還した。
・同じころ( )がオランダのアジア貿易拠点を奪おうと、オランダ商館員を人質に( )に入港し、薪水と食料を要求した。背景には( )革命の末、( )を皇帝としてたてたことに危機を抱き激しく対立してたこともあった。この事件を( )という。
・その後も、イギリス船、アメリカ船など欧米列強の船が日本に近づいたので、全国各地に( )を設けさせ、1825年( )を出し、外国船の撃退を命じた。
・朝鮮通信使は1811年から簡略化され、( )までの派遣となりこれを( )という。
確認問題
問1、外国船の出没について、事件の内容と来航した国をそれぞれ選択せよ。
・ラクスマン来航 事件( )国名( )
・レザノフ来航 事件( )国名( )
・フェートン号事件 事件( )国名( )
・ゴローウニン事件 事件( )国名( )
・モリソン号事件 事件( )国名( )
・ビッドル来航 事件( )国名( )
事件の内容
ア、ラクスマンの入港許可書をもって長崎に来航したが、追い返されたため、樺太と択捉島を攻撃された。
イ、国後島に上陸した艦長をとらえたが、淡路商人の尽力で釈放した。
ウ、艦隊が浦賀に来航して、通商を要求した。
エ、根室に来航し漂流民をとどけると、通商を要求した。
オ、商船が浦賀に日本人漂流民をとどけ、交易をはかろうとした。
カ、オランダの拠点を奪おうと、商館員を人質に薪水・食料を要求した。
国名
ロシア、アメリカ、フランス、オランダ、イギリス、
問2、外国船に対する幕府の対応として、誤っているものを1つ選べ。
ア、国後島のアイヌ蜂起を機に、ロシアの接近を危惧した。
イ、最上徳内を樺太に派遣して、交易の可能性を調査した。
ウ、蝦夷地東部に100人入植させて、アイヌに同化政策を進めた。
エ、フェートン号事件の後、全国の諸大名に台場を作らせた。
オ、外国船に薪水・食料を渡していたが、やがて異国船打払令を出した。
江戸後期の政治についての練習問題
ポイントの整理
・1787年江戸・大坂など全国30か所で( )おこり、幕政の改革に将軍家斉の老中に白河藩主の( )が寛政の改革を行った。
・農村での政策では、陸奥・北関東の出稼ぎを制限し、公金を貸付け耕地の復興をはかり、( )で各地に飢饉や災害に備え社倉・義倉に米穀を蓄えさせた。
・都市政策では、豪商たちに物価・米価の引き下げを命じ、正業をもたないものに農村へ帰ることを奨励する( )を実施し、治安対策に無宿人を石川島に集め職業訓練をさせる( )を設け、町人たちに町費節約を命じ、江戸町会所に運営させ、飢饉・災害に貧民救済の体制を整えさせる( )を実施した。
・旗本たちには、年貢米を扱う商人の( )からの借金を放棄させる( )を出し、貸金会所で低金利の貸付を行った。
・言論学問については( )の建言で、( )を出し、湯島聖堂は( )に改め、( )以外の異学の教授を禁じた。
・( )は『三国通覧図説』と『海国兵談』で海防論を説き、幕府に出版禁止・蟄居の処罰をうけ、庶民の( )・( )も出版禁止と( )らが処罰を受けた。
・光格天皇の父に太上天皇の尊号を宣下したい朝廷の要望を拒否し、武家伝奏も処分した( )で、将軍家斉と対立し、定信は辞職した。
・同時期、藩主みずからが田畑の荒廃、年貢収入減の対策を図り、領内での統制と倹約をつとめ、( )を強化し、藩校をたて改革に成果をだした。熊本藩の細川重賢(しげかた)、米沢藩の( )、秋田藩の佐竹義和(よしまさ)が名君とみなされた。
・11代将軍( )は松平定信を罷免後、将軍職を家慶に譲っても実権を握る( )をした。文化年間は( )につとめたが、文政年間に質の劣る小判を流通させ物価の高騰を招いたが、財政は安定し、商人の活動は活発化した。江戸の庶民文化が栄えたのもこの頃である。
・他方、土地を失う百姓が増え、( )や( )が増え、治安が悪化した。そこで、( )を設け、代官配下の役人が領主の区別なく取締りに当たらせ、さらに( )で領知を超えて、近隣の村々を組織して共同で治安維持にあたらせた。
・しかし、1832‐33年( )で、各地で百姓一揆と打ちこわしが多発したが、幕府・藩はなんら対策がとれなかった。その時、大坂町奉行所の元与力で私塾洗心洞を開いた陽明学者( )が門徒と民衆を連れて武装蜂起を起こし、幕府に衝撃を与えた。
・それから、国学者( )が大塩の門弟と称して柏崎の( )を襲撃する( )が起こり、大塩に共鳴する一揆が多発した。
・同じころ、アメリカ商船( )が漂流民の送還して日米貿易をはかろうとしたが、幕府は( )を理由に撃退した。この事件を( )という。
・この事件を批判したのが( )と( )である。彼らが幕府を批判したことで処罰を受けたのを( )という。
・12第将軍( )の老中( )の天保の改革は失敗に終わり、幕府権力の低下を露呈した。
・まず( )で、寄席や芝居小屋を統制し、( )ら作家を処罰した。
・( )では百姓の出稼ぎを禁じ、貧民の帰農を強制した結果、江戸周辺の農村に無宿人らがあふれ治安が悪化した。
・物価高騰を抑えるため、( )を解散したが、瀬戸内・下関などで商品が売買され、生産地から上方市場への商品流通が滞ったことが原因だったため、かえって物価高騰を招いた。
・旗本には( )をだし、( )に低金利の貸付を命じた。相模の海防にあたっていた川越藩の負担を建言するため( )をやろうとしたが、領民の反対で実現できなかった。
・( )では江戸・大坂の計50万石を直轄領にし、対外防衛費に充てようとしたが、譜代大名と旗本の反対で実現できなかった。
・( )の結果、北関東は人口が減少し田畑の荒廃が見られたが、薩摩・周防ではむしろ生産力が増し人口が増えた。こうしたなか、荒廃田を回復させ、農村の復興を試みる動きとして( )の( )や大原幽学の性学があったが、あくまでも例外である。
・大半は都市商人の資金を背景に特産物の生産・加工・輸送がなされ、19世紀の天保年間から( )という工場を設けて、貧しい日雇いの農民を雇い作業を分業させる方法がとられた。天保期から大坂周辺、尾張の綿織物や桐生足利の絹織物の生産で行われるようになった。
・各藩はこうした経済の変化に応じて、利益を生み出すため( )や藩営工場の強化など、藩政改革がなされた。
確認問題
問1,次の政策について、寛政の改革、大御所政治、安政の改革の3つに分類せよ。
寛政の改革( )
大御所政治( )
安政の改革( )
ア、黄表紙・洒落本を出版禁止にし、作家や版元を処罰した。
イ、異国船打払令を出した。
ウ、物価高騰のため棄捐令をだし、札差に旗本・御家人に低金利で貸し出すよう命じた。
エ、倹約令で将軍・大奥から庶民までのぜいたくを禁じ、人情本作家為永春水を処罰した。
オ、出版統制令で政治への風刺・批判を統制し、林子平が弾圧された。
カ、棄捐令を出し、札差の旗本・御家人に対する貸付を放棄させた。
キ、旧里帰農令で正業を持たない者を農村に帰ることを奨励した。
ク、関東取締出役を設け、無宿人・博徒の取締を領主の区別なく行った。
ケ、飢饉対策として全国に囲米、江戸町会所に七分積金をさせた。
コ、株仲間を解散させたが、かえって物価高騰を招いた。
サ、百姓の出稼ぎを禁じて、人返しの法で江戸の貧民を強制的に帰郷させた。
問2,江戸の貧民流入と治安悪化について、誤っているものを1つ選べ。
ア、江戸中期から商品作物の生産がすすみ、土地を失った農民が都市へ流入した。
イ、享保の飢饉の後、江戸・大坂など主要都市で打ちこわしが相次いだ。
ウ、天保の飢饉の以前から関東の農村では、無宿人や博徒が増えていた。
エ、松平定信は無宿人に職業技能をつけさせようとした。
オ、水野忠邦は貧民の帰農を強制したため、周辺農村の治安が回復した。
問3、天保の飢饉について、誤っているものを1つ選べ。
ア、甲斐国郡内や三河国加茂郡など幕領で大規模な百姓一揆があった。
イ、陽明学者の大塩平八郎は大坂で貧民救済のため反乱を起こした。
ウ、国学者生田万は大塩に共鳴して反乱を起こした。
エ、二宮尊徳は農村の復興で成果を上げた。
オ、マニュファクチュアがすすみ、農業のみで生活する人はまれだった。
雄藩の起りについての練習問題
ポイントの整理
・水戸藩主( )は水戸学者の( )らを起用し改革を進め、( )のきっかけになったが、保守派の反対で失敗した。桜田門外で井伊直弼を暗殺したのは、水戸浪士である。
・朝廷は( )が復古をつよく求め力を持ち出す一方、財政難に苦しむ公家は各種の免許状の発行で収入を得た。幕末の「内憂外患」で天皇の権威が高まった。
・一方で西国外様の雄藩がおこりはじめ、( )・( )・( )・( )は、中下級武士から有能な人物を登用し、財政改革や洋式工業の導入をはかった。
・薩摩は下級武士の( )が三都の商人からの借金をほぼ棚上げに成功し、奄美群島の( )の専売を強化し、俵物を( )を通じて清に輸出し財政を立て直した。また藩主の( )は大砲製造のため( )を建て、造船所やガラス製造所も作るその間に、長崎の( )から洋式武器の購入をした。明治以降は薩摩は海軍で主要な力を握る。
・長州は( )が財政改革を行い、( )で下関に停泊する北前船などの廻船から商品を買い上げ、委託販売をした。( )の叔父の開いた( )は、明治維新以降活躍する重要な政治家や主に陸軍の軍人を輩出した。
・肥前は藩主の( )が均田制を実施し、陶磁器の専売を強化して出た財政のゆとりで( )を建設し大砲を製造する洋式工業を起こした。
・土佐は( )という改革派が出現した。( )はのちに薩長同盟の立役者となり、岩崎弥太郎は政商の三菱財閥を創設する。
・他に宇和島藩の伊達宗城(むねなり)と福井藩の( )が中下級武士を起用して改革を行った。
・幕府も代官の( )が伊豆韮山に( )を建設した。
確認問題
問1,尊王攘夷運動の支柱となった学問は何か。
問2,幕府や雄藩が反射炉を設けた理由は何か。
問3,雄藩の政策について、誤っているものを2つ選べ。
ア、薩摩藩は長崎の商人グラヴァ―から洋式武器を購入して、軍事力を強化した。
イ、長州藩では村田清風が財政改革をし、下関で北前船から商品を買い取り上方に売った。
ウ、肥前藩では「おこぜ組」が起こり、大砲製造を行った。
エ、土佐藩では調所広郷が改革に着手し、黒砂糖の専売を強化した。
開国の影響についての練習問題
ポイントの整理
・イギリスは産業革命で勢いをつけ、1840年( )で清を破り、1842年( )で( )の割譲、寧波、アモイなど五港の開港、関税自主権、治外法権など認めさせる不平等条約を結んだ。
・清は銀の流出で、農民の税負担が増え1851年太平天国の乱が起き、1858年アロー戦争で北京条約を結ばされ、1860年代から洋務運動で近代化を図る。
・日本は異国船打払令をゆるめ、1842年( )を出すが鎖国を維持しアメリカの( )の要求を拒否した。
・アメリカは捕鯨や清との交易を目的に日本に接近し、1853年( )が浦賀に来航し、ロシアは軍事・経済上冬でも凍らない港を求めて南下をすすめ、同年( )が長崎に来航した。
・翌年幕府はアメリカと( )を結び、( )・( )の開港、アメリカ船に食料と燃料の供給、難破船の救助、( )を認めることを約束した。
・同年ロシアと( )を結び、( )の開港も認め、国境線も確定した。同様の条約をイギリス、オランダとも結んだ。
・老中( )は諸大名・朝廷に意見を求め、薩摩藩主( )らを登用し、水戸藩主( )を幕政に参加させ、江戸湾に( )を築き、大船建造の禁を解いた。
・日米修好通商条約の背景には( )で中国が列強に敗れ幕府の脅威が増したところにあり、( )の許可なく老中( )と大老( )は、アメリカ総領事( )と条約締結した。蘭・露・英・仏とも同様の条約を結び( )という。
・( )は開港後最大の港となり、最大の貿易相手は( )で、日本は主に( )を輸出し( )を輸入したが貿易赤字だった。
・しかも( )が国外に流出し、手織りの( )が打撃を受け( )の上昇で庶民の生活が逼迫した。
・幕府は品不足をさけるため( )を出すが効果なく、( )を出すがむしろ物価が上昇し、( )に発展した。
・過激な事件では蘭語通訳( )が薩摩浪人に殺害されたり、薩摩藩が馬上の英国人を殺傷した( )、長州の松下村塾門弟( )・( )・( )らが英国公使館への放火があった。
確認問題
問1、開国後の流れについて、誤っているものを1つ選べ。
ア、アヘン戦争を機に異国船打払令を薪水給与令に改めた。
イ、日米和親条約を結んだ同じ年に日露和親条約を結んだ。
ウ、安政の改革では、薩摩の島津斉彬、水戸の徳川斉昭らが登用された。
エ、大老井伊直弼は、孝明天皇の許可なくアメリカ等5カ国と通商条約を結んだ。
オ、横浜での最大の貿易相手国はアメリカで、金が大量に国外へ流出した。
カ、開港後の物価高騰に幕府は万延小判鋳造などで対処した。
幕末の動乱についての練習問題
ポイントの整理
・1858年南紀派( )は大老になり、慶福を14代将軍にし、( )を無視して条約締結し、( )で一橋派など反対勢力を弾圧したため、( )で暗殺された。
・幕府は事態収拾のため、将軍( )と( )を結婚させ、薩摩藩の( )が朝廷と幕府の間をとりもち西洋式軍隊の採用など改革を行った。これを( )という。
・しかし長州藩の下級武士が( )を唱えたため、両者の衝突が起こり( )で長州藩と急進派公家( )を京都から追放し、( )は会津・薩摩・桑名vs.長州の構図になった。
・( )で長州は攘夷が不可能と知り、薩摩は( )で解明政策に転換し( )・( )ら下級武士が藩政を握るようになった。
・列強は( )沖に艦隊を出し朝廷も威圧し、( )を幕府に調印させた。
・( )は幕府は無力と見抜き雄藩連合政権に期待し、( )はあくまで幕府を支持した。
・長州の尊攘派は( )・( )ら松下村塾の出身が多く、( )のあと藩に弾圧されたが、( )の活躍によって藩の論調を討幕開国へ転換させた。
・幕府は( )を宣言するが、長州は土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎らにより敵対していた開明派の薩摩と( )を結んだ。
・龍馬と( )は土佐前藩主( )を通じて、( )に政権を朝廷に返すことで討幕運動を抑止することを説き、 ( )の上表につながった。しかし、公家( )は討幕の密勅を手にしていた。
・( )の大号令が出された同日に、( )で慶喜の官職はく奪と領地返還が決定したため、薩摩を中心とする新政府軍と衝突し一年半にわたる( )に発展した。
・開国後幕府は洋学の振興をはじめ、( )を新たに置き、外交文書の翻訳にあたり、長崎では( )以後の技術が導入されたが、人材不足のため( )に留学生を派遣した。慶応年間にはフランスから顧問を招き、海軍、陸軍の近代化を進めた。
・幕府は1860年日米修好通商条約の批准書交換のため、( )らが咸臨丸で太平洋を横断した。英語通訳に( )が同行した。
・長州や薩摩からイギリスに留学生が行き、明治政府の中心となる( )、( )、( )がいた。
・横浜の居留地で医学と宣教に来たアメリカ人の( )により和英辞書が作られた。
確認問題
問1,幕府が「公武合体」を進めるきっかけとなった事件は何か。
問2,文久の改革について、誤っているものを1つ選べ。
ア、薩摩の島津久光が勅命をうけ、公武合体の幕政改革をした。
イ、将軍家茂の後見人は、一橋家の徳川慶喜がなった。
ウ、蕃書調所を洋書調所に改変し、オランダに留学生を派遣した。
エ、イギリスのパークスが洋式軍隊の設置に協力した。
問2,薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通が藩政を主導するきっかけとなった事件は何か。
問3,長州藩では四国艦隊下関砲撃事件のあと、藩内の論調がどのように変化したか。
問5,幕府の近代化政策で、誤っているものを1つ選べ。
ア、咸臨丸で勝海舟らをアメリカに派遣した。
イ、長崎と神戸に汽船を整備する造船所を設けた。
ウ、1867年パリ万博に使節団を送った。
エ、洋学研究は哲学、政治、経済まで広げた。
問4,次の人物のうち、幕府から欧米に派遣された者をすべて選べ。
森有礼(もりありのり)、福沢諭吉、伊藤博文、勝海舟、西周(にしあまね)、榎本武揚(えのもとたけあき)、井上馨、渋沢栄一、中江兆民、津田梅子、
江戸後期の文化についての練習問題
・江戸中期(18世紀中ごろ)から江戸後期(19世紀前半)の文化をまとめています。
・学問と学校は「江戸時代2の練習問題」にあります。
・元禄時代までの文化は、「江戸時代1の練習問題」にあります。
ポイントの整理
・化政文化は徳川家斉から( )までの19世紀前半の文化で、三都の下層の民衆も含む( )で、18世紀末の政治経済混乱で改革の機運ならびに出版・教育の全国的普及で、武士だけでなく豪商・豪農などの全国的な( )があった。
・経済政策では各藩をまわった( )が藩財政の再建に商品経済の発展をもたらす殖産興業を唱え、( )は西洋諸国との交易や蝦夷地開発と説き、( )は産業の国家主導経営、貿易による重商主義を説いた。
・文学では浮世草子が廃れ、18世紀に遊里を描く( )や風刺のきいた( )が流行り、寛政の改革では( )が処罰された。同時期に俳句の形式で世相・風俗を風刺する( )が定着した。
・その後化成期に( )というジャンルで、( )の「浮世風呂」や( )「東海道中膝栗毛」などが有名である。恋愛ものジャンルの( )は天保の改革のとき作家の( )が処罰された。歴史や伝説を題材にした小説を( )といい、( )「雨月物語」や( )「南総里見八犬伝」が有名である。
・農村の人々を生き生きと描写した俳諧で( )がおり、禅僧の( )は和歌で有名である。また同時期に世相を風刺する( )も流行し、大田南畝や石川雅望が有名である。
・庶民向けの絵画では18世紀半ば( )が多色刷りの( )を完成させた。美人画には( )、役者絵には( )が活躍した。化成期には、風景画で( )と( )が有名だった。
・伝統絵画では( )が遠近法や写生を取りいれた丸山派を始め、そこから分かれた( )の呉春が活躍した。
・明や清の影響を受けた文人画として18世紀後半、( )が登場し、化成期には( )や( )などがいた。
・18世紀後半から西洋画も登場し、( )・( )らが活躍した。
・庶民文化も発達し、三都で常設の( )や( )が設けられ、歌舞伎役者や狂言作者の( )などが活躍し、錦絵、出版物、地方興行で全国各地にその文化が広がり、農村では若者が中心となって( )が行われた。
・寺社では、秘仏を公開する( )や宝くじに( )を行った。民衆も伊勢神宮など寺社参詣を行い、庚申の日に一夜を明かす( )という信仰があった。
確認問題
問1、江戸中期から後期の文学について、人物をそれぞれの時代に分類せよ。
江戸中期(寛政まで):
江戸後期(化成文化):
人物
問2、江戸中期から後期までの絵画について、人物をそれぞれの時代に分類せよ。
江戸中期(寛政まで):
江戸後期(化成文化):
人物
日本史(江戸後期)の年表問題
・列強と幕府の対応
将軍 | 元号 | 列強の動き | 幕府の対応 |
家治10 | 天明 | 1783、工藤平助の意見を採用 1786、( )を蝦夷地に派遣 | |
家斉11 | 寛政 | 1792、ロシアの( )が根室に来航し、大黒屋光太夫らを届ける | 1792、( )『海国兵談』で海防を説いたが、幕府批判として処罰 1798、近藤重蔵( )らが択捉島を探索 1799、東蝦夷地を直轄地とする 1800、( )が蝦夷地を測量 |
文化文政 | 1804、ロシアの( )が長崎に来航し通商を求める 1808、( )、イギリス船が長崎侵入 1811、ゴローウニン事件 1824、イギリス船員が常陸と薩摩に上陸 | 1807、松前藩と蝦夷地を幕府の直轄とし、東北諸藩を警護に当たらせる 1808‐09、( )が樺太を調査 1813、高田屋嘉兵衛の送還によりゴローウニンを釈放 1821、蝦夷地を松前藩に還付 1825、( ) 1828、シーボルト事件 | |
家慶12 | 天保 | 1837、( )、浦賀と山川で日本に砲撃される 1840、清で( )が起きる | 1839、( )で渡辺崋山・高野長英を処罰 1842、( )で打払いを緩和 |
弘化嘉永 | 1846、アメリカの( )が浦賀に来航 | 1844、オランダ国王が開国を勧告 1846、ビッドルの通商要求を拒否 | |
家定13 | 1853、アメリカの( )が来航、ロシアの( )が長崎に来航、 | 1853、老中首座に阿部正弘がつく、 ( )を開始 ・江戸湾に( )を建設 ・大型船建築の禁を解く | |
安政 | 1853、ペリーが浦賀に来航、ロシアのプチャーチンが長崎に来航、 1854、ペリー再来航、プチャーチンが下田に来航 1855、フランス艦隊が下田に来航、イギリス艦隊が箱館に来航(クリミア戦争の影響) 1856、( )が下田に到着 同年、アロー戦争 1858、清と露・米・仏・英との間に天津条約を締結 | 1854、日米和親条約、日露和親条約、日英和親条約を締結 同年、韮山の反射炉を建造開始 1855、日蘭和親条約を締結 同年、長崎に海軍伝習所を設置 1856、蕃書調所を設置、江戸に講武所を設置 1858、( )が大老に就任 同年、日米修好通商条約を締結 蘭・露・英とも同様の条約を結ぶ。 外国奉行を設置。 フランスとも締結( )⇒( )が起きる | |
家茂14 | 万延 | 1860、安藤信正が老中に就任 同年、条約批准のため、咸臨丸で太平洋横断 |
・江戸後期の政治
将軍 | 老中 | できごと |
家斉11 | (② ) | 1787‐93( )を開始 1789、(① ):上皇の号を送るかで朝廷と対立 同年、( ):旗本・御家人の借金帳消し 同年、( ):全国各地に飢饉対策として設置 1790、江戸石川島に( )設置 同年、( )で朱子学を正学に 同年、( ):貧民に帰農を奨励 1791、( ):町会所に節約金の積立を命じる 1792、ラクスマンが根室に来航。 1793、①の問題で②が解任される。 |
1798、近藤重蔵、最上徳内らが択捉島に標柱を建てる 1800、伊能忠敬、蝦夷地の測量を始める | ||
1805、( )を置き、博徒・無宿人を取締る 1807、松前奉行を置く 1808、間宮林蔵が樺太を探索。 1811、ゴローウニンをとらえる 1825、( )を出す 1827、関東全域に( )の結成を命じる 同年、鹿児島藩の( )が財政改革を始める 1828、シーボルト事件 1830、水戸の( )が藩政改革を始める 1833‐39、( )が発生 | ||
家慶12 | (③ ) | 1837、( )が大坂で発生、 同年、( )が越後柏崎で発生 同年、モリソン号事件が起きる 1838、水戸藩主が「内憂外患」について意見書を書く 同年、( )が長州藩の改革を始める 1839、( )で渡辺崋山らが処罰される 1840、( )を発表、翌年撤回 同年、アヘン戦争が勃発 1841、( )を命じる 1842、薪水給与令を出す 1843、( ):貧民の帰農を強制 同年、( )を発布し、翌月撤回⇒③を罷免 |
( ) | 1845、幕府はオランダの開国勧告を拒否 1846、江川太郎左衛門が海防意見を提出、 同年、ビッドルが来航 1847、江戸湾に台場を設置 1851、中浜万次郎がアメリカ船で帰国 | |
家定13 | ( ) | 1853、ペリー来航 1854、日米和親条約を締結 同年、韮山に反射炉を建設 1856、ハリスが下田に到着 1858、( )が大老に就任 同年、日米修好通商条約を締結、同様の条約を蘭・英・露・仏と結ぶ 同年、( )で吉田松陰らを処罰 |
家茂14 | ( ) | 1860、咸臨丸で太平洋を横断 同年、( )で暗殺 和宮が家茂と結婚 1862、( )が幕政改革に着手(文久の改革) 1863、八月十八日の政変 1864、禁門の変 |
・幕末の動乱
天皇 | 将軍 | できごと |
孝明 | 家茂 | 1863、( ):生麦事件の報復 同年、( ):三条実美らが長州に逃亡 1864、仏公使ロッシュが着任 同年、池田屋事件 同年、( ):京都で薩摩と長州が衝突 ⇒第1次長州征討 同年、長州で( ) 1865、英公使パークスが着任 1866、( )が成立 同年、改税約書に調印、江戸・大坂で大規模な打ちこわし |
慶喜 | 1866、慶喜が将軍に | |
明治 | 1867、明治天皇が即位 同年、「ええじゃないか」の発生 同年、土佐の山内容堂が大政奉還を建白 同年、慶喜が( )を上表 同年、王政復古の大号令 同年、( )で幕府の辞官納地を決定 1868、( )が始まる |
日本史(江戸後期)の解答
鎖国の動揺についての解答
ポイントの整理
・18世紀末ごろから欧米のアジア・アフリカ侵略と欧米諸国間の対立・競争が激化した。
・1792年ロシアの(ラクスマン)が根室に来て、通商と江戸入港を求めた。幕府はアイヌとロシアとの提携が危惧し、1789年(最上徳内)と近藤重蔵に択捉島を探検させ、ロシアとの国境とした。さらに幕府は(八王子千人同心)を蝦夷地に入植させ、アイヌを(和人)と同化させようと習俗を改めさせた。
・1804年(レザノフ)が長崎に入港したが、幕府が追い返したため、ロシアは樺太と択捉島を攻撃した。それをうけ、松前藩と蝦夷地を幕府の直轄地とし(松前奉行)を置いて、東北諸藩を警護にあたらせた。同じころ(間宮林蔵)が樺太を探検した。
・1811年国後島に上陸した(ゴローウニン)を捕らえたが、淡路商人の尽力でロシアに釈放し解決した。これを(ゴローウニン事件)という。その後、1821年に幕府は蝦夷地を(松前藩)に返還した。
・同じころ(イギリス)がオランダのアジア貿易拠点を奪おうと、オランダ商館員を人質に(長崎)に入港し、薪水と食料を要求した。背景には(フランス)革命の末、(ナポレオン)を皇帝としてたてたことに危機を抱き激しく対立してたこともあった。この事件を(フェートン号事件)という。
・その後も、イギリス船、アメリカ船など欧米列強の船が日本に近づいたので、全国各地に(台場)を設けさせ、1825年(異国船打払令)を出し、外国船の撃退を命じた。
・朝鮮通信使は1811年から簡略化され、(対馬)までの派遣となりこれを(易地聘礼)という。
確認問題
問1、外国船の出没について、事件の内容と来航した国をそれぞれ選択せよ。
・ラクスマン来航 事件( エ )国名( ロシア )
・レザノフ来航 事件( ア )国名( ロシア )
・フェートン号事件 事件( カ )国名( イギリス )
・ゴローウニン事件 事件( イ )国名( ロシア )
・モリソン号事件 事件( オ )国名( アメリカ )
・ビッドル来航 事件( ウ )国名( アメリカ )
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江戸後期の政治についての解答
ポイントの整理
・1787年江戸・大坂など全国30か所で(天明の打ちこわし )おこり、幕政の改革に将軍家斉の老中に白河藩主の(松平定信)が寛政の改革を行った。
・農村での政策では、陸奥・北関東の出稼ぎを制限し、公金を貸付け耕地の復興をはかり、(囲米)で各地に飢饉や災害に備え社倉・義倉に米穀を蓄えさせた。
・都市政策では、豪商たちに物価・米価の引き下げを命じ、正業をもたないものに農村へ帰ることを奨励する(旧里帰農令)を実施し、治安対策に無宿人を石川島に集め職業訓練をさせる(人足寄場)を設け、町人たちに町費節約を命じ、江戸町会所に運営させ、飢饉・災害に貧民救済の体制を整えさせる(七分積金)を実施した。
・旗本たちには、年貢米を扱う商人の(札差)からの借金を放棄させる(棄捐令)を出し、貸金会所で低金利の貸付を行った。
・言論学問については(柴野栗山)の建言で、(寛政異学の禁)を出し、湯島聖堂は(昌平坂学問所)に改め、(朱子学)以外の異学の教授を禁じた。
・(林子平)は『三国通覧図説』と『海国兵談』で海防論を説き、幕府に出版禁止・蟄居の処罰をうけ、庶民の(黄表紙)・(洒落本)も出版禁止と(山東京伝)らが処罰を受けた。
・光格天皇の父に太上天皇の尊号を宣下したい朝廷の要望を拒否し、武家伝奏も処分した(尊号一件)で、将軍家斉と対立し、定信は辞職した。
・同時期、藩主みずからが田畑の荒廃、年貢収入減の対策を図り、領内での統制と倹約をつとめ、(専売制)を強化し、藩校をたて改革に成果をだした。熊本藩の細川重賢(しげかた)、米沢藩の(上杉治憲(鷹山))、秋田藩の佐竹義和(よしまさ)が名君とみなされた。
・11代将軍(家斉)は松平定信を罷免後、将軍職を家慶に譲っても実権を握る(大御所政治)をした。文化年間は(質素倹約)につとめたが、文政年間に質の劣る小判を流通させ物価の高騰を招いたが、財政は安定し、商人の活動は活発化した。江戸の庶民文化が栄えたのもこの頃である。
・他方、土地を失う百姓が増え、(無宿人)や(博徒)が増え、治安が悪化した。そこで、(関東取締出役)を設け、代官配下の役人が領主の区別なく取締りに当たらせ、さらに(寄場組合)で領知を超えて、近隣の村々を組織して共同で治安維持にあたらせた。
・しかし、1832‐33年(天保の飢饉)で、各地で百姓一揆と打ちこわしが多発したが、幕府・藩はなんら対策がとれなかった。その時、大坂町奉行所の元与力で私塾洗心洞を開いた陽明学者(大塩平八郎)が門徒と民衆を連れて武装蜂起を起こし、幕府に衝撃を与えた。
・それから、国学者(生田万)が大塩の門弟と称して柏崎の(陣屋)を襲撃する(生田万の乱)が起こり、大塩に共鳴する一揆が多発した。
・同じころ、アメリカ商船(モリソン号)が漂流民の送還して日米貿易をはかろうとしたが、幕府は(異国船打払令)を理由に撃退した。この事件を(モリソン号事件)という。
・この事件を批判したのが(渡辺崋山)と(高野長英)である。彼らが幕府を批判したことで処罰を受けたのを(蛮社の獄)という。
・12第将軍(家慶)の老中(水野忠邦)の天保の改革は失敗に終わり、幕府権力の低下を露呈した。
・まず(倹約令)で、寄席や芝居小屋を統制し、(為永春水)ら作家を処罰した。
・(人返しの法)では百姓の出稼ぎを禁じ、貧民の帰農を強制した結果、江戸周辺の農村に無宿人らがあふれ治安が悪化した。
・物価高騰を抑えるため、(株仲間)を解散したが、瀬戸内・下関などで商品が売買され、生産地から上方市場への商品流通が滞ったことが原因だったため、かえって物価高騰を招いた。
・旗本には(棄捐令)をだし、(札差)に低金利の貸付を命じた。相模の海防にあたっていた川越藩の負担を建言するため(三方領知替え)をやろうとしたが、領民の反対で実現できなかった。
・(上知令)では江戸・大坂の計50万石を直轄領にし、対外防衛費に充てようとしたが、譜代大名と旗本の反対で実現できなかった。
・(天保の飢饉)の結果、北関東は人口が減少し田畑の荒廃が見られたが、薩摩・周防ではむしろ生産力が増し人口が増えた。こうしたなか、荒廃田を回復させ、農村の復興を試みる動きとして(二宮尊徳)の(報徳仕法)や大原幽学の性学があったが、あくまでも例外である。
・大半は都市商人の資金を背景に特産物の生産・加工・輸送がなされ、19世紀の天保年間から(マニュファクチュア)という工場を設けて、貧しい日雇いの農民を雇い作業を分業させる方法がとられた。天保期から大坂周辺、尾張の綿織物や桐生足利の絹織物の生産で行われるようになった。
・各藩はこうした経済の変化に応じて、利益を生み出すため(専売制)や藩営工場の強化など、藩政改革がなされた。
確認問題
問1,次の政策について、寛政の改革、大御所政治、安政の改革の3つに分類せよ。
寛政の改革(ア、オ、カ、キ、ケ、 )
大御所政治(イ、ク、 )
安政の改革(ウ、エ、コ、サ )
問2,江戸の貧民流入と治安悪化について、誤っているものを1つ選べ。
オ、水野忠邦は貧民の帰農を強制したため、周辺農村の治安が回復した。
農村の治安は悪化しました。
問3、天保の飢饉について、誤っているものを1つ選べ。
オ、マニュファクチュアがすすみ、農業のみで生活する人はまれだった。
教科書には書かれていません。
幕末から後は、こちらに掲載
雄藩の起りについての解答
ポイントの整理
・水戸藩主(徳川斉昭)は水戸学者の(藤田東湖)らを起用し改革を進め、(尊王攘夷運動)のきっかけになったが、保守派の反対で失敗した。桜田門外で井伊直弼を暗殺したのは、水戸浪士である。
・朝廷は(光格天皇)が復古をつよく求め力を持ち出す一方、財政難に苦しむ公家は各種の免許状の発行で収入を得た。幕末の「内憂外患」で天皇の権威が高まった。
・一方で西国外様の雄藩がおこりはじめ、(薩摩)・(長州)・(土佐)・(肥前)は、中下級武士から有能な人物を登用し、財政改革や洋式工業の導入をはかった。
・薩摩は下級武士の(調所広郷)が三都の商人からの借金をほぼ棚上げに成功し、奄美群島の(黒砂糖)の専売を強化し、俵物を(琉球王国)を通じて清に輸出し財政を立て直した。また藩主の(島津斉彬)は大砲製造のため(反射炉)を建て、造船所やガラス製造所も作るその間に、長崎の(グラヴァ―)から洋式武器の購入をした。明治以降は薩摩は海軍で主要な力を握る。
・長州は(村田清風)が財政改革を行い、(越荷方)で下関に停泊する北前船などの廻船から商品を買い上げ、委託販売をした。(吉田松陰)の叔父の開いた(松下村塾)は、明治維新以降活躍する重要な政治家や主に陸軍の軍人を輩出した。
・肥前は藩主の(鍋島正直)が均田制を実施し、陶磁器の専売を強化して出た財政のゆとりで(反射炉)を建設し大砲を製造する洋式工業を起こした。
・土佐は(おこぜ組)という改革派が出現した。(坂本龍馬)はのちに薩長同盟の立役者となり、岩崎弥太郎は政商の三菱財閥を創設する。
・他に宇和島藩の伊達宗城(むねなり)と福井藩の(松平春嶽)が中下級武士を起用して改革を行った。
・幕府も代官の(江川太郎左衛門)が伊豆韮山に(反射炉)を建設した。
確認問題
問1,水戸学
問2,大砲を製造するため。
問3,雄藩の政策について、誤っているものを2つ選べ。
ウ、肥前藩では「おこぜ組」が起こり、大砲製造を行った。
おこぜ組は、土佐藩の改革派のことです。
エ、土佐藩では調所広郷が改革に着手し、黒砂糖の専売を強化した。
薩摩藩の誤り。
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開国の影響についての解答
ポイントの整理
・イギリスは産業革命で勢いをつけ、1840年(アヘン戦争)で清を破り、1842年(南京条約)で(香港)の割譲、寧波、アモイなど五港の開港、関税自主権、治外法権など認めさせる不平等条約を結んだ。
・清は銀の流出で、農民の税負担が増え1851年太平天国の乱が起き、1858年アロー戦争で北京条約を結ばされ、1860年代から洋務運動で近代化を図る。
・日本は異国船打払令をゆるめ、1842年(薪水給与令)を出すが鎖国を維持しアメリカの(ビッドル)の要求を拒否した。
・アメリカは捕鯨や清との交易を目的に日本に接近し、1853年(ペリー)が浦賀に来航し、ロシアは軍事・経済上冬でも凍らない港を求めて南下をすすめ、同年(プチャーチン)が長崎に来航した。
・翌年幕府はアメリカと(日米和親条約)を結び、(箱館)・(下田)の開港、アメリカ船に食料と燃料の供給、難破船の救助、(片務的最恵国待遇)を認めることを約束した。
・同年ロシアと(日露和親条約)を結び、(長崎)の開港も認め、国境線も確定した。同様の条約をイギリス、オランダとも結んだ。
・老中(阿部正弘)は諸大名・朝廷に意見を求め、薩摩藩主(島津斉彬)らを登用し、水戸藩主(徳川斉昭)を幕政に参加させ、江戸湾に(台場)を築き、大船建造の禁を解いた。
・日米修好通商条約の背景には(アロー戦争)で中国が列強に敗れ幕府の脅威が増したところにあり、(孝明天皇)の許可なく老中(堀田正睦)と大老(井伊直弼)は、アメリカ総領事(ハリス)と条約締結した。蘭・露・英・仏とも同様の条約を結び(安政の五カ国条約)という。
・(横浜)は開港後最大の港となり、最大の貿易相手は(イギリス)で、日本は主に(生糸)を輸出し(綿織物)を輸入したが貿易赤字だった。
・しかも(金)が国外に流出し、手織りの(綿織物)が打撃を受け(物価)の上昇で庶民の生活が逼迫した。
・幕府は品不足をさけるため(五品江戸廻送令)を出すが効果なく、(万延小判)を出すがむしろ物価が上昇し、(攘夷運動)に発展した。
・過激な事件では蘭語通訳(ヒュースケン)が薩摩浪人に殺害されたり、薩摩藩が馬上の英国人を殺傷した(生麦事件)、長州の松下村塾門弟(高杉晋作)・(井上馨)・(伊藤博文)らが英国公使館への放火があった。
確認問題
問1、開国後の流れについて、誤っているものを1つ選べ。
オ、横浜での最大の貿易相手国はアメリカで、金が大量に国外へ流出した。
イギリスです。
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幕末の動乱についての解答
ポイントの整理
・1858年南紀派(井伊直弼)は大老になり、慶福を14代将軍にし、(孝明天皇)を無視して条約締結し、(安政の大獄)で一橋派など反対勢力を弾圧したため、(桜田門外の変)で暗殺された。
・幕府は事態収拾のため、将軍(徳川家茂)と(和宮)を結婚させ、薩摩藩の(島津久光)が朝廷と幕府の間をとりもち西洋式軍隊の採用など改革を行った。これを(文久の改革)という。
・しかし長州藩の下級武士が(尊王攘夷論)を唱えたため、両者の衝突が起こり(八月十八日の政変)で長州藩と急進派公家(三条実美)を京都から追放し、(禁門の変)は会津・薩摩・桑名vs.長州の構図になった。
・(四国艦隊下関砲撃事件)で長州は攘夷が不可能と知り、薩摩は(薩英戦争)で解明政策に転換し(西郷隆盛)・(大久保利通)ら下級武士が藩政を握るようになった。
・列強は(兵庫)沖に艦隊を出し朝廷も威圧し、(改税約書)を幕府に調印させた。
・(パークス)は幕府は無力と見抜き雄藩連合政権に期待し、(ロッシュ)はあくまで幕府を支持した。
・長州の尊攘派は(高杉晋作)・(木戸孝允)ら松下村塾の出身が多く、(四国艦隊下関砲撃事件)のあと藩に弾圧されたが、(奇兵隊)の活躍によって藩の論調を討幕開国へ転換させた。
・幕府は(長州征討)を宣言するが、長州は土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎らにより敵対していた開明派の薩摩と(薩長同盟)を結んだ。
・龍馬と(後藤象二郎)は土佐前藩主(山内容堂)を通じて、(徳川慶喜)に政権を朝廷に返すことで討幕運動を抑止することを説き、 (大政奉還)の上表につながった。しかし、公家(岩倉具視)は討幕の密勅を手にしていた。
・(王政復古)の大号令が出された同日に、(小御所会議)で慶喜の官職はく奪と領地返還が決定したため、薩摩を中心とする新政府軍と衝突し一年半にわたる(戊辰戦争)に発展した。
・開国後幕府は洋学の振興をはじめ、(蕃書調所)を新たに置き、外交文書の翻訳にあたり、長崎では(産業革命)以後の技術が導入されたが、人材不足のため(オランダ)に留学生を派遣した。慶応年間にはフランスから顧問を招き、海軍、陸軍の近代化を進めた。
・幕府は1860年日米修好通商条約の批准書交換のため、(勝海舟)らが咸臨丸で太平洋を横断した。英語通訳に(福沢諭吉)が同行した。
・長州や薩摩からイギリスに留学生が行き、明治政府の中心となる(伊藤博文)、(井上馨)、(森有礼)がいた。
・横浜の居留地で医学と宣教に来たアメリカ人の(ヘボン)により和英辞書が作られた。
確認問題
問1,桜田門外の変
問2,文久の改革について、誤っているものを1つ選べ。
エ、イギリスのパークスが洋式軍隊の設置に協力した。
幕府を援助したのは、フランス公使のロッシュです。
問2,薩英戦争
問3,尊王攘夷論から倒幕へ転換した。
問5,幕府の近代化政策で、誤っているものを1つ選べ。
イ、長崎と神戸に汽船を整備する造船所を設けた。
神戸ではなく横須賀です。
問4,次の人物のうち、幕府から欧米に派遣された者をすべて選べ。
福沢諭吉、勝海舟、西周(にしあまね)、榎本武揚(えのもとたけあき)、渋沢栄一、
参考書がオンラインで買える時代、先生もオンラインで選ぼう!
- 高額な塾代だからこそ、学生バイトに任せられない
- 勉強が苦手な子から難関大学受験まで幅広く対応
- 経験豊富なプロだからこそ目からウロコのアドバイス
江戸後期の文化についての解答
ポイントの整理
・化政文化は徳川家斉から(天保の改革)までの19世紀前半の文化で、三都の下層の民衆も含む(町人文化)で、18世紀末の政治経済混乱で改革の機運ならびに出版・教育の全国的普及で、武士だけでなく豪商・豪農などの全国的な(交流)があった。
・経済政策では各藩をまわった(海保青陵)が藩財政の再建に商品経済の発展をもたらす殖産興業を唱え、(本多利明)は西洋諸国との交易や蝦夷地開発と説き、(佐藤信淵)は産業の国家主導経営、貿易による重商主義を説いた。
・文学では浮世草子が廃れ、18世紀に遊里を描く(洒落本)や風刺のきいた(黄表紙)が流行り、寛政の改革では(山東京伝)が処罰された。同時期に俳句の形式で世相・風俗を風刺する(川柳)が定着した。
・化成期に(滑稽本)というジャンルで、(式亭三馬)の「浮世風呂」や(十返舎一九)「東海道中膝栗毛」などが有名である。恋愛ものジャンルの(人情本)は天保の改革のとき作家の(為永春水)が処罰された。歴史や伝説を題材にした小説を(読本)といい、(上田秋成)「雨月物語」や(曲亭馬琴)「南総里見八犬伝」が有名である。
・農村の人々を生き生きと描写した俳諧で(小林一茶)がおり、禅僧の(良寛)は和歌で有名である。また同時期に世相を風刺する(狂歌)も流行し、大田南畝や石川雅望が有名である。
・庶民向けの絵画では18世紀半ば(鈴木春信)が多色刷りの(錦絵)を完成させた。美人画には(喜多川歌麿)、役者絵には(東洲斎写楽)が活躍した。化成期には、風景画で(葛飾北斎)と(歌川広重)が有名だった。
・伝統絵画では(円山応挙)が遠近法や写生を取りいれた丸山派を始め、そこから分かれた(四条派)の呉春が活躍した。
・明や清の影響を受けた文人画として18世紀後半、(池大雅)が登場し、化成期には(谷文晁)や(渡辺崋山)などがいた。
・18世紀後半から西洋画も登場し、(司馬江漢)・(亜欧堂田善)らが活躍した。
・庶民文化も発達し、三都で常設の(芝居小屋)や(寄席)が設けられ、歌舞伎役者や狂言作者の(鶴屋南北)などが活躍し、錦絵、出版物、地方興行で全国各地にその文化が広がり、農村では若者が中心となって(村芝居)が行われた。
・寺社では、秘仏を公開する(開帳)や宝くじに(富突)を行った。民衆も伊勢神宮など寺社参詣を行い、庚申の日に一夜を明かす(庚申講)という信仰があった。
確認問題
問1、江戸中期から後期の文学について、人物をそれぞれの時代に分類せよ。
江戸中期(寛政まで):山東京伝、柄井川柳、与謝蕪村、恋川春町、
江戸後期(化成文化):為永春水、式亭三馬、曲亭馬琴、十返舎一九、上田秋成、小林一茶、良寛、
問2、江戸中期から後期までの絵画について、人物をそれぞれの時代に分類せよ。
江戸中期(寛政まで):鈴木春信、円山応挙、池大雅、司馬江漢、喜多川歌麿、東洲斎写楽、亜欧堂田善、
江戸後期(化成文化):谷文晁、渡辺崋山、葛飾北斎、呉春、
江戸時代1の練習問題はこちらです。
江戸時代2の練習問題はこちらです。