高校日本史、昭和時代(戦後)の練習問題です。
占領期から冷戦終結までの時代の内容を、教科書をもとにまとめています。
先取り学習や受験勉強などに、ご自由にお使いください。
この記事は、広告を含みます。
前回の練習問題は、こちら。
昭和時代(戦後)の練習問題
No More Anki!
日本史は暗記で何とかなるという考えは捨ててください。
覚えるだけは、ぜんぜん頭を使っていませし、コンピューターに敵いません。
しかし、知識ゼロの小学生に歴史をわかりやすく説明することは、人間だけができることです。
共通テストでは、単純な知識よりも理解力や文章読解力が大事です。
この記事は、教科書内容の整理と理解を目的にしています。
- 1回目は教科書を見ながらやる(教科書を読むのが目的)
- このページの文章をノートにまとめるのもアリ
- 2回目は何も見ずにやる
冷戦と朝鮮戦争についての練習問題
・米ソ対立のはじまり
1945年10月( )が国際連盟に代わり発足、戦勝国51カ国が参加
常任理事国( )が軍事行動など強い権限を持つ。
西欧諸国が力を失くし、( )と( )の影響力が増す
アメリカ
ドルを基軸通貨とする固定為替相場制と自由貿易体制を構想
1947年( ):アメリカによる西欧諸国の復興計画
→ソ連や東欧諸国に拒否され、共産主義陣営との対立
1949年( )(NATO):アメリカと西欧諸国の軍事同盟を結成
ソ連
1949年原爆開発に成功
1955年( ):ソ連と東欧7カ国との軍需同盟を結成
→米ソが軍事力・経済力・勢力範囲で対立するが直接の戦闘を避ける( )が確立
・朝鮮戦争
北緯38度を境に北を( )、南を( )が分割占領
1948年北に( )、南に( )が建国
1949年中国は( )率いる( )が内戦に勝利し、ソ連側の陣営に加わる
( )率いる( )は台湾に逃れる
1950年6月北朝鮮が韓国に侵入→( )の開始
9月( )が国連軍として介入し、中国人民義勇軍が参戦し膠着状態に
1951年アメリカのトルーマン大統領が戦線拡大を恐れて、( )を解任
1951年7月休戦協定が調印される
占領政策の転換
1948年ごろ、中国で共産党が優勢になりアメリカの占領政策の転換
変更前:民主化と非軍事化によって、日本を非力化
変更後:政治的に安定した工業国として復興させ、アメリカの友好国にする
1948年GHQの命令で公務員の( )をはく奪
1949年から公職追放の解除が進む
1950年朝鮮戦争のときGHQの指令で( )が新設
旧軍人が採用される。
( ):GHQが日本共産党幹部の公職追放を指令
1950年GHQの後押しで反共産主義の( )を結成。
後に日本社会党に接近し、保守政治に反対する。
ワルシャワ条約機構、国際連合、アメリカ、中国、イギリス、ソ連、フランス、マーシャルプラン、
北大西洋条約機構、争議権、団結権、団体交渉権、自衛隊、警察予備隊、マッカーサー、アメリカ軍、
ソ連軍、日本労働組合総評議会(総評)、
経済復興の練習問題
・終戦直後の経済
鉱工業生産額は戦前の( )に低下
失業者の急増:軍人の( )や植民地からの( )で人口急増、軍需工場の閉鎖など
米の配給不足から( )や農村への買い出し
猛烈なインフレ
原因:日本銀行の対民間貸出、大量の軍事費支払、赤字国債
極度の物資不足とも重なる
結果:1945年から49年まで物価が約70倍
・政府のインフレ対策
1946年2月幣原内閣の( ):預金封鎖と新円切り替え
→貨幣流通を減らそうとしたが効果なし
1947年第1次吉田内閣の( )
復興金融金庫から電力・海運など基幹産業へ資金提供
生産再開の機動力になったが、赤字財政によるインフレが進行
( )内閣は復興金融金庫をめぐる汚職事件(昭和電工事件)で退陣
・ドッジ=ライン
1948年12月GHQは第2次( )内閣に( )を指令。
内容:総予算の均衡、徴税の強化、金融貸出は復興のみ、賃金の安定、物価の統制、など
→インフレを抑えて日本の経済自立をめざす
翌年、銀行家( )が第3次( )内閣に一連の政策を指令
この指令を( )という
1949年まったく赤字を許さない予算編成で、財政支出を削減。
1ドル=( )円の単一為替レートを設定。
1949年財政学者( )ら租税チームの勧告で、直接税中心主義と累進所得税制を採用
→インフレは収束したが、不況が深刻化、
人員整理をめぐり国鉄と労組の間で怪事件(下山事件、など)が続発
・朝鮮特需
1950年朝鮮戦争により、武器・弾薬の製造、自動車や機械の修理などで活気と取り戻す
1951年工業生産、実質国民総生産・実質個人消費が戦前水準に回復( )
1950年日本輸出銀行、日本開発銀行が創設
1952年企業合理化促進法により、企業の設備投資を税制優遇
1952年電源開発会社が大規模な水力発電を建設
→アメリカ主導の自由貿易体制に日本も加わる
1952年( )、1955年( )に加盟
経済安定九原則、国際通貨基金、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)、特需景気、復員、
引揚げ、3分の2、3分の1、ドッジ=ライン、
日米安保の練習問題
・独立回復
第3次( )内閣は、経済復興に集中するため、軍備をアメリカに依存
1951年9月( )を西側48カ国と調印。
・日本の賠償責任を軽減
・日本の領土を制限:( )と小笠原諸島はアメリカの施政下
1953年奄美諸島が返還
同日、( )を締結
・アメリカ軍の日本駐留を認める
1952年( )により、日本がアメリカ軍の駐留費用を分担する
・冷戦構造
米ソの軍拡競争、原爆から水爆、大陸間弾道ミサイルの開発
1950年代後半、ソ連のスターリンの死後、( )が平和共存路線を打ち出す
西欧諸国は対米依存で復興を進める
1957年ヨーロッパ経済共同体(EEC)→1967年( )(EC)の発足
1960年代から中ソが対立し、1966年から中国で「文化大革命」
1955年中国とインドを中心に( )が開催
ベトナム
1954年インドシナ休戦協定により( )が撤退
その後、南北分断の内戦状態
1965年( )が南ベトナム政府を支援する形で軍事介入
北ベトナムと南ベトナム解放戦線は中ソの援助で抗戦( )
・日米安保
1952年「 」デモ隊と警察が衝突し、1名の死者と多数の負傷者を出した事件
7月第3次( )内閣は、( )を成立させ公安調査庁(逮捕権はない)を設置。
1954年( )で日本の自衛強化を義務付け、( )が発足。
同年、警察組織を警察庁に中央集権化、学校教員の政治活動を禁止
↓
社会党・共産党・総評ら革新勢力が「 」と批判
米軍基地拡張などで反対運動(砂川事件など)
1955年第五福竜丸事件をきっかけに( )が高まる
1960年( )を改定
1957年( )内閣が日米関係の対等を目指して成立。
・アメリカの日本防衛義務
・アメリカの「極東」での軍事行動に事前協議
↓
( ):日本がアメリカの戦略に巻き込まれると左派が反対
衆議院で強行採決したため、学生や一般市民のデモ隊が国会を囲む
60年安保闘争、サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約、自衛隊、血のメーデー事件、
日米行政協定、南西諸島、ブレジネフ、フルシチョフ、ヨーロッパ連合、ヨーロッパ共同体、
北爆、ベトナム戦争、破壊活動防止法、
55年体制の練習問題
・55年体制
1954年(1 )が自由党を離れ、日本民主党を結成。
日本民主党と両派社会党が内閣不信任決議案を出し、第5次( )内閣を退陣。
1955年(1 )内閣が成立し、憲法改正と再軍備を目指して総選挙を行う。
( )は改憲阻止に必要な1/3の議席を獲得し、再統一。
( )は日本民主党と自由党が合同して結成し、2/3弱の議席を獲得。
55年体制:保守と革新が対立し、保守一党が優位な体制が以後40年続いた。
1956年(1 )内閣はソ連と( )を結び国交回復。
同年、( )の加盟を実現。
その後、石橋湛山(たんざん)内閣は病死で短命に終わった。
1957年( )内閣は安保条約改定をめぐり革新勢力と対立
1960年( )内閣は「寛容と忍耐」をとなえて、革新勢力と対立をさける。
「 」を唱え、高度経済成長を促進させた。
1963年GATT11条国、( )をしない国に
1964年IMF8条国、貿易支払と資本輸出を制限しない国に、( )に加盟
1964年( )内閣が成立
1965年( )を締結し、韓国と国交回復
( )で日本がアメリカの前線基地となるが、沖縄で祖国復帰運動が高まる
( )内閣は( )(もたず・つくらず・もち込ませず)を掲げる
1968年小笠原諸島の返還、1971年( )を調印し、翌年沖縄が返還
所得倍増、東京オリンピック、国際連合、LT貿易、日韓基本条約、沖縄返還協定、日ソ共同宣言、
OECD、自由民主党、公明党、民主社会党、日本社会党、非核三原則、
高度経済成長の練習問題
・景気の名称と内閣
内閣 | 景気 | できごと |
吉田茂(2~5次) | 特需景気 | 1952年国際通貨基金(IMF)、世界銀行に加盟 1953年テレビ放送開始 |
鳩山一郎 | ( ) | 1955年GATTに加盟 ( ):白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫 1956年経済白書「 」 |
岸信介 | ( ) | 耐久消費財が普及 |
池田勇人 | 1960年( ):カラーテレビ、車、クーラー、 「 」計画を発表 1961年( ):農家の所得向上を目指す 化学肥料や農業機械が普及 | |
オリンピック景気 | 1963年GATT11条国 1964年IMF8条国、OECDに加盟 東海道新幹線が開通、東京オリンピックを開催 | |
佐藤栄作 | ( ) | 1965年名神高速道路が開通 1967年( )を公布 1968年GNPが資本主義国で第2位 1970年日本万国博覧会を開催 |
*神武景気などは、日本史上空前の好景気という意味。神話にちなんだ名称。
・高度経済成長の原因
期間は1955~73年まで。
アメリカなどの( )を取り入れ、設備投資が進む
終身雇用・年功賃金・労資協調の( )が確立
1960年( ):石炭から石油への転換
重化学工業が2/3を占めるが、三池炭鉱などの閉山が相次ぐ
1955年以降( )による「 」が定着し、労働者の賃金向上を続ける
・国際競争力の強化
( )内閣は「貿易為替自由化大綱」を決定
1960年代後半、固定相場制のもと鉄鋼・船舶・( )などを輸出
国際競争の激化にそなえ、都市銀行を中心に( )を形成
財閥と異なる点
・銀行が系列企業に融資
・株式の相互持合い
・社長会などの人的結合
・大衆消費社会
1950年代後半から( )、1960年代( )が普及
マスメディアから大量の情報が伝えられ、日本人の生活様式が画一化
1964年東京オリンピックにともない、( )や( )が開通
・高度経済成長のひずみ
1961年( )で農業の機械化や生産向上が進むが、大量の人口が都市へ流出
農業以外の収入を主とする第2種兼業農家が増え、米以外の食料自給率が低下
→農村の過疎化、都市の過密化が進む
( )訴訟が深刻化
1967年( )を制定し、1971年( )を設置
日本的経営、名神高速道路、農業基本法、環境省、環境庁、公害対策基本法、3B、3C、企業集団、
総評、もはや戦後ではない、国民所得倍増、自動車、四大公害、神武景気、
石油危機の練習問題
・ドル危機
1960年代ベトナム戦争などで、アメリカの国際収支が悪化
1971年アメリカの( )大統領が、円などの為替レート引き揚げを要求( )
1ドル=360円時代が終わる→1973年から( )に移行
・第1次石油危機
1972年(1 )内閣が成立し、「日本列島改造論」を掲げる。
内容:工業の地方分散化、新幹線・高速道路などネットワーク整備
1972年アメリカの( )大統領が中国に訪問して( )終結の仲介を依頼
同年( )も中国を訪れ、( )を発表し国交正常化
1973年第4次中東戦争で原油価格が4倍に( )
公共投資を見込んだ土地投機と原油高騰が重なり( )と呼ばれるインフレ
→1974年に戦後初のマイナス成長により高度経済成長が終了
( )が明るみになり、1974年総辞職
・保守政権の動揺
1975年( )内閣が発足し、「クリーン政治」を掲げる。
同年( )サミットが開催され、経済低迷や貿易・通貨など先進6か国間の経済政策を調整
1976年( )で1が収賄で逮捕
同年の総選挙で大敗し、総辞職
1976年( )内閣が発足し、1978年( )を締結。
1979年( )内閣のとき、イラン革命がけっかけで第2次( )が起こる
一般消費税導入に失敗し、選挙期間中に急死。
先進国首脳会議、ベトナム和平協定、石油危機、ニクソン、レーガン、日中平和友好条約、
日中共同宣言、ドル危機、狂乱物価、金脈問題、ベトナム戦争、湾岸戦争、中東戦争、ロッキード事件、
変動相場制、
安定成長時代の練習問題
・石油危機後の経済
主要先進国は経済低迷したが、日本は年5%前後の成長率を維持
企業は「 」につとめた
・省エネ化が進む
・( )技術で工場の自動化
・人員削減
自動車・電気機械・半導体などの輸出が好調
・高速交通網の整備
1970年代から80年代、全国に高速道路網が整備
1978年成田空港が開業
1988年青函トンネルと瀬戸大橋が開通
・経済大国
1955年全世界GNPの2%→1980年約10%
1980年代日本の( )が世界最大規模に
一方、欧米諸国と( )が深刻化
1985年( )でドル高が是正されると、日本は円高不況に
アジアや欧米に生産拠点を移す日本企業が増加
1987年半ばから国内需要を中心に経済回復
コンピュータと通信機器を利用したコンビニや量販店が拡大→第三次産業の比重増加
あまった資金が不動産市場や株式市場に流入し、( )へ。
・アジアNIES
1970年代東アジア(韓国・シンガポール・台湾・香港など)で、
外国の資本と技術によって輸出志向型の工業化がすすみ、経済が急成長
その後、中国の改革開放政策、アセアン諸国(1967年に発足)に拡大
貿易赤字、双子の赤字、貿易摩擦、貿易黒字、
冷戦終結の練習問題
・新自由主義
1979年ソ連の( )侵攻で米ソ対立が高まる
1980年代アメリカの( )大統領が大幅減税と規制緩和を実施
財政赤字と貿易赤字の( )に苦しむアメリカは、日本に農産物の輸入自由化を要求
→1991年オレンジ・牛肉の輸入自由化
同じころイギリスのサッチャー首相が公共支出の抑制、国有企業の民営化をすすめた。
( ):従来の有効需要創出や福祉国家政策を批判し、「小さな政府」を目指す
1980年( )内閣は「増税なき財政再建」を目指すが失敗
1982年( )内閣は「戦後政治の総決算」ととなえ( )を推進
公社の民営化:電電公社→NTT、国鉄→JR、専売公社→JT
大型間接税の導入は失敗
1987年( )内閣のもと、( )が導入
→1989年に実施
・冷戦終結
米ソ両国とも経済が悪化
1985年ソ連のゴルバチョフが( )を開始
市場経済の導入、政治・社会の自由化、対米関係の改善
1987年中距離核戦力全廃条約を締結、翌年アフガニスタンから撤退
1989年12月マルタ島で( )が宣言
→東欧諸国が社会主義体制から離脱
1990年( )が統一
1991年末( )が解体→各地で民族紛争が多発
同年、( )でアメリカ軍ら多国籍軍が派遣、日本に貢献を要求
1992年( )内閣が( )を成立
→カンボジア、モザンビーク、コンゴ、ゴラン高原、東ティモールに自衛隊を派遣
中曽根康弘(なかそねやすひろ)、ペレストロイカ、南北ベトナム、南北朝鮮、東西ドイツ、
ソ連、アフガニスタン、新自由主義、レーガン、ブッシュ、プラザ合意、行財政改革、
消費税、湾岸戦争、PKO協力法、バブル経済、チェコ、双子の赤字、
55年体制崩壊の練習問題
・平成不況
1990年大蔵省が金融機関に不動産融資を抑えるように規制
→株価・不動産価格が暴落し、金融機関が大量の不良債権を抱える
1995年~98年銀行・証券会社などが破綻
1990年代、企業は事業整理・人員削減、海外展開などリストラを行う
→生産・投資がふるわず、技術革新でアメリカと差が生まれる
失業者が増え雇用が不安定化し、消費が低迷
・55年体制崩壊
政官界と大企業の汚職が明るみに出る
1989年リクルート事件
1992年佐川急便事件
1993年ゼネコン汚職事件
1993年総選挙で自由民主党が大敗→( )内閣が総辞職
( )内閣が8党派の連立政権を樹立
1994年衆議院に小選挙区比例代表並立制を導入
小泉純一郎、麻生太郎、安倍晋三、菅直人、鳩山由紀夫、福田康夫、野田佳彦、
昭和時代(戦後)の年表
内閣 | できごと |
東久邇宮稔彦 | 昭和時代(戦中~占領期)の無料問題をご覧ください。 |
幣原喜重郎 | |
第1次( ) | |
片山哲 | |
芦田均 | |
第2次~第5次 ( ) | 1950年文化財保護法を公布 1950年朝鮮戦争が勃発。警察予備隊創設、公務員のレッド・パージ、公職追放を解除 1951年( )と日米安全保障条約に調印。 1952年血のメーデー事件→( )が成立 IMF、世界銀行に加盟 1953年テレビ放送開始 1954年MSA協定→( )を設立 |
( ) | 1955年アジア・アフリカ会議 原水爆禁止世界大会、GATTに加盟 ( )が結成、この年、三種の神器が流行語 1956年日ソ共同宣言に調印→( )に加盟 経済白書「 」 |
石橋湛山 | |
( ) | 1960年( )に調印。三池炭鉱争議(石炭から石油に) |
( ) | 1960年( )を発表、新三種の神器(3C)が流行語 1961年農業基本法が成立 1962年LT貿易覚書に調印 1964年経済協力開発機構( )に加盟、新幹線開業 |
( ) | 1965年( )に調印し、韓国と国交回復 1967年( )を公布 1968年小笠原諸島返還協定に調印、GNPが資本主義国第2位になる 1971年( )返還協定に調印、環境庁を設置 ( )で1ドル=360円が終了 |
( ) | 1972年日本列島改造論を発表 ( )に調印し、中国と国交回復 1973年第4次中東戦争をきっかけに第1次( )が発生 円が変動為替相場に移行 金脈問題が原因で退陣 |
三木武夫 | 1975年先進国首脳会議に出席、山陽新幹線開業 1976年ロッキード事件で( )が逮捕される |
( ) | 1977年日米漁業協定に調印(12海里の領海、200海里の排他的経済水域) 1978年日中平和友好条約に調印、成田空港が開港、1円=175円と円高が進む |
( ) | 1979年イラン革命により第2次( )が発生 |
( ) | 1980年「増税なき財政改革」を目指すが失敗 |
( ) | 1982年「戦後政治の総決算」と称する新自由主義改革をする 1985年電電公社と専売公社を( ) 同年( )で円高が進む 1987年国鉄が( ) |
( ) | 1988年リクルート事件が発覚 1989年( )を導入 |
宇野宗佑 | 参議院選挙で大敗 |
海部俊樹 | 1991年( )で多額の資金援助 |
( ) | 1992年( )が成立→自衛隊がカンボジアに派遣 同年、佐川急便事件で非難を浴びる |
( ) | 1993年自民党以外の政権が誕生→( )の崩壊 1994年選挙制度改革→小選挙区比例代表並立制 |
羽田孜 | |
村山富市 |
細川護熙、大平正芳、吉田茂、宮澤喜一、消費税、55年体制、民営化、石油危機、日中共同宣言、
沖縄、破壊活動防止法、自衛隊、公害対策基本法、湾岸戦争、日韓基本条約、国際連合、
自衛隊、サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約、自由民主党、PKO協力法、ドル=ショック、
もはや戦後ではない、国民所得倍増計画、
昭和時代(戦後)の解答
冷戦と朝鮮戦争についての解答
・米ソ対立のはじまり
1945年10月(国際連合)が国際連盟に代わり発足、戦勝国51カ国が参加
常任理事国(アメリカ、ソ連、フランス、イギリス、中国)が軍事行動など強い権限を持つ。
西欧諸国が力を失くし、(アメリカ)と(ソ連)の影響力が増す
アメリカ
ドルを基軸通貨とする固定為替相場制と自由貿易体制を構想
1947年(マーシャルプラン):アメリカによる西欧諸国の復興計画
→ソ連や東欧諸国に拒否され、共産主義陣営との対立
1949年(北大西洋条約機構)(NATO):アメリカと西欧諸国の軍事同盟を結成
ソ連
1949年原爆開発に成功
1955年(ワルシャワ条約機構):ソ連と東欧7カ国との軍需同盟を結成
→米ソが軍事力・経済力・勢力範囲で対立するが直接の戦闘を避ける(冷戦)が確立
・朝鮮戦争
北緯38度を境に北を(ソ連)、南を(アメリカ)が分割占領
1948年北に(北朝鮮)、南に(韓国)が建国
1949年中国は(毛沢東)率いる(共産党)が内戦に勝利し、ソ連側の陣営に加わる
(蒋介石)率いる(国民党)は台湾に逃れる
1950年6月北朝鮮が韓国に侵入→(朝鮮戦争)の開始
9月(アメリカ)が国連軍として介入し、中国人民義勇軍が参戦し膠着状態に
1951年アメリカのトルーマン大統領が戦線拡大を恐れて、(マッカーサー)を解任
1951年7月休戦協定が調印される
占領政策の転換
1948年ごろ、中国で共産党が優勢になりアメリカの占領政策の転換
変更前:民主化と非軍事化によって、日本を非力化
変更後:政治的に安定した工業国として復興させ、アメリカの友好国にする
1948年GHQの命令で公務員の(争議権)をはく奪
1949年から公職追放の解除が進む
1950年朝鮮戦争のときGHQの指令で(警察予備隊)が新設
旧軍人が採用される。
(レッドパージ):GHQが日本共産党幹部の公職追放を指令
1950年GHQの後押しで反共産主義の(日本労働組合総評議会)を結成。
後に日本社会党に接近し、保守政治に反対する。
教科書よりやさしい参考書:「金谷の日本史(近現代史)」
経済復興の解答
・終戦直後の経済
鉱工業生産額は戦前の(3分の1)に低下
失業者の急増:軍人の(復員)や植民地からの(引揚げ)で人口急増、軍需工場の閉鎖など
米の配給不足から(闇市)や農村への買い出し
猛烈なインフレ
原因:日本銀行の対民間貸出、大量の軍事費支払、赤字国債
極度の物資不足とも重なる
結果:1945年から49年まで物価が約70倍
・政府のインフレ対策
1946年2月幣原内閣の(緊急措置令):預金封鎖と新円切り替え
→貨幣流通を減らそうとしたが効果なし
1947年第1次吉田内閣の(傾斜生産方式)
復興金融金庫から電力・海運など基幹産業へ資金提供
生産再開の機動力になったが、赤字財政によるインフレが進行
(芦田均)内閣は復興金融金庫をめぐる汚職事件(昭和電工事件)で退陣
・ドッジ=ライン
1948年12月GHQは第2次(吉田茂)内閣に(経済安定九原則)を指令。
内容:総予算の均衡、徴税の強化、金融貸出は復興のみ、賃金の安定、物価の統制、など
→インフレを抑えて日本の経済自立をめざす
翌年、銀行家(ドッジ)が第3次(吉田茂)内閣に一連の政策を指令
この指令を(ドッジ=ライン)という
1949年まったく赤字を許さない予算編成で、財政支出を削減。
1ドル=(360)円の単一為替レートを設定。
1949年財政学者(シャウプ)ら租税チームの勧告で、直接税中心主義と累進所得税制を採用
→インフレは収束したが、不況が深刻化、
人員整理をめぐり国鉄と労組の間で怪事件(下山事件、など)が続発
・朝鮮特需
1950年朝鮮戦争により、武器・弾薬の製造、自動車や機械の修理などで活気と取り戻す
1951年工業生産、実質国民総生産・実質個人消費が戦前水準に回復(特需景気)
1950年日本輸出銀行、日本開発銀行が創設
1952年企業合理化促進法により、企業の設備投資を税制優遇
1952年電源開発会社が大規模な水力発電を建設
→アメリカ主導の自由貿易体制に日本も加わる
1952年(国際通貨基金)、1955年(GATT)に加盟
教科書の整理は、「時代と流れで覚える日本史」
日米安保の解答
・独立回復
第3次(吉田茂)内閣は、経済復興に集中するため、軍備をアメリカに依存
1951年9月(サンフランシスコ平和条約)を西側48カ国と調印。
・日本の賠償責任を軽減
・日本の領土を制限:(南西諸島)と小笠原諸島はアメリカの施政下
1953年奄美諸島が返還
同日、(日米安全保障条約)を締結
・アメリカ軍の日本駐留を認める
1952年(日米行政協定)により、日本がアメリカ軍の駐留費用を分担する
・冷戦構造
米ソの軍拡競争、原爆から水爆、大陸間弾道ミサイルの開発
1950年代後半、ソ連のスターリンの死後、(フルシチョフ)が平和共存路線を打ち出す
西欧諸国は対米依存で復興を進める
1957年ヨーロッパ経済共同体(EEC)→1967年(ヨーロッパ共同体)(EC)の発足
1960年代から中ソが対立し、1966年から中国で「文化大革命」
1955年中国とインドを中心に(アジア=アフリカ会議)が開催
ベトナム
1954年インドシナ休戦協定により(フランス軍)が撤退
その後、南北分断の内戦状態
1965年(アメリカ)が南ベトナム政府を支援する形で軍事介入
北ベトナムと南ベトナム解放戦線は中ソの援助で抗戦(ベトナム戦争)
・日米安保
1952年「血のメーデー事件」デモ隊と警察が衝突し、1名の死者と多数の負傷者を出した事件
7月第3次(吉田茂)内閣は、(破壊活動防止法)を成立させ公安調査庁(逮捕権はない)を設置。
1954年(MSA協定)で日本の自衛強化を義務付け、(自衛隊)が発足。
同年、警察組織を警察庁に中央集権化、学校教員の政治活動を禁止
↓
社会党・共産党・総評ら革新勢力が「逆コース」と批判
米軍基地拡張などで反対運動(砂川事件など)
1955年第五福竜丸事件をきっかけに(原水爆禁止運動)が高まる
1960年(日米安全保障条約)を改定
1957年(岸信介)内閣が日米関係の対等を目指して成立。
・アメリカの日本防衛義務
・アメリカの「極東」での軍事行動に事前協議
↓
(安保闘争):日本がアメリカの戦略に巻き込まれると左派が反対
衆議院で強行採決したため、学生や一般市民のデモ隊が国会を囲む
教科書よりやさしいドリル:「とってもやさしい日本史」
55年体制の解答
・55年体制
1954年(1鳩山一郎)が自由党を離れ、日本民主党を結成。
日本民主党と両派社会党が内閣不信任決議案を出し、第5次(吉田茂)内閣を退陣。
1955年(1鳩山一郎)内閣が成立し、憲法改正と再軍備を目指して総選挙を行う。
(日本社会党)は改憲阻止に必要な1/3の議席を獲得し、再統一。
(自由民主党)は日本民主党と自由党が合同して結成し、2/3弱の議席を獲得。
55年体制:保守と革新が対立し、保守一党が優位な体制が以後40年続いた。
1956年(1鳩山一郎)内閣はソ連と(日ソ共同宣言)を結び国交回復。
同年、(国際連合)の加盟を実現。
その後、石橋湛山(たんざん)内閣は病死で短命に終わった。
1957年(岸信介)内閣は安保条約改定をめぐり革新勢力と対立
1960年(池田勇人)内閣は「寛容と忍耐」をとなえて、革新勢力と対立をさける。
「所得倍増」を唱え、高度経済成長を促進させた。
1963年GATT11条国、(輸入制限)をしない国に
1964年IMF8条国、貿易支払と資本輸出を制限しない国に、(OECD)に加盟
1964年(佐藤栄作)内閣が成立
1965年(日韓基本条約)を締結し、韓国と国交回復
(ベトナム戦争)で日本がアメリカの前線基地となるが、沖縄で祖国復帰運動が高まる
(佐藤栄作)内閣は(非核三原則)(もたず・つくらず・もち込ませず)を掲げる
1968年小笠原諸島の返還、1971年(沖縄返還協定)を調印し、翌年沖縄が返還
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高度経済成長の解答
・景気の名称と内閣
内閣 | 景気 | できごと |
吉田茂(2~5次) | 特需景気 | 1952年国際通貨基金(IMF)、世界銀行に加盟 1953年テレビ放送開始 |
鳩山一郎 | (神武景気) | 1955年GATTに加盟 (三種の神器):白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫 1956年経済白書「もはや戦後ではない」 |
岸信介 | (岩戸景気) | 耐久消費財が普及 |
池田勇人 | 1960年(3C):カラーテレビ、車、クーラー、 「国民所得倍増」計画を発表 1961年(農業基本法):農家の所得向上を目指す 化学肥料や農業機械が普及 | |
オリンピック景気 | 1963年GATT11条国 1964年IMF8条国、OECDに加盟 東海道新幹線が開通、東京オリンピックを開催 | |
佐藤栄作 | (いざなぎ景気) | 1965年名神高速道路が開通 1967年(公害対策基本法)を公布 1968年GNPが資本主義国で第2位 1970年日本万国博覧会を開催 |
*神武景気などは、日本史上空前の好景気という意味。神話にちなんだ名称。
・高度経済成長の原因
期間は1955~73年まで。
アメリカなどの(技術革新)を取り入れ、設備投資が進む
終身雇用・年功賃金・労資協調の(日本的経営)が確立
1960年(エネルギー革命):石炭から石油への転換
重化学工業が2/3を占めるが、三池炭鉱などの閉山が相次ぐ
1955年以降(総評)による「春闘」が定着し、労働者の賃金向上を続ける
・国際競争力の強化
(池田勇人)内閣は「貿易為替自由化大綱」を決定
1960年代後半、固定相場制のもと鉄鋼・船舶・(自動車)などを輸出
国際競争の激化にそなえ、都市銀行を中心に(企業集団)を形成
財閥と異なる点
・銀行が系列企業に融資
・株式の相互持合い
・社長会などの人的結合
・大衆消費社会
1950年代後半から(三種の神器)、1960年代(3C)が普及
マスメディアから大量の情報が伝えられ、日本人の生活様式が画一化
1964年東京オリンピックにともない、(東海道新幹線)や(名神高速道路)が開通
・高度経済成長のひずみ
1961年(農業基本法)で農業の機械化や生産向上が進むが、大量の人口が都市へ流出
農業以外の収入を主とする第2種兼業農家が増え、米以外の食料自給率が低下
→農村の過疎化、都市の過密化が進む
(四大公害)訴訟が深刻化
1967年(公害対策基本法 )を制定し、1971年(環境庁)を設置
石油危機の解答
・ドル危機
1960年代ベトナム戦争などで、アメリカの国際収支が悪化
1971年アメリカの(ニクソン)大統領が、円などの為替レート引き揚げを要求(ドル危機)
1ドル=360円時代が終わる→1973年から(変動為替相場制)に移行
・第1次石油危機
1972年(1田中角栄)内閣が成立し、「日本列島改造論」を掲げる。
内容:工業の地方分散化、新幹線・高速道路などネットワーク整備
1972年アメリカの(ニクソン)大統領が中国に訪問して(ベトナム戦争)終結の仲介を依頼
同年(田中角栄)も中国を訪れ、(日中共同声明)を発表し国交正常化
1973年第4次中東戦争で原油価格が4倍に(石油危機)
公共投資を見込んだ土地投機と原油高騰が重なり(狂乱物価)と呼ばれるインフレ
→1974年に戦後初のマイナス成長により高度経済成長が終了
(金脈問題)が明るみになり、1974年総辞職
・保守政権の動揺
1975年(三木武夫)内閣が発足し、「クリーン政治」を掲げる。
同年(先進国首脳会議)サミットが開催され、経済低迷や貿易・通貨など先進6か国間の経済政策を調整
1976年(ロッキード事件)で1が収賄で逮捕
同年の総選挙で大敗し、総辞職
1976年(福田赳夫)内閣が発足し、1978年(日中平和友好条約)を締結。
1979年(大平正芳)内閣のとき、イラン革命がけっかけで第2次(石油危機)が起こる
一般消費税導入に失敗し、選挙期間中に急死。
安定成長時代の解答
・石油危機後の経済
主要先進国は経済低迷したが、日本は年5%前後の成長率を維持
企業は「減量経営」につとめた
・省エネ化が進む
・(ME)技術で工場の自動化
・人員削減
自動車・電気機械・半導体などの輸出が好調
・高速交通網の整備
1970年代から80年代、全国に高速道路網が整備
1978年成田空港が開業
1988年青函トンネルと瀬戸大橋が開通
・経済大国
1955年全世界GNPの2%→1980年約10%
1980年代日本の(ODA)が世界最大規模に
一方、欧米諸国と(貿易摩擦)が深刻化
1985年(プラザ合意)でドル高が是正されると、日本は円高不況に
アジアや欧米に生産拠点を移す日本企業が増加
1987年半ばから国内需要を中心に経済回復
コンピュータと通信機器を利用したコンビニや量販店が拡大→第三次産業の比重増加
あまった資金が不動産市場や株式市場に流入し、(バブル経済)へ。
・アジアNIES
1970年代東アジア(韓国・シンガポール・台湾・香港など)で、
外国の資本と技術によって輸出志向型の工業化がすすみ、経済が急成長
その後、中国の改革開放政策、アセアン諸国(1967年に発足)に拡大
冷戦終結の解答
・新自由主義
1979年ソ連の(アフガニスタン)侵攻で米ソ対立が高まる
1980年代アメリカの(レーガン)大統領が大幅減税と規制緩和を実施
財政赤字と貿易赤字の(双子の赤字)に苦しむアメリカは、日本に農産物の輸入自由化を要求
→1991年オレンジ・牛肉の輸入自由化
同じころイギリスのサッチャー首相が公共支出の抑制、国有企業の民営化をすすめた。
(新自由主義):従来の有効需要創出や福祉国家政策を批判し、「小さな政府」を目指す
1980年(鈴木善幸)内閣は「増税なき財政再建」を目指すが失敗
1982年(中曽根康弘)内閣は「戦後政治の総決算」ととなえ(行財政改革)を推進
公社の民営化:電電公社→NTT、国鉄→JR、専売公社→JT
大型間接税の導入は失敗
1987年(竹下登)内閣のもと、(消費税)を導入
→1989年に実施
・冷戦終結
米ソ両国とも経済が悪化
1985年ソ連のゴルバチョフが(ペレストロイカ)を開始
市場経済の導入、政治・社会の自由化、対米関係の改善
1987年中距離核戦力全廃条約を締結、翌年アフガニスタンから撤退
1989年12月マルタ島で(冷戦終結)を宣言
→東欧諸国が社会主義体制から離脱
1990年(東西ドイツ)が統一
1991年末(ソ連)が解体→各地で民族紛争が多発
同年、(湾岸戦争)でアメリカ軍ら多国籍軍が派遣、日本に貢献を要求
1992年(宮澤喜一)内閣が(PKO協力法)を成立
→カンボジア、モザンビーク、コンゴ、ゴラン高原、東ティモールに自衛隊を派遣
55年体制崩壊の解答
・平成不況
1990年大蔵省が金融機関に不動産融資を抑えるように規制
→株価・不動産価格が暴落し、金融機関が大量の不良債権を抱える
1995年~98年銀行・証券会社などが破綻
1990年代、企業は事業整理・人員削減、海外展開などリストラを行う
→生産・投資がふるわず、技術革新でアメリカと差が生まれる
失業者が増え雇用が不安定化し、消費が低迷
・55年体制崩壊
政官界と大企業の汚職が明るみに出る
1989年リクルート事件
1992年佐川急便事件
1993年ゼネコン汚職事件
1993年総選挙で自由民主党が大敗→(宮澤喜一)内閣が総辞職
(細川護熙)内閣が8党派の連立政権を樹立
1994年衆議院に小選挙区比例代表並立制を導入
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