高校日本史、明治時代の練習問題を用意しました。
1890年条約改正(明治前半)までの内容について、語句穴埋め、年表問題で基本的な内容を復習できます。
定期テスト対策、先取り学習、受験対策など、ご自由に活用してください。
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日清・日露戦争(明治後半)は、こちらをご覧ください。
明治時代の練習問題
歴史は暗記科目ではない!
歴史は難しい言葉を暗記する科目ではありません。
暗記よりも大事なのは、教科書の内容を説明できるか、です。
時間軸で事件の背景、発端、経過、結果、の順序で整理してください。
おすすめの順序は、こちらです。
- 教科書・資料集を見ながら問題を解く
- 文章を音読する
- 年表問題を解く
- もう一度、覚えるつもりで問題を解く
明治維新の練習問題
ポイントの整理
明治維新の成立
・新政府は戊辰戦争と並行して、( )で幕府に代わる新政権として基本方針を内外に示す一方、
( )では民衆に対してキリスト教の禁止など示し、旧来の幕府の政策を維持した。
・( )により太政官への権力集中と、府藩県の三治制を定めた。明治に改元した際、天皇権威の高揚を図るため、( )を定め、首都を東京に移した。
廃藩置県
・政府は中央集権を目標に、まず諸大名に土地と人民を返還させる( )を行い、旧大名は知藩事に任命され、実質は旧藩政とほぼ変わらなかった。
・政府側は薩摩・長州・土佐から軍隊を集め、( )を組織したのち、1871年( )を断行した。旧大名は東京移住が義務付けられ、公家とあわせて( )となった。
・大名の代わりに中央から( )・( )を派遣して、地方行政を行った。
軍制改革
・軍制度は( )が構想し、( )が引き継いだ。
・廃藩置県にともない藩兵は解散し、兵部省のもと各地に( )を置き一揆や反乱の鎮圧にあたらせた。
・翌年、( )において国民皆兵の理念をかかげ、1873年( )で満20歳の男子に兵役が課されたが、当初は免除の規定があった。
四民平等
・江戸時代の身分制度は廃止され、公家・大名は華族、藩士・幕臣は( )、百姓・町人は( )と改められ、( )を名乗ること、結婚・転居・( )の自由が公的に認められた。四民平等に基づき1871年戸籍法が制定され、翌年( )が作成された。
・華族・士族への( )は政府の負担となったため、1873年( )を定め、1976年に金禄公債証書を渡し( )に踏み切った。
・士族は( )とあわせてすべての権限を失い、没落する者が多かったため、政府は北海道の開拓・警備の( )制など士族授産を行った。
地租改正
・政府は税収安定のため、作付け制限の撤廃、田畑永代売買の禁止令を解き、( )を発行して土地所有権を明確にした。1873年( )を交付し、地価の税率3%を金納することに改めた。しかし、収入と関係なく課税されたため、小作農への没落が急増し、( )が多発した。
確認問題
問1,地租改正により、民衆の税負担の方法はどのように変化したか。課税基準、税率、納税方法の観点で説明せよ。
問2,1873年までに行った改革のうち、ポイントの整理で触れられていないものは何か。
問3,明治政府は薩摩・長州の下級武士出身者が長期間実権を握った。彼らを中心とする政権は、のちに何と呼ばれたか。
明治初期外交の練習問題
ポイントの整理
岩倉使節団
・新政府は幕府から引き継いだ( )の改正をするため、1871年( )を大使とする使節団を欧米に派遣したが、交渉に失敗し、欧米諸国を視察して帰国した。
・この使節団とともに派遣された留学生には、のちに女子英学塾を設立した( )や、ルソーの『社会契約論』を紹介した( )らがいた。
千島・小笠原
・幕末以来ロシアと懸案になっていた(① )の帰属について、1875年( )が結ばれた。日本は①から撤退したが、( )の領有を宣言した。
・また伊豆諸島の南東、( )については幕府が領有を確認したが、欧米系住民も定住していた。1876年新政府が領有を宣言し、アメリカ・イギリスから異論がなく、内務省の管轄とした。
清国・琉球
・清国とは、1871年( )を締結し、双方に開港と領事裁判権を認めた。しかし、( )は清国に朝貢をし薩摩藩の支配下にあったため、清国と帰属をめぐって対立した。
・琉球漂流民殺害事件を背景に、1874年( )に踏み切り、清が日本の主張を認めたことにより、1879年( )を敢行した。
朝鮮
・朝鮮は朱子学による統治を堅持し、欧米の接近を拒否し続けたので、西洋の模倣をする日本との条約締結も拒否した。1873年留守政府の( )・( )らは武力で朝鮮に開国を迫る( )を唱えたが、岩倉使節団に加わった( )らが内治優先を唱えたため、西郷らが政府を退いた。
・しかし、1875年( )で日朝の武力衝突が起こり、翌年( )で朝鮮にプサンなどの開港を含む不平等条約を強いた。
征韓論、琉球王国、琉球処分、不平等条約、
確認問題
問1、岩倉使節団に加わった人物を次の中から3人選択せよ。
板垣退助、大久保利通、伊藤博文、大隈重信、井上馨、木戸孝允、江藤新平、
問2、征韓論による対立から、西郷隆盛らが政府を去った事件を何と言うか。
問3,日本が外国と結んだ最初の対等な条約は何か。
士族反乱の練習問題
ポイントの整理
・征韓論で敗れた西郷、板垣らが政府を去った後、藩閥専制への反抗として板垣らは( )を政府に出し、江藤新平を中心に不平士族があつまり( )が起きた。
・廃刀令と秩禄処分をきっかけに熊本で( )がおき、同年には福岡や山口でも不平士族の反乱がおき、西郷を中心とした( )は最大のもので半年に及んだ。
・農民一揆も生活の負担に直結するところでおき、1873年の( )などを理由に( )が起き、1876年( )が全国で起こった。
確認問題
問1,士族の反乱が起きた場所と、名称について答えよ。
1874年 | 佐賀県 | |
1876年 | 熊本県 | |
福岡県 | ||
山口県 | ||
1877年 | 鹿児島県 |
殖産興業と松方財政の練習問題
ポイントの整理
殖産興業
・新政府は富国強兵のため、( )の指導で官営事業を始め、殖産興業を進めた。1870年に設立された( )では旧幕府の鉱山や造船所を接収し、新橋-( )間など鉄道敷設を行った。
・通信は( )の建議で、飛脚に代わる郵便制度が整えられた。さらに1869年から( )の架設が始まり、日本全国だけでなく海底ケーブルで長崎ー上海間まで繋がったことで、欧米との通信が可能になった。
・海運業では( )の三菱が政府から手厚い保護を受け、三井・古河などと並ぶ政商と呼ばれ、優良鉱山や工場など官営事業の払い下げにより複数の事業を展開し、のちに( )へと発展した。
・政府は輸出の中心だった( )の生産を増やすため、1872年群馬県に( )を設け、フランスの先進技術を導入し、普及をはかった。
・1873年に設立された( )も製糸・紡績など官営模範工場を経営し、1877年第1回( )を開催した。農業について、( )を開設して、西洋技術の導入を図った。
北海道
・蝦夷地は1869年に北海道と改称し、( )が設置され、アメリカ式の大農場制度の移植をはかった。
・北海道の開拓は、( )の目的もあって1874年( )を始めた。平民による開拓は1890年に始まり、農業開拓を目的とした。
・1876年クラークを教頭にまねき( )が設立され、近代農業を広める拠点になった。
貨幣
・新政府は財政難を背景に( )などの不換紙幣を乱発し、貨幣価値が混乱した。1871年( )により通貨単位を円・銭・厘と定め、( )を発行した。翌年( )が中心となり、紙幣と金銀との交換ができる民間銀行の設立をめざし、( )を定めた。しかし、銀行の設立が進まず、1876年には兌換義務(紙幣と金銀の交換)を廃止した。
松方財政
・西南戦争の戦費調達する目的で政府が大量の不換紙幣を発行し、民間の国立銀行券が乱発されたため、紙幣の価値が大幅にさがり、政府は財政難に陥った。
・大蔵卿( )は対処できず、明治14年の政変で政府を去った後、1881年(① )がデフレ政策に踏み切った。①は増税で歳入を増やす一方、軍事費以外の歳出を徹底的に節約して、緊縮財政によってあまった不換紙幣を処分した。
・発券銀行を( )に統一し、1885年に( )を実現し、さらに1881年に設立した( )省が、1884年から官営事業払い下げを進めた結果、政府の財政は安定した。
・しかしその影響で農民の収入に関わる( )・( )の価格が下落し、その負担で( )への転落が目立った。
日本銀行、第一国立銀行、国立銀行条例、繭、米、太政官札、貿易銀、松方正義、屯田兵、農商務省、
札幌農学校、駒場農学校、富岡製糸場、生糸、岩崎弥太郎、お雇い外国人、内国勧業博覧会、士族授産、
財閥、開拓使、
確認問題
問1、官営模範工場はどのような目的で、設置されたか。
問2、1873年に設置された内務省の初代長官は、岩倉使節団に加わり、内治優先を主張して西郷隆盛らと対立した人物である。この人物はだれか。
問3,インフレーションとは、紙幣の価値と物の価値がどのように変化する現象か、説明せよ。
問4,松方正義がすすめたデフレーションとは、紙幣の価値と物の価値がどのように変化する現象か、説明せよ。
問5,松方財政の結果、埼玉県の困民党と称する農民が蜂起した事件を何と言うか。
問6,松方財政の結果、大地主は耕作から離れて、小作料収入に依存し、企業を起こしたり、公債・株式に投資した。このような地主を何と言うか。
松方財政については、マンガで解説します。
自由民権運動の練習問題
ポイントの整理
漸次立憲の約束
・板垣退助は民撰議院設立の建白書で政府が藩閥専制であることを批判し、片岡健吉・植木枝盛とともに( )を結成した。翌年には全国組織の( )が結成された。
・これに対し政府は、大久保・木戸・板垣の三者が大阪で会談し、その結果、( )が出され、立法機関の元老院、司法機関の( )を設置し、時間をかけて立憲制に移ることを約束した。しかし一方で、( ・ )を出し、政府批判を統制した。
西南戦争後
・西南戦争の後、地方議会など定めた( )が制定され、( ・ )が全国で開かれ、運動が豪農層にも広まった。
・1877年片岡らが国会開設を要求する( )を政府に提出しようとした。1880年には( )が結成され、国会開設の請願書を政府に提出した。
・これに対して政府は、( )で政治結社の運動を規制した。
・民間では交詢社や植木枝盛などが( )を作った。
明治十四年の政変と党派の結成
・政府内ではイギリス流の国会の早期開設を主張する(① )と時間をかけて日本になじむ国会を作るべきと主張する( )が対立した。( )で黒田清隆の責任が追及されたとき、①が世論に同調して政府攻撃したため、政府を去った。
・1881年政府は沈静化をはかるため、( )を出し、憲法は天皇が定める欽定憲法であること、国会を開設することを約束した。
・①はイギリス流の議院内閣制をめざし、( )を結成し、都市実業家と知識人を支持層とした。一方、板垣らの(② )はフランス流の自由主義をとなえ地方農村から支持を得た。
松方財政の影響
・松方財政は農村不況を生み、運動から離れる豪農もいた。1882年県令( )の圧迫に耐えかねた民衆の反発に自由党員が直接行動した( )が起きた。1884年には困民党と称する農民が蜂起する( )が起きた。この間に②は解散し、運動は一時停滞した。
・国会開設をひかえ( )らは、( )をとなえて民権運動が再興をはかり、( )外相の条約交渉失敗を契機に、三大事件建白運動が起きた。
・これに対して、第一次伊藤内閣は( )で民権派を東京から追放した。
確認問題
問1,次の出来事について、年代順に並び替えよ。
三大事件建白運動、国会開設の勅諭、自由党の結成、福島事件、集会条例、
問2,立憲改進党はどの国のどのような政治体制を主張したか、説明せよ。
憲法制定の練習問題
ポイントの整理
憲法調査
・1881年( )で1890年の国会開設を約束してから、憲法制定の準備にかかった。(① )は憲法調査のため欧米に留学し、( )を参考にウイーン大のシュタインら法学者に学んだ。
諸制度の整備
・帰国後、1884年( )を定め貴族院の基礎をつくり、1885年太政官制にかわり( )を定め、各国務大臣は天皇に責任を負うが、政府と宮中を明確に分けた。
・地方議会はモッセの助言のもと( )が中心に整備し、1888年市制・町村制、1890年府県制・郡制を定めた。
・憲法の起草は、1886年ごろから①を中心に井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治らで進められた。1888年天皇の諮問機関として( )を設け、天皇臨席のもと憲法草案の審議がされた。
憲法の内容
・大日本帝国憲法において、天皇は大きな権限を持ち、内閣から独立した陸海軍の( )を持ち、内閣の輔弼(助け)により、条約締結、宣戦・講和などを行使できた。
・帝国議会は、華族と勅選議員で構成される( )と、選挙で選出された議員で構成される( )の二院制をとった。議会はさまざまな制限があったが、予算・法律の制定に力を持った。
・当初、選挙権は( )歳以上の男子で、直接国税( )円以上の者に限られた。国民の権利は( )で認められた。
・( )により、皇位継承、摂政の制などが定められた。
・諸法典はフランス人顧問( )の助言をもとに刑法・治罪法など制定されたが、穂積八束(ほづみやつか)など法学者が( )について批判したことから、延期修正され1899年に施行した。
確認問題
問1,大日本帝国憲法が発布されたとき、内閣総理大臣はだれか。ヒントは開拓使官有物払い下げ事件で批判を受けた薩摩出身の人物。
初期議会・条約改正の練習問題
ポイントの整理
初期議会
・政府は政党に左右されない( )を表明したのに対し、初期議会では( )・( )の民党が衆議院の多数を占めた結果、政府と対立し解散と選挙を繰り返した。
・首相の( )は軍備増強を説いたが、民党は民力休養・政費節減を主張して反対した。
・第二次( )内閣は薩長の藩閥がほとんどを占める元勲総出の内閣で、対清の軍艦製造のため天皇の証書を利用して議会を説得した。その後、( )が政府に協力した一方、( )は条約改正問題で対外強硬論を形成した。
条約改正
・不平等条約の改正交渉は、( )が社交場の( )などの欧化主義を取り入れてすすめ、外国人判事の採用など条件がつきでまとまりかけたが、1886年( )をきっかけに民権派の( )がおこり、政府内でもボアソナードや谷干城が反対し中止した。その後、( )の交渉も失敗した。
・その次、青木周蔵外相が交渉を進めた最中、(① )の進出に警戒した(② )が日本に好意的な立場を示し、日清戦争前に( )外相によって②との領事裁判権の撤廃に成功した。
・関税自主権は、( )外相が日露戦争後に日米通商航海条約を結び、回復した。
確認問題
問1、品川弥次郎内相が選挙干渉をしたのは、どの内閣の時か選択せよ。
ア、黒田清隆内閣 イ、第1次山県有朋内閣 ウ、第1次松方正義内閣 エ、第2次伊藤博文内閣
問2,司法権の独立を示すきっかけとなった大津事件が起きたときの外務大臣を選択せよ。
ア、井上馨 イ、大隈重信 ウ、青木周蔵 エ、榎本武揚 オ、陸奥宗光 カ、小村寿太郎
明治時代の年表問題
明治前半の年表
・近代化政策と抵抗
年月 | 新政府の政策 | 抵抗 |
1868年3月 閏4月 9月 | 五箇条の誓文・五榜の掲示を発表 政体書 明治改元・一世一元の制 | 1月 鳥羽・伏見の戦い →(① ) 4月 江戸城開城 |
1869年3月 6月 7月 | 東京遷都 版籍奉還を実施 ( )を設置・兵部省を設置 | 5月 五稜郭の戦い→①終結 |
1871年2月 4月 7月8月 | 薩・長・土より( )を徴集 戸籍法を公布→( )へ ( )を敢行 太政官三院制 全国に鎮台を設置、解放令、散髪断刀令 | |
1872年2月 8月 | 壬申戸籍を作成 陸軍省・海軍省を設置 ( )を公布 徴兵告諭を公布 | |
1873年1月 3月 10月 11月 12月 | ( )を公布→ ( )で地価3%が国税 ( )が起きる 内務省を設置 秩禄奉還の法 | 各地で( )が起こる |
1874年6月 | ( )制度を始める | 2月( )江藤新平ら |
1876年3月 8月 | ( ) 金禄公債証書発行条例→( ) | 11~12月( )が発生 10月( ):熊本 秋月の乱:福岡 萩の乱:山口 |
1877年 | ( ):鹿児島 |
開拓使、血税一揆、西南戦争、戊辰戦争、地租改正反対一揆、四民平等、廃藩置県、
・殖産興業と松方財政
年 | 経済政策 | その他の事件 |
1868年 1869年 | 太政官札発行 開拓使を設置、東京・横浜間に電信線開通 民部省札発行 | 戊辰戦争 |
1870年 | ( )設置 | |
1871年 | 前島密の建言で( )制度開始 ( )を公布→通貨単位が円に | |
1872年 | 新橋・横浜間の( )開通 ( )を公布 群馬県に( )を開業 | |
1873年 | ( )を設置 | |
1874年 | 北海道で( )制度 | |
1876年 | 国立銀行条例を改正→不換紙幣乱発 | |
1877年 | 第1回( )を開催 | ( ) →政府が不換紙幣を乱発 |
1880年 | 工場払下げ概則を制定 | |
1881年 | 農商務省を設置 ( )が大蔵卿に就任する ・( )の処分 ・( )を進める | |
1882年 | ( )を設立 | |
1884年 | 工場払下げ概則を廃止 松方デフレで不況になる | |
1885年 | 兌換紙幣の発行で( )の開始 |
国立銀行条例、渋沢栄一、松方正義、金本位制、銀本位制、内国勧業博覧会、万国博覧会、
・自由民権運動と条約改正
年 | 政府の動き | 民権派の動き |
1873年 | 明治六年の政変で、征韓論派が去る | |
1874年 | 民撰議院設立の建白書を左院へ 立志社の設立 | |
1875年 | 大阪会議(大久保・木戸・板垣の会談) ( ) 讒謗律・新聞条例を公布 | 大阪で( )を結成 |
1876年 | 各地で地租改正反対一揆 | |
1877年 | 西南戦争 | |
1878年 | ( )の制定:府県会規則・郡町村編成法・地方税規則 | |
1880年 | ( )を公布→ 刑法・治罪法の制定 | ( )の結成 |
1881年 | 開拓使官有物払い下げ事件 明治十四年の政変 ( )で約束 松方財政の開始 | 板垣退助の(① )を結成 私擬憲法づくり |
1882年 | ( )が欧米で調査 | 大隈重信の(② )を結成 ( )が発生 |
1884年 | ( )の制定→貴族院の準備 | 秩父事件が発生 ①が解散 |
1885年 | 内閣制度が発足 | |
1886年 | 憲法草案を起草 ( )が起きる | 大同団結を提唱 |
1887年 | ( )を公布→ | ( )で政府批判 |
1888年 | 市制・町村制 枢密院の設置 | |
1889年 | ( )を発布 皇室典範の制定 衆議院議員選挙法を公布 政府は( )を主張 | 玄洋社員が大隈重信を襲撃 |
1890年 | 府県制・郡制を公布 山県首相は軍事費拡大を要求 民法・商法・刑事訴訟法を公布 民法・商法は施行延期 | 第1回総選挙で(③ )が過半数 →( )政費節減で反発 |
1891年 | ( )が起きる | |
1892年 | 第2回総選挙、品川弥次郎が選挙干渉 | →③が優勢 |
1893年 | 政府と①が接近 対外強硬派連合:②を中心に条約改正問題を攻撃 | |
1894年 | 日英通商航海条約を調印→治外法権を回復 日清戦争 |
明治時代の解答
明治維新の解答
ポイントの整理
明治維新の成立
・新政府は戊辰戦争と並行して、(五箇条の誓文)で幕府に代わる新政権として基本方針を内外に示す一方、
(五榜の掲示)では民衆に対してキリスト教の禁止など示し、旧来の幕府の政策を維持した。
・(政体書)により太政官への権力集中と、府藩県の三治制を定めた。明治に改元した際、天皇権威の高揚を図るため、(一世一元の制)を定め、首都を東京に移した。
廃藩置県
・政府は中央集権を目標に、まず諸大名に土地と人民を返還させる(版籍奉還)を行い、旧大名は知藩事に任命され、実質は旧藩政とほぼ変わらなかった。
・政府側は薩摩・長州・土佐から軍隊を集め、(御親兵)を組織したのち、1871年(廃藩置県)を断行した。旧大名は東京移住が義務付けられ、公家とあわせて(華族)となった。
・大名の代わりに中央から(府知事)・(県令)を派遣して、地方行政を行った。
軍制改革
・軍制度は(大村益次郎)が構想し、(山県有朋)が引き継いだ。
・廃藩置県にともない藩兵は解散し、兵部省のもと各地に(鎮台)を置き一揆や反乱の鎮圧にあたらせた。
・翌年、(徴兵告諭)において国民皆兵の理念をかかげ、1873年(徴兵令)で満20歳の男子に兵役が課されたが、当初は免除の規定があった。
四民平等
・江戸時代の身分制度は廃止され、公家・大名は華族、藩士・幕臣は(士族)、百姓・町人は(平民)と改められ、(苗字)を名乗ること、結婚・転居・(職業選択)の自由が公的に認められた。四民平等に基づき1871年戸籍法が制定され、翌年(壬申戸籍)が作成された。
・華族・士族への(秩禄)は政府の負担となったため、1873年(秩禄奉還の法)を定め、1976年に金禄公債証書を渡し(秩禄処分)に踏み切った。
・士族は(廃刀令)とあわせてすべての権限を失い、没落する者が多かったため、政府は北海道の開拓・警備の( 屯田兵)制など士族授産を行った。
地租改正
・政府は税収安定のため、作付け制限の撤廃、田畑永代売買の禁止令を解き、(地券)を発行して土地所有権を明確にした。1873年(地租改正条例)を交付し、地価の税率3%を金納することに改めた。しかし、収入と関係なく課税されたため、小作農への没落が急増し、(地租改正反対一揆)が多発した。
確認問題
問1,(例)課税基準は収穫量から地価に変わり、税率は豊作・不作にかかわらず地価の3%と一定で、納税は村単位の物納から個人単位の金納に変わった。
問2,学制
問3,藩閥政府
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明治初期外交の解答
ポイントの整理
岩倉使節団
・新政府は幕府から引き継いだ(不平等条約)の改正をするため、1871年(岩倉具視)を大使とする使節団を欧米に派遣したが、交渉に失敗し、欧米諸国を視察して帰国した。
・この使節団とともに派遣された留学生には、のちに女子英学塾を設立した(津田梅子)や、ルソーの『社会契約論』を紹介した(中江兆民)らがいた。
千島・小笠原
・幕末以来ロシアと懸案になっていた(①樺太)の帰属について、1875年(樺太・千島交換条約)が結ばれた。日本は①から撤退したが、(千島列島)の領有を宣言した。
・また伊豆諸島の南東、(小笠原諸島)については幕府が領有を確認したが、欧米系住民も定住していた。1876年新政府が領有を宣言し、アメリカ・イギリスから異論がなく、内務省の管轄とした。
清国・琉球
・清国とは、1871年(日清修好条規)を締結し、双方に開港と領事裁判権を認めた。しかし、(琉球王国)は清国に朝貢をし薩摩藩の支配下にあったため、清国と帰属をめぐって対立した。
・琉球漂流民殺害事件を背景に、1874年(台湾出兵)に踏み切り、清が日本の主張を認めたことにより、1879年(琉球処分)を敢行した。
朝鮮
・朝鮮は朱子学による統治を固持し、欧米の接近を拒否し続けたので、西洋の模倣をする日本との条約締結も拒否した。1873年留守政府の(西郷隆盛)・(板垣退助)らは武力で朝鮮に開国を迫る(征韓論)を唱えたが、岩倉使節団に加わった(大久保利通)らが内治優先を唱えたため、西郷らが政府を退いた。
・しかし、1875年(江華島事件)で日朝の武力衝突が起こり、翌年(日朝修好条規)で朝鮮にプサンなどの開港を含む不平等条約を強いた。
征韓論、琉球王国、琉球処分、不平等条約、
確認問題
問1、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允、
問2、明治六年の政変
問3,日清修好条規
一問一答だとすぐ忘れてしまう人におすすめ!
士族反乱の解答
ポイントの整理
・征韓論で敗れた西郷、板垣らが政府を去った後、藩閥専制への反抗として板垣らは(民撰議院設立の建白書)を政府に出し、江藤新平を中心に不平士族があつまり(佐賀の乱)が起きた。
・廃刀令と秩禄処分をきっかけに熊本で(敬神党の乱)がおき、同年には福岡や山口でも不平士族の反乱がおき、西郷を中心とした(西南戦争)は最大のもので半年に及んだ。
・農民一揆も生活の負担に直結するところでおき、1873年の(徴兵令)などを理由に(血税一揆)が起き、1876年(地租改正反対一揆)が全国で起こった。
確認問題
問1,士族の反乱が起きた場所と、名称について答えよ。
1874年 | 佐賀県 | 佐賀の乱 |
1876年 | 熊本県 | 敬神党の乱 |
福岡県 | 秋月の乱 | |
山口県 | 萩の乱 | |
1877年 | 鹿児島県 | 西南戦争 |
教科書レベルの問題集だから、アウトプットにおすすめ!
殖産興業と松方財政の解答
ポイントの整理
殖産興業
・新政府は富国強兵のため、(お雇い外国人)の指導で官営事業を始め、殖産興業を進めた。1870年に設立された(工部省)では旧幕府の鉱山や造船所を接収し、新橋-(横浜)間など鉄道敷設を行った。
・通信は(前島密)の建議で、飛脚に代わる郵便制度が整えられた。さらに1869年から(電信線)の架設が始まり、日本全国だけでなく海底ケーブルで長崎ー上海間まで繋がったことで、欧米との通信が可能になった。
・海運業では(岩崎弥太郎)の三菱が政府から手厚い保護を受け、三井・古河などと並ぶ政商と呼ばれ、優良鉱山や工場など官営事業の払い下げにより複数の事業を展開し、のちに(財閥)へと発展した。
・政府は輸出の中心だった(生糸)の生産を増やすため、1872年群馬県に(富岡製糸場)を設け、フランスの先進技術を導入し、普及をはかった。
・1873年に設立された(内務省)も製糸・紡績など官営模範工場を経営し、1877年第1回(内国勧業博覧会)を開催した。農業について、(駒場農学校)を開設して、西洋技術の導入を図った。
北海道
・蝦夷地は1869年に北海道と改称し、(開拓使)が設置され、アメリカ式の大農場制度の移植をはかった。
・北海道の開拓は、(士族授産)の目的もあって1874年(屯田兵)を始めた。平民による開拓は1890年に始まり、農業開拓を目的とした。
・1876年クラークを教頭にまねき(札幌農学校)が設立され、近代農業を広める拠点になった。
貨幣
・新政府は財政難を背景に(太政官札)などの不換紙幣を乱発し、貨幣価値が混乱した。1871年(新貨条例)により通貨単位を円・銭・厘と定め、(貿易銀)を発行した。翌年(渋沢栄一)が中心となり、紙幣と金銀との交換ができる民間銀行の設立をめざし、(国立銀行条例)を定めた。しかし、銀行の設立が進まず、1876年には兌換義務(紙幣と金銀の交換)を廃止した。
松方財政
・西南戦争の戦費調達する目的で政府が大量の不換紙幣を発行し、民間の国立銀行券が乱発されたため、紙幣の価値が大幅にさがり、政府は財政難に陥った。
・大蔵卿(大隈重信)は対処できず、明治14年の政変で政府を去った後、1881年(①松方正義)がデフレ政策に踏み切った。①は増税で歳入を増やす一方、軍事費以外の歳出を徹底的に節約して、緊縮財政によってあまった不換紙幣を処分した。
・発券銀行を(日本銀行)に統一し、1885年に(銀本位制)を実現し、さらに1881年に設立した(農商務)省が、1884年から官営事業払い下げを進めた結果、政府の財政は安定した。
・しかしその影響で農民の収入に関わる(米)・(繭)の価格が下落し、その負担で(小作農)への転落が目立った。
日本銀行、第一国立銀行、国立銀行条例、繭、米、太政官札、貿易銀、松方正義、屯田兵、農商務省、
札幌農学校、駒場農学校、富岡製糸場、生糸、岩崎弥太郎、お雇い外国人、内国勧業博覧会、士族授産、
財閥、開拓使、
確認問題
問1、先進技術の導入と民間への普及させるため。
問2、大久保利通
問3,紙幣の価値が下がり、物価が上昇する現象。
問4,紙幣の価値が上がり、物価が下がる現象。
問5,秩父事件
問6,寄生地主
松方財政は、こちらのマンガで解説しています。
自由民権運動の解答
ポイントの整理
漸次立憲の約束
・板垣退助は民撰議院設立の建白書で政府が藩閥専制であることを批判し、片岡健吉・植木枝盛とともに(立志社)を結成した。翌年には全国組織の(愛国社)が結成された。
・これに対し政府は、大久保・木戸・板垣の三者が大阪で会談し、その結果、(漸次立憲政体樹立の詔)が出され、立法機関の元老院、司法機関の(大心院)を設置し、時間をかけて立憲制に移ることを約束した。しかし一方で、(讒謗律・新聞条例)を出し、政府批判を統制した。
西南戦争後
・西南戦争の後、地方議会など定めた(地方三新法)が制定され、(府会・県会)が全国で開かれ、運動が豪農層にも広まった。
・1877年片岡らが国会開設を要求する(立志社建白)を政府に提出しようとした。1880年には(国会期成同盟)が結成され、国会開設の請願書を政府に提出した。
・これに対して政府は、(集会条例)で政治結社の運動を規制した。
・民間では交詢社や植木枝盛などが(私擬憲法)を作った。
明治十四年の政変と党派の結成
・政府内ではイギリス流の国会の早期開設を主張する(①大隈重信)と時間をかけて日本になじむ国会を作るべきと主張する(伊藤博文)が対立した。(開拓使官有物払い下げ事件)で黒田清隆の責任が追及されたとき、①が世論に同調して政府攻撃したため、政府を去った。
・1881年政府は沈静化をはかるため、(国会開設の勅諭)を出し、憲法は天皇が定める欽定憲法であること、国会を開設することを約束した。
・①はイギリス流の議院内閣制をめざし、(立憲改進党)を結成し、都市実業家と知識人を支持層とした。一方、板垣らの(②自由党)はフランス流の自由主義をとなえ地方農村から支持を得た。
松方財政の影響
・松方財政は農村不況を生み、運動から離れる豪農もいた。1882年県令(三島通庸)の圧迫に耐えかねた民衆の反発に自由党員が直接行動した(福島事件)が起きた。1884年には困民党と称する農民が蜂起する(秩父事件)が起きた。この間に②は解散し、運動は一時停滞した。
・国会開設をひかえ(後藤象二郎)らは、(大同団結)をとなえて民権運動が再興をはかり、(井上馨)外相の条約交渉失敗を契機に、三大事件建白運動が起きた。
・これに対して、第一次伊藤内閣は(保安条例)で民権派を東京から追放した。
確認問題
問1,集会条例(1880年)、国会開設の勅諭(1881年)、自由党の結成(1881年)、福島事件(1882年)、三大事件建白運動(1887年)、
問2,例:イギリス流の政府が議会に対して責任を負う議院内閣制を主張した。
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憲法制定の解答
ポイントの整理
憲法調査
・1881年(国会開設の勅諭)で1890年の国会開設を約束してから、憲法制定の準備にかかった。(①伊藤博文)は憲法調査のため欧米に留学し、(ドイツ(プロイセン))を参考にウイーン大のシュタインら法学者に学んだ。
諸制度の整備
・帰国後、1884年(華族令)を定め貴族院の基礎をつくり、1885年太政官制にかわり(内閣制度)を定め、各国務大臣は天皇に責任を負うが、政府と宮中を明確に分けた。
・地方議会はモッセの助言のもと(山県有朋)が中心に整備し、1888年市制・町村制、1890年府県制・郡制を定めた。
・憲法の起草は、1886年ごろから①を中心に井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治らで進められた。1888年天皇の諮問機関として(枢密院)を設け、天皇臨席のもと憲法草案の審議がされた。
憲法の内容
・大日本帝国憲法において、天皇は大きな権限を持ち、内閣から独立した陸海軍の(統帥権)を持ち、内閣の輔弼(助け)により、条約締結、宣戦・講和などを行使できた。
・帝国議会は、華族と勅選議員で構成される(貴族院)と、選挙で選出された議員で構成される(衆議院)の二院制をとった。議会はさまざまな制限があったが、予算・法律の制定に力を持った。
・当初、選挙権は(25)歳以上の男子で、直接国税(15)円以上の者に限られた。国民の権利は(法律の範囲内)で認められた。
・(皇室典範)により、皇位継承、摂政の制などが定められた。
・諸法典はフランス人顧問(ボアソナード)の助言をもとに刑法・治罪法など制定されたが、穂積八束(ほづみやつか)など法学者が(民法)について批判したことから、延期修正され1899年に施行した。
確認問題
問1,黒田清隆
初期議会・条約改正の解答
ポイントの整理
初期議会
・政府は政党に左右されない(超然主義)を表明したのに対し、初期議会では(自由党)・(立憲改進党)の民党が衆議院の多数を占めた結果、政府と対立し解散と選挙を繰り返した。
・首相の(山県有朋)は軍備増強を説いたが、民党は民力休養・政費節減を主張して反対した。
・第二次(伊藤博文)内閣は薩長の藩閥がほとんどを占める元勲総出の内閣で、対清の軍艦製造のため天皇の証書を利用して議会を説得した。その後、(自由党)が政府に協力した一方、(立憲改進党)は条約改正問題で対外強硬論を形成した。
条約改正
・不平等条約の改正交渉は、(井上馨)が社交場の(鹿鳴館)などの欧化主義を取り入れてすすめ、外国人判事の採用など条件がつきでまとまりかけたが、1886年(ノルマントン号事件)をきっかけに民権派の(三大事件建白運動)がおこり、政府内でもボアソナードや谷干城が反対し中止した。その後、(大隈重信)の交渉も失敗した。
・その次、青木周蔵外相が交渉を進めた最中、(①ロシア)の進出に警戒した(②イギリス)が日本に好意的な立場を示し、日清戦争前に(陸奥宗光)外相によって②との領事裁判権の撤廃に成功した。
・関税自主権は、(小村寿太郎)外相が日露戦争後に日米通商航海条約を結び、回復した。
確認問題
問1、ウ、第1次松方正義内閣
問2,ウ、青木周蔵
江戸後期・幕末の練習問題はこちらです。
明治後半(日清・日露戦争)の練習問題はこちらです。