山田詠美「ひよこの眼」は、すっかり高校教科書の定番となっています。
高校生たちに、なんか面白いと思わせるポイントがいくつもある作品です。
中学3年生の甘酸っぱい恋愛かと思いきや、恐ろしい悪夢にうなされるトラウマものだったのです。
なぜ、数ある小説のなかで、「ひよこの眼」が教科書の定番になったのか考察していきたいと思います。
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「ひよこの眼」にまつわるトラウマ
山田詠美は高校生におすすめの作家か?
山田詠美の作品は、「ひよこの眼」のほかに「眠れる分度器」がセンター試験に出題されたことがありました。
短編集『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞を受賞して、短編の名手として名高い女性作家です。
思春期をテーマにした作品と同じように、黒人男性との濃密で刺激的な恋愛模様も多数発表しています。
創作活動において、恋愛とセックスは切り離せない大事なテーマだったのです。
同じ思春期を題材にした『放課後の音符(キーノート)』、『ぼくは勉強ができない』も、頭の固い大人には受け入れがたいかもしれません。
どちらも面白い短編集ですが、評価は分かれそうです。
作家の仕事は、漫画家やミュージシャンとも同じで、読者の心をつかむ面白い作品をつくることです。
文科省や全国学校図書館協議会が、中学生・高校生に読ませたい本を書くのが目的ではありません。
「ジャンプ」の漫画家との大きな違いは、言葉だけで人を楽しませることができるか、という一点だけです。
1990年に発表された「ひよこの眼」も、山田詠美の数ある作品群の1つにすぎません。
「ひよこの眼」が載っている本
教科書にあるトラウマ作品
ただ面白い作品を書くために情熱を燃やしてきた作家は、数えきれないほどいます。
国語の教科書に載せること、入試問題に出題されること、など、現代の作家ですら考えていません。
そもそも作家とは、青少年の手本とは程遠い人間ばかりです。
「羅生門」、「こころ」、「山月記」、など教科書の定番も、ハッピーエンドでないですよね。
過去のトラウマを告白する系なら、「少年の日の思い出」、「大人になれたかった弟たちに」などたくさんあります。
「友達の大切なチョウを盗むことを、どうすれば防ぐことができましたか?」
「ヒロユキが生き残る方法を考えてみましょう」
なんてことを考えさせる意図は、教科書の編集者にありません。
同様に、「ひよこの眼」も「幹生をどうすれば助けられたか」を考える作品ではないのです!
エンタメ作品なら、幹生が奇跡的に蘇り、文化祭を成功させて、主人公の亜紀と結ばれる最後になるでしょう。
映画化されても、数年後には忘れ去られてしまい、だれも印象に残りませんが……。
あるいは命の大切さを学ぶ観点から、児童相談所に通報して幹生を保護してもらい、幹生が高校に進学するルートがあったかもしれません。
しかし作者は構成上、大人になった「私」視点で、中学3年の「私」の体験を語らせることで、幹生が絶対に助からない局面に置いているのです。
もうすでに幹生が死んでしまった後に、大人の「私」は自分の過ちを告白しているからです。
「私」は電車の中や雑踏で何度も「ひよこの目」をした人を見つけだが、手を差し伸べる勇気は今後もありません。
なぜ大人になった後も、「ひよこの目」を助けられないのか、考えてみる価値がありそうです。
「ひよこの眼」の伏線にまつわる考察
「ひよこの眼」のあらすじ
主人公、「私」こと亜紀のクラスに季節外れの転校生が入ります。亜紀は転校生の幹生の目に懐かしさを感じ、その感情の原因を知りたくて、つねに幹生の目を見続けます。クラスの生徒たちも亜紀の変化に気づき、亜紀が幹生のことが好きなのではと噂を始めます。
男子生徒の興味本位で、亜紀と幹生が文化祭の実行委員にさせられます。幹生もなぜ亜紀が自分を見つめるのか尋ねたが、亜紀は幹生が必要以上に親しくなることを避けていることに気づきます。
実行委員の活動をするうち、亜紀は幹生と親しくなり、幹生はしだいに笑顔を見せます。亜紀は幹生のことが好きになるにつて、笑顔をずっと見ていたいと思い、自分が楽しい気分でいるため、幹生の悲しい顔を見たくないと勝手に思います。
学校から帰宅中、幹生はついに転校した理由を打ち明けますが、亜紀のうろたえた顔を見て、冗談だと誤魔化します。お互いに好意を抱いていることを打ち明けて、夕暮れの公園で肩を抱き寄せ、ポケットの中で手を握ります。幹生は、「もしかしたら、なんとかなるかもしれない」と将来への希望を口にします。
帰宅後、亜紀の妹がウサギを買ってと母にねだり、ひよこを死なせてしまった出来事を思い出します。懐かしいと感じた幹夫の目の正体は、死を予期したひよこの目のことだと気づき、亜紀は恐ろしい不安に悩まされます。
翌日から幹生が学校に姿を見せず、クラスでは父親の自殺の道連れにされたと、うわさになります。2,3日後、担任教師からそのことが伝えられ、亜紀は思い通りにならなかった悔しさで泣きました。
亜紀はその後も街の雑踏や電車の中で、ひよこの目を見かけたとき、「もしや、あなたは、死というものを見つめているのではありませんか」と声をかけたくなり、困ってしまいました。
幹生の死因になぜ「私」だけ気づかなかったのか?
この小説は亜紀の主観で語られているので、最後を知らない読者は「私」の語りに惑わされてしまいます。
一読では気づかない作者の張った伏線が、いくつもあるのです。
終盤のこの一文、幹生はほとんど自分のことを話さなかったはずなのに、クラス中で幹夫の死因がなぜか「まことしやかに」ささやかれています。
担任教師の口から伝えられた「そのこと」も、やはりうわさどおりだったわけです。
幹生と最も親しいはずの亜紀だけが、なぜか「そのこと」に気づいていなかった、ということになります。
難波健梧氏(2014年)が指摘しています。
その原因は、亜紀が幹生に好意を抱くようになった文脈を見れば、すぐに見つかります。
幹夫の目について「私」の感情の変化
幹夫の転校当初、亜紀は、幹夫の目に懐かしい感情を抱いていました。
ところが、幹夫と親しくなり、幹夫の笑顔が増えるにつれ、幹生のその表情を懐かしいと感じなくなります。
なぜなら、「その表情をする時 、彼が決して幸福ではないことを、私は知っていた」からです。
亜紀は幹生に恋をしてしまい、自分にとって都合の悪い事実について気づかないふりをしていました。
「私」が楽しい気分でいるためには、幹生を悲しい場所に置きたくなかったのです。
亜紀が幹生LOVE一直線になってゆく、甘々な描写に見えますが、大人の「私」はすべてを知っているうえで語っています。
中学3年の「私」がいかに幼稚で、自分勝手な思い込みをしていたか、懺悔しているとも読み取れます。
亜紀はとうとう幹生本人に、懐かしい目を見たくない、と言ってしまいます。
「思いたくない。」
「どうして?」
「なんだか怖いから。」
亜紀がそう言ったため、幹生は彼女の肩を抱き寄せました。
亜紀視点では、公園で手をつなぐシーンは有頂天になるポイントですが、幹生目線ではどうでしょうか。
大人すぎる幹生の言動
この小説で、幹生の心情を知る手がかりは、幹生のセリフだけです。
亜紀フィルター越しでは、幹生像がかなりゆがんでいます。
幹生は、文化祭の実行委員になる前まで、クラスのだれとも仲良くなるつもりはありませんでした。
学校のこと以上に、彼の力ではどうにもならない深刻な家庭の事情を抱えていたからです。
借金取りから逃げるようにして、転校してきたのです。しかも、父親は過労か何かの原因で病気になり、働けなくなっています。
法テラスに相談して、弁護士を通じて過払い金を回収するなり、自己破産を申請して、生活保護や障害年金をもらうなり、打つ手はあったかもしれません。
中学3年の少年にそんな考えが思いつくはずありませんし、父親が自殺寸前まで追い込まれている状況に耐えがたいショックを受けているはずです。
学校に行く気力もわかず、いつでも感情を爆発させ、嘆き悲しんでもよかったはすですが、そうしませんでした。
幹生はただ瞬きもせず一点を見つめ、瞳にはうっすらと涙の幕を張っているだけです。
彼は自分かかえるどうにもしがたい運命について、亜紀を含めてだれも受け止めきれないと分かっていたのではないでしょうか。
亜紀はクラスの男子生徒に冷やかされただけで、泣きそうな顔になり、親友たちに同情されていました。
親が自殺寸前の幹生にとってみれば、どうでもいいくらい小さな話です。
幹生は亜紀が困っているのを無視できなかったから、文化祭の実行委員を引き受け、亜紀をクラスメートの視線からかばいました。
彼は15歳まで親から十分な庇護を得られないから、自分自身が強くなければいけないと気丈にふるまってきたのでしょう。
女子生徒から大人っぽいとうわさされている言われても、自分の境遇とクラスメートの環境に明らかな溝を感じたのです。
「人生に対して礼儀正しい人」とは?
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のように、「人生に対して礼儀正しい人」というのも解りづらい表現です。
亜紀は幹生との恋愛を自分の都合のいいものとしか考えていませんでしたが、幹生が自分から死を望んでいたわけでないと気づいていました。
放課後の亜紀との会話で、幹生は重大な悩みを打ち明けています。
「借金取りから逃げて来たんだけどさ、もう、逃げる必要もないみたい。」
なぜ逃げる必要「も」ないのか、これから父親と一緒に心中するからです。
「おれって不幸だろ」にどう返事をするのが正解か、肯定的に聞き入れることができる人間はほぼいないのではないでしょうか。
幹生の抱える不幸は、中学3年の亜紀には到底受け止めることができない精神的負担です。
なので、幹生は「今のは、全部、うそだよ。冗談。」と誤魔化すしかありませんでした。
亜紀がただのクラスメートなら、これ以上会話を続ける必要はなかったでしょう。幹生も自分のせいで亜紀の悲しむ顔を見たくなかったのです。
亜紀が真剣に自分の顔を見つめていることに、懐かしい気分とは違う意味が含まれていることに幹生も気づいています。
亜紀は、「好きだから。心配だから。」と自分の気持ちをはっきりと伝えました。
亜紀が好きなのは「笑顔の幹生」であって、幹生の抱える不幸には彼女もなす術がまったくありません。
「おれも、亜紀のこと、好きだな。」
死の間際に立たされた人の口から出る言葉ではないです。亜紀への気遣いでもあったでしょうが、幹生も絶対に死にたくなかったから、自分の正直な気持ちを伝えました。
「おれ、寒がりだけど、吐く息が白くなっていくってことは、体の中があったかいってことだもんな。」
亜紀と肩を寄せ合い、幹生は生きる希望をかすかに感じ取っていました。
「文化祭、がんばろうな。」「ほんとのこと言うと、高校はあきらめてんだ。おれんち、貧乏だからさ。でも、なんか、大丈夫のような気がしてきた。 もしかしたら、なんとかなるかもしれない。働いたって行けるんだし。」
幹生は亜紀と両想いになったおかげで、人生に希望を見ようとしていました。
亜紀の評価する「人生に対して礼儀正しい人」というのは、幹生のこうした言動から感じ取っていたかです。
「ひよこの目」を助けられない理由
しかし、大人になった「私」でも、「ひよこの目」を持つ人は助けられないと自覚しています。
大人の「私」は、当時の自分の弱さや幹生の気遣いも理解しています。
「ひよこの目」とは、自分の死期を見つめているときの顔です。
夜回り先生こと、水谷修氏ですら、直接関わりながらも助けられなかった10代の子は何十人といます。
並大抵のメンタルの持ち主では、助けるどころか自分自身も相手の不幸に押しつぶされてしまいます。
幹生を助けられず「ひよこの目」の悪夢に苦しんできた「私」は、自分の非力さや限界を知ったのです。
「私は、この年齢にして、人間の思うとおりにいかないことがあるのを知ってしまい、すっかり気落ちしていた。」
同時に、自分と他者は別々の心の持ち主だから、関わることができる範囲には限界がある、と知ります。
もっとかみ砕けば、周囲のうわさ話や心ない言動に自分の神経を砕くのは、ばかばかしいとも言えます。
自分の心の大事な部分はそこにはないし、彼らが関われる範囲も限界があるからです。
それは大人の「私」が、不幸な運命を抱える他者に対して、自分がトラウマを抱えたくないという理由で、薄情になったわけではありません。
「もしや、あなたは、死というものを見つめているのではありませんか」と尋ねたくなって、困っているのです。
担任教師はよい描かれ方をしていませんが、高校教科書の定番になるのも納得の理由があると言ってよいでしょう。
大人になっても、亜紀のような学びがない人は大勢いますから。
心理カウンセラーや社会保険福祉士になれば、幹生を助けられるなんて安っぽい道徳を持ってはいけません。
どんな名医でも、助けられなかった患者は大勢いるからです。
「困っているお友達がいたら助けましょう」とはいえ、自分の無能ぶりに打ちのめされならが、奮闘しているのが現実です。
あ、ちなみに、教科書にある文章は読書感想文に提出することができません。
※教科書、副読本、読書会用テキスト類またはこれに準ずるもの、雑誌(別冊付録を含む)、パンフレット類、日本語以外で書かれた図書および課題図書は対象としません。ただし、課題図書であっても該当の部以外であれば、自由読書として応募することができます。
青少年読書感想文コンクールの応募要項
「ひよこの眼」が収められた『晩年の子供』には、他7編の短編があります。
「ひよこの眼」以外の作品であれば、読書感想文を書くことは可能です。
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