高校日本史、室町時代の練習問題です。
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内容は、南北朝時代、室町幕府の展開、室町時代の外交、室町時代の社会・経済、室町時代の文化、です。
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前回の鎌倉時代の練習問題は、こちらです。
室町時代の練習問題
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南北朝時代の問題
ポイントの整理
・鎌倉幕府は皇位継承について(① )と(② )が10年おきに交互にするよう提案したのを(③ )という。
・②の後醍醐天皇は院政を廃し親政を行ったが、③に不満を持ち、1324年( )では倒幕の計画がばれて失敗したが、1331年( )で再度挙兵を計画したが、失敗し隠岐に流された。
・近畿で倒幕の機運が高まり、( )や護良親王ら挙兵し、後醍醐天皇も隠岐を脱出した。幕府は京都に大軍を派遣したが、指揮官の(④ )は反対に六波羅探題を攻撃し、関東の( )が幕府を滅ぼした。
・建武の新政を行った後醍醐天皇は、( )を出し土地の所有権を定め引付と同じ機能の( )置いたが、武士社会の慣例を無視しため、( )で非難された。
・北条時行が関東で( )を起こしたことをきっかけに、④は新しい幕府を建てる野望をもって、( )を追放し、①の光明天皇を建て(北朝)、政治方針を( )に示し幕府を開いた。
・一方、後醍醐天皇は( )を拠点に南朝を建て、南朝側の( )が関東で、( )が九州で抗戦を続けた。
・幕府では④とその弟の( )が政治方針から対立し、1350年( )を引き起こした。
・結果、武士社会では一族の結集が乱れ、( )と( )が一般化し、惣領制が崩れた。
・守護の役割は( )のみだっただが、南北朝の動乱により( )の取締り、( )など権限が増え、国司の権限を吸収した。年貢の半分を守護が徴収する( )が出され、領主に代わり年貢を徴収する( )もあった。
・( )は地元の武士で自立心が高く、守護の家臣になることに抵抗する者もいた。そのなかで、神仏に誓約し対等・多数決を行うと定めた( )を結んだ。
確認問題
問1,後醍醐天皇と足利尊氏の動きについて、次の年表を完成させてください。
時代 | 後醍醐天皇(南朝) | 足利尊氏(北朝・室町幕府) |
鎌倉末期 | 1321、院政停止、親政を開始 1324、正中の変で失敗 1331、( )に失敗し、隠岐に流される 近畿の悪党勢力( )らが挙兵 1333、( )が鎌倉幕府を滅す | 1333、足利尊氏が京都の六波羅探題を攻撃 |
建武の新政 | 1334、建武の新政を開始⇒武士の不満 1335、( )が発生 | 1336、( )の光明天皇を立て、 ( )を発表する |
南北朝 | 1336、( )に逃れる 以後、( )が関東で、 ( )が九州で抗戦。 | 1350、( ) 尊氏と弟の( )が対立 |
問2,守護の権限拡大について、次の語句にふさわしい説明を選んでください。
・大犯三カ条( )・半済令( )・刈田狼藉( )・使節遵行( )
・守護請( )
ア、田地の所有権をめぐり一方的に稲を刈る行為を取締る権限
イ、一国内の荘園と公領からの年貢を半分徴集する権限を認めた法令
ウ、幕府の下した判決を強制執行する権限
エ、警察権と国内の御家人の統率をする権限
オ、年貢の徴収を守護に請け負わせる方式
問3,南北朝の前後での武士社会の変化について、表を完成させてください。
鎌倉時代 | 南北朝時代 | |
武士団の結合 | ||
相続 | ||
所領の管理 |
室町幕府の展開についての問題
ポイントの整理
・足利義満は、1378年京都の室町に( )を構え、1392年に( )を成功させ、九州には( )を派遣して、懐良親王配下の菊池氏を滅ぼし、土岐氏、山名氏、大内氏ら有力守護を攻め滅ぼした。
・将軍を引退して( )にのぼり、出家して北山に隠居した後も幕府と朝廷の実権を握った。
・幕府の機構は、将軍の補佐に( )を置き、細川・斯波(しば)・畠山が交代で任じられた。京都の警備をする( )の所司は、赤松・一色・山名・京極の四職から任じられた。( )は在京が原則で領地は( )が統治した。
・足利氏の家臣や直属軍を( )とし将軍が直轄する( )の管理を任せた。
・関東には( )を置き、尊氏の子足利基氏の子孫が代々( )となり、補佐役の( )も代々上杉氏が務めた。
・室町幕府の財源は、農民からの年貢・公事・夫役だけでなく、直轄地の( )からの収入や、高利貸しに対して( )・( )を課し、交通の要所では( )・( )を取り、厚く保護した五山の僧からも賦課金をとり、日明貿易での利益の一部を徴収し、国家行事に際して( )・( )を集めた。
・くじ引きにより6代将軍になった(① )は、1438年(② )で幕府に反抗的だった鎌倉公方の足利持氏を滅ぼした。その後も有力守護を弾圧したため、1441年( )で①は( )に殺害された。
・②を機に、1440年関東では鎌倉公方と関東管領が対立し( )が起きた。以後、鎌倉公方は下総(しもうさ)の古河公方と伊豆の堀越公方に分裂し、関東が戦国時代に入った。
・8代将軍( )の後継者をめぐる対立に、管領の畠山と斯波の家督争いも重なったところに、有力守護の(③ )と(④ )が介入した。東軍に③が西軍に④がつき、1467年(⑤ )が発生した。
・このとき、軽装の兵である( )が活躍した。⑤は1477年に終息したが、在京の守護が実力を失い、在地の守護代や国人が実権を握り、荘園制が崩れ、戦国時代に入った。
確認問題
問1,室町幕府について、次の年表を完成させてください。
将軍 | 事件・騒乱 | 政治・一揆 |
1350‐52、( ) | 1336、( )の制定 1338、征夷大将軍に就任 | |
義詮 | ||
1390、土岐康之の乱 1391、明徳の乱、 1399、応永の乱 | 1378、花の御所を造営 1392、( ) 1394、太政大臣に就任 | |
義持 | 1416、上杉禅秀の乱 | |
義量 | ||
1438、( ) 1440、結城合戦 1441、( ) | 1428、( ) | |
義勝 | 1441、( ) | |
1454、享徳の乱 1467、( ) | ||
義尚(よしひさ) | 1485、( ) 1488、( ) |
問2、室町幕府の財源について、それぞれの語句にあう説明を選んでください。
・津料( )・棟別銭( ) ・土倉役・酒屋役( )
・段銭( )・御料所( ) ・関銭( )
ア、奉公衆が管理した直轄地
イ、土地に課した臨時の税
ウ、家屋に課した臨時の税
エ、関所の通行税
オ、港の使用料
カ、高利貸しに課した税
室町時代の外交についての問題
ポイントの整理
・対馬・壱岐・肥前松浦の住民が組織した海賊集団を(① )といい、高麗ではその取締りができなかったが、1392年( )が朝鮮国を建て、足利義満に取締りを求めた。
・日朝貿易は対馬の( )を通じて、朝鮮の三浦と漢城の( ) を拠点に対等な貿易を行い、日本に( )がもたらされた。1419年朝鮮が対馬を襲撃した( )の後も貿易は続いたが、1510年( )以後は衰退した。
・寺院の建設のため( )と私的な貿易はたびたび行ってきたが、1368年朱元璋が(② )を建国した。1401年足利義満は②に臣下の礼の形をとる形で(③ )を始め、倭寇対策として( )を発行した。
・4代将軍義持は朝貢に反対して③を中断したが、6代将軍義教が再開した。
・1523年( )で博多商人率いる大内氏が貿易を独占するが、大内氏が滅んだあとに正式な②は途絶えた。16世紀後半には、中国人中心の①が( )と( )の密貿易を活発化させた。
・1429年に沖縄の三山を統一した( )が琉球王国を建設した。琉球は②と朝貢、日本や朝鮮など他の東アジア・東南アジアとも貿易を行い、( )は中継貿易の拠点になった。
・道南地方は、和人によって( )とよばれ、津軽の豪族安藤氏の配下が、( )の居住地をつくる。それに圧迫されたアイヌは、1457年( )の戦いで和人の館を攻め落とすが、(④ )に制圧された。以後④が道南の支配者に成長し、江戸時代に松前氏を名乗る大名になった。
問1,室町時代の外交について、次の年表を完成させてください。
将軍 | 日中関係 | 日朝関係 |
足利尊氏・義詮 | 1342、( )に天龍寺船を派遣 1368、(① )が建国 | |
( ) | 1401、①に使者を派遣 1404、(② )の開始 | 1392、(④ )が建国 1401、④に使者を派遣 |
足利義持 | 1411、②を中断 | 1419、( ) |
( ) | 1432、②を再開 | |
以後 | ②は( )と(③ )が中心 1523、( )が発生 1551、③が滅亡 | 1510、( ) |
室町時代の社会・経済についての問題
ポイントの整理
・農業では水車などの改善に加え、機内で( )が行われ、水稲の品種改良がすすんだ。肥料は刈敷・草木灰に加え、( )が使われるようになった。
・手工業の原料である桑、漆、藍などが栽培され、現金収入を得るようになり、年貢の( )が普及した。
・商業は応仁の乱以降、( )が一般的になり、連雀商人や振売など行商人が増え、京都では大原女、桂女など女性が活躍した。
・商人や手工業者の座は数と種類が増え、大寺院や天皇からもらった神人(じにん)・供御人など称号を背景に、( )が免除され、広範囲の独占販売権を獲得した。
・貨幣は( )が開始してから( )が普及し、需要も高まったため、粗悪な私鋳銭が増加した。しばしば( )が行われ流通を妨げたため、幕府や戦国大名は( )を出し円滑化を図った。
・金融業では(① )などの富裕な商工業者が(② )とよばれる高利貸しを兼ねた。
・遠隔地との取引には、為替の一種である( )が使われ、大都市や交通の要地には( )が成立した。陸路の輸送は( )・車借が活躍した。
・南北朝の動乱期、近畿地方を中心に農民たちの戦乱に対する自衛や農業での共同作業が増加し、荘園・公領の枠をこえた自主的・自立的組織を(③ )という。
・③は( )という村民で構成され、神社の祭祀を行った( )が中心となり、村民の会議である( )の決定に従って運営した。
・村の中の約束事として( )を定め、村民が警察権を行使し、村内で共同で管理する入会地や灌漑用水を確保した。
・領主への年貢の納入も③が一括でおこなうことを( )といい、江戸時代の村請制の原点になる。
・村民の中には領主の不正や年貢の減免をもとめて、( )を結ぶこともあり、守護と主従関係を結んだ有力な農民には( )になる者もいた。
・③の結合をもとにした( )が、①・②に対して借金の帳消しを実力行使で求めた。1428年( )では京都の高利貸しを襲い、借金を実力で破棄させた。1441年( )では、数万人が京都に集まったため、幕府は( )の徴収を条件に徳政を認めた。
室町文化についての問題
ポイントの整理
・新仏教
・足利尊氏の時代、臨済宗の( )の勧めで、天龍寺を建立した。
・足利義満の時代、南宋にならい官寺の序列として( )の制をほぼ完成し、幕府の政治・外交顧問として重用された。
・留学僧や渡来僧の活躍で、絶海中津・義堂周信ら漢詩文の創作など( )が発達し、禅の経典や漢詩文集の出版を行った。
・応仁の乱の後、幕府の統制を受けない( )という寺院が発達し、一休宗純が出た( )や妙心寺などがある。
・浄土真宗では( )が御文というわかりやすい文章で教義を説き、( )という組織が惣村を基盤に拡大した。本願寺勢力は(① )を結んで戦国大名と対立し、( )が代表例である。
・日蓮宗では( )が布教を行い、京都の町衆に広がったが、6代将軍足利義教が弾圧をした。1532年には①と対立して( )を起こし、1536年には( )で延暦寺により寺院を焼打ちされた。
・文学
・南北朝時代には歴史書や軍記物が作られた。公家の立場で源平合戦後の歴史を記したものに( )があり、北畠親房は伊勢神道と南朝正統の立場から( )を記したが、南北朝動乱の全体を記した大作として( )が有名である。
・南北朝時代から連歌が発達し、公家の( )は( )にまとめ、『応安新式』にそのルールをまとめた。応仁の乱の後、( )が『新撰菟玖波集』を編集し( )を確立した。これに対し、( )はより自由な気風の俳諧連歌をつくり『犬菟玖波集』を編集した。( )が各地で普及したので、地方の大名・武士・民衆にも流行した。
・( )は絵と文字は話言葉で書かれたもので、一寸法師、浦島太郎などが有名である。
・学問
・公家は政治・経済力を失ったが、古典や学問研究を担った。( )が有職故実の研究書や注釈書を残し、吉田兼倶は神道を中心に儒教・仏教を統合させる( )を完成した。
・応仁の乱後、地方に公家や僧などの文化人が招かれ、( )は島津氏の薩摩に招かれ儒学の講義をした。関東では関東管領上杉憲実により( )が再興された。
宗祇、宗鑑、菟玖波集(つくばしゅう)、一向一揆、五山文学、日親、蓮如(れんにょ)、連歌師、唯一神道、夢窓疎石(むそうそせき)、講、天分法華の乱、加賀の一向一揆、法華一揆、五山・十刹、林下(りんか)、大徳寺、神皇正統記(じんのうしょうとうき)、御伽草子、桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)、
能楽
・猿楽などの神事が演劇・歌舞に発展し、(② )と呼ばれ、寺社の保護を受けた。なかでも、( )・( )の父子は足利義満の保護を受け、理論書の( )を残した。
・民衆の間ではより娯楽性のある②が好まれ、その合間に演じられた( )はせりふに日常の会話が用いられた。
茶の湯と生け花
・南北朝時代にお茶では( )が広く行われ、茶の違いを飲み比べて賭けごとをする( )が流行した。
・新興武士には、新しい物好きで、派手・ぜいたくを意味する( )で呼ばれる者がいた。その代表が守護大名の佐々木導誉である。
・応仁の乱後には、( )が侘茶を始め、花道では京都六角堂の( )が、観賞用の立て花を始めた。
建築と庭園
・足利義満は北山山荘に寝殿造と禅宗様を組み合わせた( )を建てた。
・応仁の乱後、(③ )は東山に別荘をかまえ、禅の精神を踏まえた( )を建て、絵画・茶道などに秀でた( )を集め発展させた。
・③の書斎だった同仁斎の建築様式を( )といい、ふすま絵や生花で飾る現代の和室の原形になった。庭には龍安寺石庭・大徳寺大仙院など( )が有名である。
絵画
・禅の精神を墨の濃淡のみで表す(④ )が発達し、( )「瓢鮎図」や( )「四季山水図巻」が有名。
・大和絵では宮廷に属した( )が出、④の技法を取り入れた( )が生まれた。
確認問題
問1、室町文化について、次の表を完成させてください。
新仏教 | 臨済宗 | ・足利尊氏が保護し、( )が天龍寺を開く ・足利義満の頃、南宋の官寺の制にならい( )が完成 ・( ):宋学や漢詩文の創作がさかん ・応仁の乱後、幕府の統制を受けない( )という寺院が発達 |
浄土真宗 | ・応仁の乱の頃、( )が御文で教義をわかりやすく説く ・各地で( )を結び、( )は戦国大名と対立 | |
日蓮宗 | ・( )が布教し、京都の町衆に広まる ・6代将軍義教は弾圧⇒鍋冠り上人 ・1532( ):山科本願寺を焼打ち、浄土真宗と対立 ・1536( ):延暦寺が日蓮宗を焼打ち | |
文学 | 歴史・軍記 | ・( ):公家の立場で源平合戦を描く ・( ):北畠親房が南朝の正当性を主張 ・( ):南北朝の動乱を記した軍記物語 |
連歌 | ・連歌=筑波の道(日本武尊の和歌返答を起源としたため) ・( ):『菟玖波集』・『応安新式』 ・( ):正風連歌、『新撰菟玖波集』 ・( ):俳諧連歌、『犬菟玖波集』 | |
その他 | ・( ):『物くさ太郎』、『一寸法師』など | |
学問 | 有職故実 | ・( ):『公事根源』・『樵談治要』など ・吉田兼倶:( )、神道を中心に儒教・仏教を統合 |
教育 | ・( ):15世紀中頃、関東管領上杉憲実が再興 ・薩南学派:( )が薩摩の島津氏に儒学を講義 ・庶民の教育に、『庭訓往来』『御成敗式目』『節用集』など | |
芸能 | 能楽 | ・足利義満が大和猿楽四座の( )座を保護 ・子の( ):『風姿花伝』 ・( ):能の合間で演じられた喜劇 |
茶の湯・生け花 | ・南北朝時代:寄合茶から( )が流行 ・応仁の乱後、( )が侘茶を始め、千利休が完成 ・( )が立花を大成 | |
建築・庭園 | ・北山文化:足利義満の金閣 ・東山文化:足利義政の銀閣、慈照寺東求堂同仁斎の( ) ・( ):龍安寺、大徳寺、西芳寺 | |
絵画 | ・水墨画:( )「瓢鮎図」、( )「四季山水図巻」 ・大和絵に水墨画の技法を取り入れる⇒( )の始まり |
室町時代の年表
1,次の年表を完成させてください。
将軍 | 政治 | 文化 |
足利尊氏 | 1321、(① )が院政を廃止 1324、正中の変 1331、元弘の変 1333、( )が鎌倉幕府を滅ぼす 足利尊氏は幕府を裏切り、六波羅探題を攻撃 1334、①が( )を始める 1335、( )に際し尊氏が①を退け、 北朝を建てる 1336、①は吉野に( )を建てる 尊氏が( )を制定 1338、尊氏が征夷大将軍になる 1342、尊氏、( )の進めで天龍寺船を元に派遣 1350‐52、( ) この頃、( )が活発になる 琉球で三山が分立 | 1339、( )『神皇正統記』 1356、( )『菟玖波集』 軍記物の( ) |
よしあきら | 1352、( )が出される | |
足利義満 | 1371、( )が九州探題に 1378、義満が室町に( )を造営 1391、明徳の乱 1392、( ) 1394、義満が太政大臣になる 1399、応永の乱 1404、( )が始まる | 1397、金閣を造営 ( )文学がさかん 茶の湯・生け花が流行 ( )『風姿花伝』 |
よしもち よしかず | 1411‐32、明と断交 1419、( ):対馬が攻撃される 1428、( ) | |
足利義教 | 1429、( )が琉球王国を建国 1432、日明貿易が再開 1438、( ):鎌倉公方を攻撃 1441、( )で義教が暗殺 ( ) | 1439、上杉憲実が( )を再興 |
よしかつ | ||
足利義政 | 1457、蝦夷で( )が起きる 1467‐77、( )が起きる | |
よしひさ | 1485‐93、( ) 1488‐1580、( ) | 1489、義政が銀閣を造営 |
よしたね よしずみ よしはる | 1493、北条早雲が伊豆の堀越公方を滅ぼす 1510、( ):朝鮮の日本人が反乱 1523、( ):大内氏と細川氏が対立 1532、京都で( ) 1536、( ) | 1495、( ):『新撰菟玖波集』 1496、蓮如が石山本願寺を創建 『犬菟玖波集』 『閑吟集』 |
室町時代の解答
南北朝時代の解答
ポイントの整理
・鎌倉幕府は皇位継承について(①持明院統)と(②大覚寺統)が10年おきに交互にするよう提案したのを(③両統迭立)という。
・②の後醍醐天皇は院政を廃し親政を行ったが、③に不満を持ち、1324年(正中の変)では倒幕の計画がばれて失敗したが、1331年(元弘の変)で再度挙兵を計画したが、失敗し隠岐に流された。
・近畿で倒幕の機運が高まり、(楠木正成)や護良親王ら挙兵し、後醍醐天皇も隠岐を脱出した。幕府は京都に大軍を派遣したが、指揮官の(④足利尊氏)は反対に六波羅探題を攻撃し、関東の(新田義貞)が幕府を滅ぼした。
・建武の新政を行った後醍醐天皇は、(綸旨)を出し土地の所有権を定め引付と同じ機能の(雑訴決断所)置いたが、武士社会の慣例を無視しため、(二条河原の落書)で非難された。
・北条時行が関東で(中先代の乱)を起こしたことをきっかけに、④は新しい幕府を建てる野望をもって、(後醍醐天皇)を追放し、①の光明天皇を建て(北朝)、政治方針を(貞永式目)に示し幕府を開いた。
・一方、後醍醐天皇は(吉野)を拠点に南朝を建て、南朝側の(北畠親房)が関東で、(懐良親王)が九州で抗戦を続けた。
・幕府では④とその弟の(足利直義)が政治方針から対立し、1350年(観応の擾乱)を引き起こした。
・結果、武士社会では一族の結集が乱れ、(単独相続)と(地縁的結合)が一般化し、惣領制が崩れた。
・守護の役割は(大犯三カ条)のみだっただが、南北朝の動乱により(刈田狼藉)の取締り、(使節遵行)など権限が増え、国司の権限を吸収した。年貢の半分を守護が徴収する(半済令)が出され、領主に代わり年貢を徴収する(守護請)もあった。
・(国人)は地元の武士で自立心が高く、守護の家臣になることに抵抗する者もいた。そのなかで、神仏に誓約し対等・多数決を行うと定めた(国人一揆)を結んだ。
確認問題
問1,後醍醐天皇と足利尊氏の動きについて、次の年表を完成させてください。
時代 | 後醍醐天皇(南朝) | 足利尊氏(北朝・室町幕府) |
鎌倉末期 | 1321、院政停止、親政を開始 1324、正中の変で失敗 1331、(正中の変)に失敗し、隠岐に流される 近畿の悪党勢力(楠木正成)らが挙兵 1333、(新田義貞)が鎌倉幕府を滅す | 1333、足利尊氏が京都の六波羅探題を攻撃 |
建武の新政 | 1334、建武の新政を開始⇒武士の不満 1335、(中先代の乱)が発生 | 1336、(持明院統)の光明天皇を立て、 (貞永式目)を発表する |
南北朝 | 1336、(吉野)に逃れる 以後、(北畠親房)が関東で、 (懐良親王)が九州で抗戦。 | 1350、(観応の擾乱) 尊氏と弟の(足利直義)が対立 |
問2,守護の権限拡大について、次の語句にふさわしい説明を選んでください。
・大犯三カ条( エ )・半済令( イ )・刈田狼藉( ア )・使節遵行( ウ )
・守護請( オ )
ア、田地の所有権をめぐり一方的に稲を刈る行為を取締る権限
イ、一国内の荘園と公領からの年貢を半分徴集する権限を認めた法令
ウ、幕府の下した判決を強制執行する権限
エ、警察権と国内の御家人の統率をする権限
オ、年貢の徴収を守護に請け負わせる方式
問3,南北朝の前後での武士社会の変化について、表を完成させてください。
鎌倉時代 | 南北朝時代 | |
武士団の結合 | 血縁的結合 | 地縁的結合 |
相続 | 分割相続 | 単独相続 |
所領の管理 | 地頭 御恩と奉公で幕府とつながる | 国人 地域的な一揆をむすぶ |
*「一揆」とは、共通の目的を持った者たちが盟約を結び、集団行動を起こすことです。
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室町幕府の展開についての解答
ポイントの整理
・足利義満は、1378年京都の室町に(花の御所)を構え、1392年に(南北朝の合体)を成功させ、九州には(今川了俊)を派遣して、懐良親王配下の菊池氏を滅ぼし、土岐氏、山名氏、大内氏ら有力守護を攻め滅ぼした。
・将軍を引退して(太政大臣)にのぼり、出家して北山に隠居した後も幕府と朝廷の実権を握った。
・幕府の機構は、将軍の補佐に(管領)を置き、細川・斯波(しば)・畠山が交代で任じられた。京都の警備をする(侍所)の所司は、赤松・一色・山名・京極の四職から任じられた。(守護)は在京が原則で領地は(守護代)が統治した。
・足利氏の家臣や直属軍を(奉公衆)とし将軍が直轄する(御料所)の管理を任せた。
・関東には(鎌倉府)を置き、尊氏の子足利基氏の子孫が代々(鎌倉公方)となり、補佐役の(関東管領)も代々上杉氏が務めた。
・室町幕府の財源は、農民からの年貢・公事・夫役だけでなく、直轄地の(御料所)からの収入や、高利貸しに対して(土倉役)・(酒屋役)を課し、交通の要所では(関銭)・(津料)を取り、厚く保護した五山の僧からも賦課金をとり、日明貿易での利益の一部を徴収し、国家行事に際して(段銭)・(棟別銭)を集めた。
・くじ引きにより6代将軍になった(①足利義教)は、1438年(②永享の乱)で幕府に反抗的だった鎌倉公方の足利持氏を滅ぼした。その後も有力守護を弾圧したため、1441年(嘉吉の変)で①は(赤松満祐)に殺害された。
・②を機に、1440年関東では鎌倉公方と関東管領が対立し(享徳の乱)が起きた。以後、鎌倉公方は下総(しもうさ)の古河公方と伊豆の堀越公方に分裂し、関東が戦国時代に入った。
・8代将軍(足利義政)の後継者をめぐる対立に、管領の畠山と斯波の家督争いも重なったところに、有力守護の(③細川勝元)と(④山名持豊)が介入した。東軍に③が西軍に④がつき、1467年(⑤応仁の乱)が発生した。
・このとき、軽装の兵である(足軽)が活躍した。⑤は1477年に終息したが、在京の守護が実力を失い、在地の守護代や国人が実権を握り、荘園制が崩れ、戦国時代に入った。
確認問題
問1,室町幕府について、次の年表を完成させてください。
将軍 | 事件・騒乱 | 政治・一揆 |
足利尊氏 | 1350‐52、(観応の擾乱) | 1336、(貞永式目)の制定 1338、征夷大将軍に就任 |
義詮 | ||
足利義満 | 1390、土岐康之の乱 1391、明徳の乱、 1399、応永の乱 | 1378、花の御所を造営 1392、(南北朝の合体) 1394、太政大臣に就任 |
義持 | 1416、上杉禅秀の乱 | |
義量 | ||
足利義教 | 1438、(永享の乱) 1440、結城合戦 1441、(嘉吉の変) | 1428、(正長の徳政一揆) |
義勝 | 1441、(嘉吉の徳政一揆) | |
足利義政 | 1454、享徳の乱 1467、(応仁の乱) | |
義尚(よしひさ) | 1485、(山城の国一揆) 1488、(加賀の一向一揆) |
問2、室町幕府の財源について、それぞれの語句にあう説明を選んでください。
・津料( オ )・棟別銭( ウ ) ・土倉役・酒屋役( カ )
・段銭( イ )・御料所( ア ) ・関銭( エ )
ア、奉公衆が管理した直轄地
イ、土地に課した臨時の税
ウ、家屋に課した臨時の税
エ、関所の通行税
オ、港の使用料
カ、高利貸しに課した税
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室町時代の外交についての解答
ポイントの整理
・対馬・壱岐・肥前松浦の住民が組織した海賊集団を(①倭寇)といい、高麗ではその取締りができなかったが、1392年(李成桂)が朝鮮国を建て、足利義満に取締りを求めた。
・日朝貿易は対馬の(宗氏)を通じて、朝鮮の三浦と漢城の(倭館) を拠点に対等な貿易を行い、日本に(木綿)がもたらされた。1419年朝鮮が対馬を襲撃した(応永の外寇)の後も貿易は続いたが、1510年(三浦の乱)以後は衰退した。
・寺院の建設のため(元)と私的な貿易はたびたび行ってきたが、1368年朱元璋が(②明)を建国した。1401年足利義満は②に臣下の礼の形をとる形で(③勘合貿易)を始め、倭寇対策として(勘合)を発行した。
・4代将軍義持は朝貢に反対して③を中断したが、6代将軍義教が再開した。
・1523年(寧波の乱)で博多商人率いる大内氏が貿易を独占するが、大内氏が滅んだあとに正式な②は途絶えた。16世紀後半には、中国人中心の①が(銀)と(生糸)の密貿易を活発化させた。
・1429年に沖縄の三山を統一した(尚巴志)が琉球王国を建設した。琉球は②と朝貢、日本や朝鮮など他の東アジア・東南アジアとも貿易を行い、(那覇)は中継貿易の拠点になった。
・道南地方は、和人によって(蝦夷ヶ島)とよばれ、津軽の豪族安藤氏の配下が、(道南十二館)の居住地をつくる。それに圧迫されたアイヌは、1457年(コシャマイン)の戦いで和人の館を攻め落とすが、(④蠣崎氏)に制圧された。以後④が道南の支配者に成長し、江戸時代に松前氏を名乗る大名になった。
問1,室町時代の外交について、次の年表を完成させてください。
将軍 | 日中関係 | 日朝関係 |
足利尊氏・義詮 | 1342、(元)に天龍寺船を派遣 1368、(①明)が建国 | |
(足利義満) | 1401、①に使者を派遣 1404、(②勘合貿易)の開始 | 1392、(④朝鮮)が建国 1401、④に使者を派遣 |
足利義持 | 1411、②を中断 | 1419、(応永の外寇) |
(足利義教) | 1432、②を再開 | |
以後 | ②は(細川氏)と(③大内氏)が中心 1523、(寧波の乱)が発生 1551、③が滅亡 | 1510、(三浦の乱) |
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室町時代の社会・経済についての解答
ポイントの整理
・農業では水車などの改善に加え、機内で(三毛作)が行われ、水稲の品種改良がすすんだ。肥料は刈敷・草木灰に加え、(下肥)が使われるようになった。
・手工業の原料である桑、漆、藍などが栽培され、現金収入を得るようになり、年貢の(銭納)が普及した。
・商業は応仁の乱以降、(六斎市)が一般的になり、連雀商人や振売など行商人が増え、京都では大原女、桂女など女性が活躍した。
・商人や手工業者の座は数と種類が増え、大寺院や天皇からもらった神人(じにん)・供御人など称号を背景に、(関銭)が免除され、広範囲の独占販売権を獲得した。
・貨幣は(勘合貿易)が開始してから(明銭)が普及し、需要も高まったため、粗悪な私鋳銭が増加した。しばしば(撰銭)が行われ流通を妨げたため、幕府や戦国大名は(撰銭令)を出し円滑化を図った。
・金融業では(①酒屋)などの富裕な商工業者が(②土倉)とよばれる高利貸しを兼ねた。
・遠隔地との取引には、為替の一種である(割符)が使われ、大都市や交通の要地には(問屋)が成立した。陸路の輸送は(馬借)・車借が活躍した。
・南北朝の動乱期、近畿地方を中心に農民たちの戦乱に対する自衛や農業での共同作業が増加し、荘園・公領の枠をこえた自主的・自立的組織を(③惣村)という。
・③は(惣百姓)という村民で構成され、神社の祭祀を行った(宮座)が中心となり、村民の会議である(寄合)の決定に従って運営した。
・村の中の約束事として(惣掟)を定め、村民が警察権を行使し、村内で共同で管理する入会地や灌漑用水を確保した。
・領主への年貢の納入も③が一括でおこなうことを(地下請)といい、江戸時代の村請制の原点になる。
・村民の中には領主の不正や年貢の減免をもとめて、(土一揆)を結ぶこともあり、守護と主従関係を結んだ有力な農民には(地侍)になる者もいた。
・③の結合をもとにした(土一揆)が、①・②に対して借金の帳消しを実力行使で求めた。1428年(正長の徳政一揆)では京都の高利貸しを襲い、借金を実力で破棄させた。1441年(嘉吉の徳政一揆)では、数万人が京都に集まったため、幕府は(分一銭)の徴収を条件に徳政を認めた。
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室町文化についての問題
ポイントの整理
・新仏教
・足利尊氏の時代、臨済宗の(夢窓疎石)の勧めで、天龍寺を建立した。
・足利義満の時代、南宋にならい官寺の序列として(五山・十刹)の制をほぼ完成し、幕府の政治・外交顧問として重用された。
・留学僧や渡来僧の活躍で、絶海中津・義堂周信ら漢詩文の創作など(五山文学)が発達し、禅の経典や漢詩文集の出版を行った。
・応仁の乱の後、幕府の統制を受けない(林下)という寺院が発達し、一休宗純が出た(大覚寺)や妙心寺などがある。
・浄土真宗では(蓮如)が御文というわかりやすい文章で教義を説き、(講)という組織が惣村を基盤に拡大した。本願寺勢力は(①一向一揆)を結んで戦国大名と対立し、(加賀の一向一揆)が代表例である。
・日蓮宗では(日親)が布教を行い、京都の町衆に広がったが、6代将軍足利義教が弾圧をした。1532年には①と対立して(法華一揆)を起こし、1536年には(天文法華の乱)で延暦寺により寺院を焼打ちされた。
・文学
・南北朝時代には歴史書や軍記物が作られた。公家の立場で源平合戦後の歴史を記したものに(増鏡)があり、北畠親房は伊勢神道と南朝正統の立場から(神皇正統記)を記したが、南北朝動乱の全体を記した大作として(太平記)が有名である。
・南北朝時代から連歌が発達し、公家の(二条良基)は(菟玖波集)にまとめ、『応安新式』にそのルールをまとめた。応仁の乱の後、(宗祇)が『新撰菟玖波集』を編集し(正風連歌)を確立した。これに対し、(宗鑑)はより自由な気風の俳諧連歌をつくり『犬菟玖波集』を編集した。(連歌師)が各地で普及したので、地方の大名・武士・民衆にも流行した。
・(御伽草子)は絵と文字は話言葉で書かれたもので、一寸法師、浦島太郎などが有名である。
・学問
・公家は政治・経済力を失ったが、古典や学問研究を担った。(一条兼良)が有職故実の研究書や注釈書を残し、吉田兼倶は神道を中心に儒教・仏教を統合させる(唯一神道)を完成した。
・応仁の乱後、地方に公家や僧などの文化人が招かれ、(桂庵玄樹)は島津氏の薩摩に招かれ儒学の講義をした。関東では関東管領上杉憲実により(足利学校)が再興された。
宗祇、宗鑑、菟玖波集(つくばしゅう)、一向一揆、五山文学、日親、蓮如(れんにょ)、連歌師、唯一神道、夢窓疎石(むそうそせき)、講、天分法華の乱、加賀の一向一揆、法華一揆、五山・十刹、林下(りんか)、大徳寺、神皇正統記(じんのうしょうとうき)、御伽草子、桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)、
能楽
・猿楽などの神事が演劇・歌舞に発展し、(②能楽)と呼ばれ、寺社の保護を受けた。なかでも、(観阿弥)・(世阿弥)の父子は足利義満の保護を受け、理論書の(風姿花伝)を残した。
・民衆の間ではより娯楽性のある②が好まれ、その合間に演じられた(狂言)はせりふに日常の会話が用いられた。
茶の湯と生け花
・南北朝時代にお茶では(寄合茶)が広く行われ、茶の違いを飲み比べて賭けごとをする(闘茶)が流行した。
・新興武士には、新しい物好きで、派手・ぜいたくを意味する(バサラ)で呼ばれる者がいた。その代表が守護大名の佐々木導誉である。
・応仁の乱後には、(村田珠光)が侘茶を始め、花道では京都六角堂の(池坊専慶)が、観賞用の立て花を始めた。
建築と庭園
・足利義満は北山山荘に寝殿造と禅宗様を組み合わせた(金閣)を建てた。
・応仁の乱後、(③足利義政)は東山に別荘をかまえ、禅の精神を踏まえた(銀閣)を建て、絵画・茶道などに秀でた(同朋衆)を集め発展させた。
・③の書斎だった同仁斎の建築様式を(書院造)といい、ふすま絵や生花で飾る現代の和室の原形になった。庭には龍安寺石庭・大徳寺大仙院など(枯山水)が有名である。
絵画
・禅の精神を墨の濃淡のみで表す(④水墨画)が発達し、(如拙)「瓢鮎図」や(雪舟)「四季山水図巻」が有名。
・大和絵では宮廷に属した(土佐光信)が出、④の技法を取り入れた(狩野派)が生まれた。
確認問題
問1、室町文化について、次の表を完成させてください。
新仏教 | 臨済宗 | ・足利尊氏が保護し、(夢窓疎石)が天龍寺を開く ・足利義満の頃、南宋の官寺の制にならい(五山・十刹の制)が完成 ・(五山文学):宋学や漢詩文の創作がさかん ・応仁の乱後、幕府の統制を受けない(林下)という寺院が発達 |
浄土真宗 | ・応仁の乱の頃、(蓮如)が御文で教義をわかりやすく説く ・各地で(一向一揆)を結び、(加賀の一向一揆)は戦国大名と対立 | |
日蓮宗 | ・(日親)が布教し、京都の町衆に広まる ・6代将軍義教は弾圧⇒鍋冠り上人 ・1532(法華一揆):山科本願寺を焼打ち、浄土真宗と対立 ・1536(天文法華の乱):延暦寺が日蓮宗を焼打ち | |
文学 | 歴史・軍記 | ・(増鏡):公家の立場で源平合戦を描く ・(神皇正統記):北畠親房が南朝の正当性を主張 ・(太平記):南北朝の動乱を記した軍記物語 |
連歌 | ・連歌=筑波の道(日本武尊の和歌返答を起源としたため) ・(二条良基):『菟玖波集』・『応安新式』 ・(宗祇):正風連歌、『新撰菟玖波集』 ・(宗鑑):俳諧連歌、『犬菟玖波集』 | |
その他 | ・(御伽草子):『物くさ太郎』、『一寸法師』など | |
学問 | 有職故実 | ・(一条兼良):『公事根源』・『樵談治要』など ・吉田兼倶:(唯一神道)、神道を中心に儒教・仏教を統合 |
教育 | ・(足利学校):15世紀中頃、関東管領上杉憲実が再興 ・薩南学派:(桂庵玄樹)が薩摩の島津氏に儒学を講義 ・庶民の教育に、『庭訓往来』『御成敗式目』『節用集』など | |
芸能 | 能楽 | ・足利義満が大和猿楽四座の(観阿弥)座を保護 ・子の(世阿弥):『風姿花伝』 ・(狂言):能の合間で演じられた喜劇 |
茶の湯・生け花 | ・南北朝時代:寄合茶から(闘茶)が流行 ・応仁の乱後、(村田珠光)が侘茶を始め、千利休が完成 ・(池坊専慶)が立花を大成 | |
建築・庭園 | ・北山文化:足利義満の金閣 ・東山文化:足利義政の銀閣、慈照寺東求堂同仁斎の(書院造) ・(枯山水):龍安寺、大徳寺、西芳寺 | |
絵画 | ・水墨画:(如拙)「瓢鮎図」、(雪舟)「四季山水図巻」 ・大和絵に水墨画の技法を取り入れる⇒(狩野派)の始まり |
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