高校日本史、戦国時代・安土桃山時代の練習問題です。
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内容は、戦国大名、ヨーロッパ人の来航、織豊政権、桃山文化、です。
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前回の室町時代の練習問題はこちら!
戦国時代・安土桃山時代の練習問題
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戦国大名についての問題
ポイントの整理
・応仁の乱のころ、各地方では( )や( )が実権をにぎり、国人だけでなく地域住民も広く組み込んだ( )が組織された。
・1485年( )は、畠山氏の争乱から秩序を守るため、8年間にわたり住民自治を行った。この時から、実力で下の者たちが実力で上の勢力を退ける( )の風潮が広まった。
・応仁の乱の頃、( )は、阿弥陀仏の教えを信じれば誰でも極楽往生できると平易な( )で説き、惣村に講という組織を増やし、近畿・東海・北陸に広まり、1488年( )により守護の富樫政親を追い出し、信長に制圧されるまで、一世紀の間統治した。
・応仁の乱後、幕府の実権は管領の( )が握ったが、三好長慶、松永久秀と交代した。
・この頃、各地方でみずからの力で領国を築き治めた大名を( )という。
・関東は( )後、鎌倉公方は堀越公方と古河公方とに、上杉氏も両分して争っていたところ、京都の伊勢宗瑞こと( )が関東を支配し、秀吉に滅ぼされるまでその勢力が続いた。
・越後では守護代の長尾氏が支配権を奪い、( )と名乗り、甲斐の( )と川中島などで交戦した。
・中国地方は有力守護の大内氏が重臣の( )に領地を奪われ、その後安芸の国人( )がおこり、山陰の尼子氏と交戦した。
・四国では土佐を統一した( )が北上し、九州では豊後の( )、薩摩の( )が優勢で、東北では国人の争いから( )が有力大名に成長した。
・戦国大名は領国内の平和を維持するため(① )を定め、民間人どうしの私闘を禁じ、もめごとを大名の裁判で解決させるため( )を定めた。①の例には、伊達氏の( )、今川氏の( )がある。
・大名と家臣の関係は( )に応じて銭で収入を払う( )を敷き、新たに地侍が家臣団に入った場合、有力な家臣に預ける形で組織化し、これを( )という。これにより、戦国大名は集団戦法が可能になった。
・新たに征服した土地では、家臣に農地の収穫量や面積を自己申告させる( )を行い、年貢は( )に換算され、年貢量に応じて家臣の軍役や農民の夫役が決定した。
・戦に備えて、物資や武器を調達するため( )に商工業者を住まわせ、政治・経済・文化の中心になった。
・製錬技術の発達により、鉱山開発が進み、甲斐・駿河の金山、( )・但馬の銀山の開発にも力を入れた。
・戦国時代には富裕な商工業者による自治都市が生まれ、有名なのが( )と( )である。また、京都では富裕な商工業者の(② )が中心に自治をはかり( )を定め、( )という代表者によって運営された。こうした②が( )を再興した。
確認問題
問1、主な戦国大名の出自について、次の表を完成させてください。
出自 | 人物 |
守護大名 | ・甲斐の( )、周防の( )、薩摩の( ) |
守護代 | ・越前の( )、尾張の織田氏、越後の長尾氏、 |
国人など | ・伊豆の( )、近江のあざい氏、安芸の( )、など |
問2、戦国時代のおもな都市について、次の表を完成させてください。
種類 | 代表例 |
城下町 | 大内氏の( )、朝倉氏の( )、北条氏の小田原 |
門前町 | 伊勢神宮の( )、延暦寺の坂本、 |
寺内町 | 摂津の( )、河内のとんだばやし、 |
港町 | 薩摩の坊津、越前の敦賀(つるが)、 |
自治都市 | ( )、( )、( )、 |
ヨーロッパ人の来航についての問題
ポイントの整理
・16世紀から、ヨーロッパ諸国がムスリム商人を介さずに世界各地と貿易したり、キリスト教の布教したりするようになった時代を( )という。
・15世紀ごろ既に東アジアでは( )の中継貿易がさかんに行われ、明が( )をとったことにより、中国人の( )が私貿易を行い、ヨーロッパ諸国はこれに参加した。
・マカオに拠点を置いたのは( )で、マニラに拠点を置いたのは( )である。アンボイナ事件よりインドネシアのジャワ島に拠点を置いたのは( )である。
・( )に中国人の倭寇船に乗った( )人が1543年に( )を伝え、九州各地で貿易が始まった。
・1549年イエズス会の( )が( )にキリスト教( )を伝えた。
・南蛮貿易には日本の( )が輸出され、宣教師の布教活動と一緒に行われた。主な寄港地は( )で、宣教師は教会堂に( )を建て、宣教師養成学校に( )を創設し、これらの貿易・布教活動を保護した( )に、(① )などがいた。
・1582年に宣教師の( )の勧めで、①らは( )をローマ教皇のもとに派遣した。
確認問題
問1,宣教師の活動について、次の表を完成させてください。
宣教師 | 活動内容 |
1549、鹿児島に到着し、1551まで日本で布教した | |
ガスパル=ヴィレラ | 室町幕府の許可を得て、布教した |
信長・秀吉の保護を受け、『日本史』を執筆 | |
ヴァリニャーニ | 大村純忠、有馬晴信、大友義鎮3人のキリシタン大名を説得して、 ( )を派遣。 |
織豊政権についての問題
ポイントの整理
・尾張の守護代だった( )は1567年岐阜の斎藤氏を滅ぼし、( )の印判で全国統一の意思を示した。
・翌年、京都に入り( )を将軍職に付けたが、1573年に追放し室町幕府を滅ぼした。
・( )の焼き打ちだけでなく、顕如らの(① )と約11年間戦って屈服させた。
・1575年( )では武田軍に勝利した。
・1576年近江に( )を築きその城下に家臣団を住まわせ、商工業者に自由な商売を許可し税負担も免除する( )を出した。
・しかし家臣の明智光秀に( )で襲撃された。
・秀吉は明智光秀を( )で破り、柴田勝家を滅ぼし、( )も服従させ、信長の後継者としての地位を確立した。
・秀吉は信長と異なり伝統的権威を利用して、朝廷から( )に任じられ四国平定後、( )を出し、京都に( )を作り後陽成天皇を歓待したとき、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。
・その後、( )で北条氏政を滅ぼし、東北の( )ら諸大名を服従させた。
・秀吉は①跡に大坂城を築き、京都・堺・博多など豪商の経済力を利用し、堺の( )もその一人である。
・秀吉は全国に莫大な( )だけでなく、石見、生野などの鉱山を直轄し、( )を鋳造し、大きな経済基盤になった。
・晩年に政治体制を整え始め、腹心の( )らに政務を分担させる( )と、重要政務を合議する( )を整えた。
・太閤検地にあたって、自己申告の指出検地から、直接国守や秀吉の領国を調べるため、( )を容積を量るのに使い、面積の単位を統一して、農地の面積、収穫量に応じて( )を定め、農民は農地の所有を認められた代わりに年貢を負担する( )とし、1591年に全国の大名に( )と( )の作成を命じた。
・秀吉は武士と百姓の分離を行うため、反抗や一揆の対策として( )を行い、武士が百姓になり、百姓が商人・職人になることを( )で禁じた。
外交
・秀吉は海上支配と堺・博多・長崎の豪商らと貿易の拡大と日本を中心とする朝貢貿易圏を築くため、大友純忠が長崎をイエズス会に寄進すると知り、( )を出し宣教師を追放し、大名のキリスト教入信を許可制にした。
・また、サン・フェリペ号事件を機に、スペインの信者・宣教師を長崎で処刑し殉教者を( ) という。
・秀吉はポルトガル・スペイン・台湾などに朝貢を求め、朝鮮が秀吉の要求を拒否したため、肥前名護屋を拠点に二度の朝鮮侵略に大軍を派遣した。これを、( )という。
・朝鮮では加藤清正や小西行長らが進軍を進め、拠点に( )を築き、朝鮮軍や明軍と戦うも、( ) の水軍などの抵抗で、休戦し交渉がまとまらず、再び進軍するも秀吉の死去により撤退した。
確認問題
問1,織田信長と豊臣秀吉について、次の年表を完成させてください。
人物 | 出来事 |
織田信長 | 1560、( )で今川義元を破る 1568、将軍足利義昭を擁立 1570、姉川の戦いで浅井と朝倉を破る 1571、延暦寺を焼打ち 1573、足利義昭を京都から追放⇒( )の滅亡 1575、( )で武田勝頼を破る 1576、安土城の築城 1577、安土城下を( )とする 1580、石山本願寺と和睦 1582、( )で打たれる |
豊臣秀吉 | 1582、山崎の合戦で明智光秀を破る 同年‐98、( )の開始 1583、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破る 同年―88、大坂城の築城 1584、小牧・長久手の戦いで( )と和睦 1585、( )に任じられる 同年、四国平定、九州に惣無事令を出す 1586、関東・奥羽に惣無事令、太政大臣に任じられる 1587、九州平定、( )を出し、宣教師の国外退去を命じる 1588、( )で農民から武器を没収 同年、海賊取締令、( )に後陽成天皇を迎える 1590、小田原攻め、奥州平定 1591、( )で身分を統制 1592、( )で朝鮮侵略 1597、慶長の役、秀吉の死により撤兵。 |
桃山文化についての問題
ポイントの整理
・桃山文化は宣教師による( )、豪商の力による壮大・豪華な特徴があり、建築では( )など天守を持つ城が建設され、彫刻では( )、絵画では濃絵(だみえ)や水墨画の影響で狩野派を中心に屏風や襖絵など( )が盛んだった。
・伏見城の遺構としては、( )があり、聚楽第の遺構には( )や( )がある。
・障壁画で活躍したのは、( )、( )、( )である。風俗画や南蛮屏風も描かれた。
・千利休は( )を完成させ、秀吉の保護をうけた。1587年( )を作り、秀吉をもてなした。武将にも( )のような茶人がいた。花道、香道もこの時に発達した。
・( )により阿国歌舞伎が始まり、( )もこのときから始まり、琉球から伝わった( )を使い、隆達節が流行った。結髪や食事が一日三食になった。
・宣教師( )により活版印刷が伝わり、朝鮮の職人もいた。また、『平家物語』、『日葡辞書』の( )が刊行された。
戦国時代・安土桃山時代の年表
問、次の年表を完成させてください。
指導者 | 政治・経済 | 文化 |
室町幕府 | 1510、三浦の乱(朝鮮) 1523、寧波の乱(勘合貿易は大内氏が独占) 1532、京都で( ) 1536、天文法華の乱 1543、( )が伝来 1549、ザビエルが来日 1551、大内氏が滅び、勘合貿易が終了 1560、( )で織田が勝利 同じころ、中国人の( )がさかん 1561、川中島の戦い 1565、松永久秀が将軍を暗殺 1568、信長、足利義昭を将軍に | 15世紀中ごろ、( )が伝来 1569、信長が( )にキリスト教布教を許可 |
織田信長 | 1570、姉川の戦い、石山戦争 1571、信長、比叡山焼打ち 1573、信長が義昭を追放 1575、( )武田氏が敗北 1576、( )が完成 1580、信長と本願寺が和解 1582、( )で信長が死す | |
豊臣秀吉 | 1582、山崎の合戦で明智が滅ぶ 同年‐98、( )の開始 1583、賤ケ岳で柴田勝家を滅ぼす 同年―88、( )を築城 1584、小牧・長久手の戦いで(① ) と和睦 同年、( )人が平戸に来航 1585、秀吉が( )に任命、四国平定 1586、秀吉が太政大臣になり、豊臣を名乗る 1587、九州平定、( )を出す 1588、( )令、海賊取締令 1590、小田原を平定、①を関東に移封 1590、奥州平定 1592、( ):朝鮮に侵攻 1596、サンフェリペ号事件で26人が殉教 1597、慶長の役 1598、秀吉が死去 | 1582、(② )がローマに派遣 1587、( )が完成 1590、②が帰国し、活版印刷機を伝える 16世紀末、朝鮮より活版印刷と製陶法が伝わる |
戦国時代・安土桃山時代の解答
戦国大名についての解答
ポイントの整理
・応仁の乱のころ、各地方では(守護代)や(国人)が実権をにぎり、国人だけでなく地域住民も広く組み込んだ(国一揆)が組織された。
・1485年(山城の国一揆)は、畠山氏の争乱から秩序を守るため、8年間にわたり住民自治を行った。この時から、実力で下の者たちが実力で上の勢力を退ける(下剋上)の風潮が広まった。
・応仁の乱の頃、(蓮如)は、阿弥陀仏の教えを信じれば誰でも極楽往生できると平易な(御文)で説き、惣村に講という組織を増やし、近畿・東海・北陸に広まり、1488年(加賀の一向一揆)により守護の富樫政親を追い出し、信長に制圧されるまで、一世紀の間統治した。
・応仁の乱後、幕府の実権は管領の(細川氏)が握ったが、三好長慶、松永久秀と交代した。
・この頃、各地方でみずからの力で領国を築き治めた大名を(戦国大名)という。
・関東は(享徳の乱)後、鎌倉公方は堀越公方と古河公方とに、上杉氏も両分して争っていたところ、京都の伊勢宗瑞こと(北条早雲)が関東を支配し、秀吉に滅ぼされるまでその勢力が続いた。
・越後では守護代の長尾氏が支配権を奪い、(上杉謙信)と名乗り、甲斐の(武田信玄)と川中島などで交戦した。
・中国地方は有力守護の大内氏が重臣の(陶晴賢)に領地を奪われ、その後安芸の国人(毛利元就)がおこり、山陰の尼子氏と交戦した。
・四国では土佐を統一した(長曾我部氏)が北上し、九州では豊後の(大友氏)、薩摩の(島津氏)が優勢で、東北では国人の争いから(伊達氏)が有力大名に成長した。
・戦国大名は領国内の平和を維持するため(①分国法)を定め、民間人どうしの私闘を禁じ、もめごとを大名の裁判で解決させるため(喧嘩両成敗)を定めた。①の例には、伊達氏の(塵芥集)、今川氏の(今川仮名目録)がある。
・大名と家臣の関係は(軍役)に応じて銭で収入を払う(貫高制)を敷き、新たに地侍が家臣団に入った場合、有力な家臣に預ける形で組織化し、これを(寄親・寄子制)という。これにより、戦国大名は集団戦法が可能になった。
・新たに征服した土地では、家臣に農地の収穫量や面積を自己申告させる(差出検地)を行い、年貢は(銭)に換算され、年貢量に応じて家臣の軍役や農民の夫役が決定した。
・戦に備えて、物資や武器を調達するため(城下町)に商工業者を住まわせ、政治・経済・文化の中心になった。
・製錬技術の発達により、鉱山開発が進み、甲斐・駿河の金山、(石見)・但馬の銀山の開発にも力を入れた。
・戦国時代には富裕な商工業者による自治都市が生まれ、有名なのが(堺)と(博多)である。また、京都では富裕な商工業者の(②町衆)が中心に自治をはかり(町法)を定め、(月行事)という代表者によって運営された。こうした②が(祇園祭)を再興した。
確認問題
問1、主な戦国大名の出自について、次の表を完成させてください。
出自 | 人物 |
守護大名 | ・甲斐の(武田氏)、周防の(大友氏)、薩摩の(島津氏) |
守護代 | ・越前の(朝倉氏)、尾張の織田氏、越後の長尾氏、 |
国人など | ・伊豆の(北条早雲)、近江のあざい氏、安芸の(毛利元就)、など |
問2、戦国時代のおもな都市について、次の表を完成させてください。
種類 | 代表例 |
城下町 | 大内氏の(山口)、朝倉氏の(一乗谷)、北条氏の小田原 |
門前町 | 伊勢神宮の(宇治山田)、延暦寺の坂本、 |
寺内町 | 摂津の(石山)、河内のとんだばやし、 |
港町 | 薩摩の坊津、越前の敦賀(つるが)、 |
自治都市 | (堺)、(博多)、(京都)、 |
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ヨーロッパ人の来航についての解答
ポイントの整理
・16世紀から、ヨーロッパ諸国がムスリム商人を介さずに世界各地と貿易したり、キリスト教の布教したりするようになった時代を(大航海時代)という。
・15世紀ごろ既に東アジアでは(琉球王国)の中継貿易がさかんに行われ、明が(解禁政策)をとったことにより、中国人の(倭寇)が私貿易を行い、ヨーロッパ諸国はこれに参加した。
・マカオに拠点を置いたのは(ポルトガル)で、マニラに拠点を置いたのは(スペイン)である。アンボイナ事件よりインドネシアのジャワ島に拠点を置いたのは(オランダ)である。
・(種子島)に中国人の倭寇船に乗った(ポルトガル)人が1543年に(鉄砲)を伝え、九州各地で貿易が始まった。
・1549年イエズス会の(フランシスコ=ザビエル)が(鹿児島)にキリスト教(カトリック)を伝えた。
・南蛮貿易には日本の(銀)が輸出され、宣教師の布教活動と一緒に行われた。主な寄港地は(平戸)で、宣教師は教会堂に(南蛮寺)を建て、宣教師養成学校に(コレジオ)を創設し、これらの貿易・布教活動を保護した(キリシタン大名)に、(①大友義鎮)などがいた。
・1582年に宣教師の(ヴァリニャーニ)の勧めで、①らは(天正遣欧使節)をローマ教皇のもとに派遣した。
確認問題
問1,宣教師の活動について、次の表を完成させてください。
宣教師 | 活動内容 |
フランシスコ=ザビエル | 1549、鹿児島に到着し、1551まで日本で布教した |
ガスパル=ヴィレラ | 室町幕府の許可を得て、布教した |
ルイス=フロイス | 信長・秀吉の保護を受け、『日本史』を執筆 |
ヴァリニャーニ | 大村純忠、有馬晴信、大友義鎮3人のキリシタン大名を説得して、 (天正遣欧使節)を派遣。 |
織豊政権についての解答
ポイントの整理
・尾張の守護代だった(織田信長)は1567年岐阜の斎藤氏を滅ぼし、(天下布武)の印判で全国統一の意思を示した。
・翌年、京都に入り(足利義昭)を将軍職に付けたが、1573年に追放し室町幕府を滅ぼした。
・(延暦寺)の焼き打ちだけでなく、顕如らの(①石山本願寺)と約11年間戦って屈服させた。
・1575年(長篠合戦)では武田軍に勝利した。
・1576年近江に(安土城)を築きその城下に家臣団を住まわせ、商工業者に自由な商売を許可し税負担も免除する(楽市令)を出した。
・しかし家臣の明智光秀に(本能寺の変)で襲撃された。
・秀吉は明智光秀を(山崎の合戦)で破り、柴田勝家を滅ぼし、(徳川家康)も服従させ、信長の後継者としての地位を確立した。
・秀吉は信長と異なり伝統的権威を利用して、朝廷から(関白)に任じられ四国平定後、(惣無事令)を出し、京都に(聚楽第)を作り後陽成天皇を歓待したとき、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。
・その後、(小田原攻め)で北条氏政を滅ぼし、東北の(伊達政宗)ら諸大名を服従させた。
・秀吉は①跡に大坂城を築き、京都・堺・博多など豪商の経済力を利用し、堺の(千利休)もその一人である。
・秀吉は全国に莫大な(蔵入地)だけでなく、石見、生野などの鉱山を直轄し、(天正大判)を鋳造し、大きな経済基盤になった。
・晩年に政治体制を整え始め、腹心の(石田三成)らに政務を分担させる(五奉行)と、重要政務を合議する(五大老)を整えた。
・太閤検地にあたって、自己申告の指出検地から、直接国守や秀吉の領国を調べるため、(京枡)を容積を量るのに使い、面積の単位を統一して、農地の面積、収穫量に応じて(石高)を定め、農民は農地の所有を認められた代わりに年貢を負担する(一地一作人)とし、1591年に全国の大名に(検地帳)と(国絵図)の作成を命じた。
・秀吉は武士と百姓の分離を行うため、反抗や一揆の対策として(刀狩)を行い、武士が百姓になり、百姓が商人・職人になることを(人掃令)で禁じた。
外交
・秀吉は海上支配と堺・博多・長崎の豪商らと貿易の拡大と日本を中心とする朝貢貿易圏を築くため、大友純忠が長崎をイエズス会に寄進すると知り、(バテレン追放令)を出し宣教師を追放し、大名のキリスト教入信を許可制にした。
・また、サン・フェリペ号事件を機に、スペインの信者・宣教師を長崎で処刑し殉教者を(26聖人殉教) という。
・秀吉はポルトガル・スペイン・台湾などに朝貢を求め、朝鮮が秀吉の要求を拒否したため、肥前名護屋を拠点に二度の朝鮮侵略に大軍を派遣した。これを、(文禄の役・慶長の役)という。
・朝鮮では加藤清正や小西行長らが進軍を進め、拠点に(倭城)を築き、朝鮮軍や明軍と戦うも、(李舜臣) の水軍などの抵抗で、休戦し交渉がまとまらず、再び進軍するも秀吉の死去により撤退した。
確認問題
問1,織田信長と豊臣秀吉について、次の年表を完成させてください。
人物 | 出来事 |
織田信長 | 1560、(桶狭間の戦い)で今川義元を破る 1568、将軍足利義昭を擁立 1570、姉川の戦いで浅井と朝倉を破る 1571、延暦寺を焼打ち 1573、足利義昭を京都から追放⇒(室町幕府)の滅亡 1575、(長篠合戦)で武田勝頼を破る 1576、安土城の築城 1577、安土城下を(楽市)とする 1580、石山本願寺と和睦 1582、(本能寺の変)で打たれる |
豊臣秀吉 | 1582、山崎の合戦で明智光秀を破る 同年‐98、(太閤検地)の開始 1583、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破る 同年―88、大坂城の築城 1584、小牧・長久手の戦いで(徳川家康)と和睦 1585、(関白)に任じられる 同年、四国平定、九州に惣無事令を出す 1586、関東・奥羽に惣無事令、太政大臣に任じられる 1587、九州平定、(バテレン追放令)を出し、宣教師の国外退去を命じる 1588、(刀狩令)で農民から武器を没収 同年、海賊取締令、(聚楽第)に後陽成天皇を迎える 1590、小田原攻め、奥州平定 1591、(人掃令)で身分を統制 1592、(文禄の役)で朝鮮侵略 1597、慶長の役、秀吉の死により撤兵。 |
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桃山文化についての解答
ポイントの整理
・桃山文化は宣教師による(南蛮文化)、豪商の力による壮大・豪華な特徴があり、建築では(安土城)など天守を持つ城が建設され、彫刻では(欄間)、絵画では濃絵(だみえ)や水墨画の影響で狩野派を中心に屏風や襖絵など(障壁画)が盛んだった。
・伏見城の遺構としては、(都久夫須磨神社本殿)があり、聚楽第の遺構には(大徳寺唐門)や(西本願寺飛雲閣)がある。
・障壁画で活躍したのは、(狩野永徳)、(狩野山楽)、(長谷川等伯)である。風俗画や南蛮屏風も描かれた。
・千利休は(茶道)を完成させ、秀吉の保護をうけた。1587年(妙喜庵茶室)を作り、秀吉をもてなした。武将にも(古田織部)のような茶人がいた。花道、香道もこの時に発達した。
・(出雲阿国)により阿国歌舞伎が始まり、(人形浄瑠璃)もこのときから始まり、琉球から伝わった(三味線)を使い、隆達節が流行った。結髪や食事が一日三食になった。
・宣教師(ヴァリニャーニ)により活版印刷が伝わり、朝鮮の職人もいた。また、『平家物語』、『日葡辞書』の(キリシタン版)が刊行された。
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