高校日本史、江戸時代(初期)の無料練習問題を用意しました!
歴史が苦手な人、模試で40点とどかない人、手軽に復習したい人向けに作っています。
江戸初期、徳川家康から綱吉までの約100年間の練習問題です。
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日本史の教科書では、江戸時代はざっくり4期に分けます。
- 初期:1603‐1651、幕府のシステムを作った時代、寛永期
- 中期:1652‐1786、改革をいろいろした、元禄、享保、天明、
- 後期:1787‐1853、改革したけどダメだった、寛政、化成、天保、
- 幕末:1854‐1868、幕府はダメだから天皇中心、安政、文久、
ページの分量上バランスが良くないので、当サイトではのように分けます。
- 家康~綱吉(1600-1700):幕府の支配、鎖国の流れ、江戸の社会、
- 新井白石~田沼意次(1700‐1780):改革いろいろ、産業の変化、学者いろいろ、
- 松平定信~明治維新(1780‐1868):改革と混乱、鎖国の崩壊、公武合体vs倒幕、
前回、安土桃山時代の練習問題はこちらです。
次回、江戸中期の練習問題はこちらです。
日本史(江戸時代)の練習問題
江戸幕府の成立についての練習問題
ポイントの整理
・徳川家康は北条氏滅亡のあと東国約250万石を与えられ、豊臣政権の五大老筆頭となった。
・秀吉の死後、1600年( )で( )ら豊臣方西軍の大名に勝利して政治実権を握り、征夷大将軍に任じられた。
・家康は、諸大名に江戸城下建設の費用を( )させ、国絵図と( )の作成を命じた。
・家康は幕府の正当性を諸大名に示すため将軍職を( )にゆずり、みずからは( )として実権を握った。
・1615年( )で( )を滅ぼした。
・家康から幕府の世襲と諸大名の統制をはかるため、1615年( )、( )(元和令)を出した。
・秀忠は大名を( )・( )・( )に決め、特に( )・( )・( )の三家は、徳川家の徳川親戚筋でも重要であった。
・家光の時代に幕藩体制は完成し、武家諸法度(寛永令)で諸大名に( )を義務付け、石高に応じる( )・( )を課した。
・幕府の家臣団で一万石未満を( )・御家人といい、( )が監督した。( )は平時に幕府の中枢で政務を担い、大老は臨時の最高職だった。
・三奉行とは、( )・( )・( )をいい、譜代大名や老中配下の旗本から任じられた。複数の役職にまたがる事項は、老中と三奉行からなる( )の合議で決めた。
・幕領には( )・( )を置き、( )が指揮した。
・( )は朝廷の統制、西国大名の監視のために置かれ、大坂・京都・駿府には( )と( )が置かれた。
・大名の領地と支配機構を( )と呼び、はじめ有力武士に領知を与える( )をとったが、しだいに家臣団を城下に住まわせ、郡奉行・代官らが徴収した年貢から蔵米を支給する( )に変わった。
確認問題
問1、家康は秀吉の死後、諸大名に実権の正当性を認めさせるため、何をしたか。
問2、家康は幕府の世襲制を確立するため、何をしたか。
問3、将軍の代替わりごとに諸大名に出される決まりを何というか。
問4、譜代・親藩・外様の配置の特徴は何か。
問5、家光の寛永令の特徴は何か。
問6、幕府の財政は直轄領の他に何があったか。
江戸幕府と朝廷・寺社についての練習問題
ポイントの整理
・家康は天皇と公家の統制のため1615年( )を出し、( ) の監視を受けることにし、幕府と朝廷の窓口になる摂家を( )に任じ、幕府による朝廷監視を強めた。
・秀忠は娘を( )に入内させ、官位制度、改元・改暦も幕府の許可を必要とした。また、( )で天皇を交代させる事態になったことに大徳寺の( )が抗議したが幕府に処分された。
・幕府は1612年まず直轄領、翌年には全国に( )を出した。キリシタン大名だった( )らはマニラ・マカオに追放になり、1622年( )で、宣教師・信者55人が処刑された。
・1637年( ) は、禁教の弾圧に耐えかねた土豪・百姓が中心となり( )を首領とし、幕府側と戦い、幕府側には( )も加わった。
・幕府は仏教への改宗を強化し、( )で仏教徒である証明をする( )を行い、武士・神主も( )で檀那寺を持つこと強制した。
・( )では、仏教諸宗の地位を保障し、本山と末寺を組織させた。
・1655年( )では僧侶全体の統制、( )では神社・神主の統制を定めた。
確認問題
問1、幕府が朝廷を厳しく監視したのはなぜか。
問2、紫衣事件により何が決定的となったか。
問3、幕府がキリスト教の禁教を徹底した理由は何か。
問4、明末、日本にわたり黄檗宗を広めた僧は誰か。
問5,江戸幕府の宗教政策について誤っているものを1つ選べ。
ア、幕府ははじめキリスト教を黙認していたが、1612年幕領から禁教令を施行した。
イ、キリスト教や修験道を信仰させないため、神職も寺院の檀家に登録させた。
ウ、島原の乱後、宗門改めを実施して、すべての日本人を寺院の檀家に登録させた。
エ、幕府が信仰を認めたのは、仏教・神道・修験道・陰陽道などである。
オ、皇族・公家の子弟が入寺していたため、幕府は寺院も朝廷の一員とみなした。
江戸初期の外交についての練習問題
ポイントの整理
・鎖国までの流れ
・1600年( )が豊後に漂着したことにより、イギリス・オランダとの貿易が始まり、家康はオランダ人の( )とイギリス人の( )を江戸に招いて外交顧問にした。1613年イギリスは( )に商館をひらき、彼らは( )と呼ばれた。
・スペインは1610年上総に漂着したことで( )以来途絶えていた貿易が再開し、( )がメキシコに派遣された。仙台藩は支倉常長を中心に( )を派遣したが交渉は失敗に終わった。
・ポルトガルは中国産生糸の輸出で大きな利益を得ていたので、幕府は五ケ所商人による( )で一括購入をした。
・東南アジア各地とは、幕府が( )を出し、多くの日本人がわたり( )もできた。( )はタイのアユタヤ朝で重用された。
・しかし、1616年幕府は外国船の寄港地を( )と( )に制限し、1624年( )船の寄港を禁じ、33年には( )以外の日本人の海外渡航を禁じ、35年日本人の海外往来を禁じ、島原の乱後、39年には( )船の渡航を禁じ、41年( )船との交流を( )に限り、( )が完成した。
・鎖国後の4つの窓口
・オランダは( )を拠点に、鎖国後平戸から長崎出島に居館を移されてから貿易利益のみに重視した。居館長は寄港のたびに( )の幕府への提出を義務づけられ、将軍への( )がほ ぼ毎年行われた。
・中国は明から清に交代後も互市が長崎で続けられたが、幕府は銀の流出を防ぐため相対(あいたい)自由貿易をやめ、1685年( )を復活させ、1689年雑居から清国人居留地を( )に限定した。
・朝鮮とは( )藩を窓口にし、家臣へは知行がわり( )を与えることが認められた。1609年( )により秀吉の時代から途絶えていた国交が復活し、( )に倭館がもうけられた。回 答兼刷還使は第四回から( )と呼ばれ、将軍の代替わりごとに派遣された。ただし、幕府と朝鮮双方の建前の違いから、対馬藩による国書の偽造が( )で明るみに出た。対馬には五山の僧が監視役で送られることになった。
・琉球王国とは、( )の島津家久が武力で征服し、検地・刀狩を行う一方、中国との( )は継続させ、( )や中国産物を上納させた。国王の交代には江戸へ( )を送らせ、将軍の代替わりには( )を送らせた。
・蝦夷地は蠣崎氏が江戸時代から( )と名乗り、( )・( )でアイヌと交易をおこない、家臣へ知行の代わりに交易権を与えた。1669年( )で勝利した和人側はアイヌへ不当な交易を強要し、和人商人が取り仕切る( )を始めた。
確認問題
問1、初めてメキシコ(ノヴィスバン)に渡った日本人はだれか。
問2、糸割符制度とはどのような仕組みで、何を目的としたか。
問3、幕府が鎖国に方針を転換した理由は何と考えられているか。
問4、「鎖国」という言葉の起源は何か説明せよ。
問5、オランダ商館長が江戸へ訪れることを何というか。
問6、対馬の外交官で、将軍吉宗の時代通信使の接待役を努めた儒学者はだれか。
江戸初期の社会についての練習問題
ポイントの整理
・支配民分の武士は( )・( )を認められたが、家のつながり、主人への忠誠、上下の秩序などが厳格であった。
・多くの民衆は農村に住む( ) であった。太閤検地の際、惣村は( )によって分割されたが、江戸時代は( )がさかんに行われ、石高が1.6倍以上に増加し、村数も6万3000あまりになった。
・百姓の村は( )・( )・( )の村方三役で主に運営を行い、土地持ちで自治で発言権をもつ( )と小作・日用に従事する( )がいた。( )に背くと村八分などの制裁があった。
・幕府や藩は年貢の徴収や治安維持などで村組織に依存したことを( )といい、宿場町などの( )も運営は百姓の村と同様であった。
・百姓の負担には、米や金銭で納める( )とそれ以外の山野河海の特産物による( )、臨時に課される土木工事など夫役に( )があった。年貢に関しては( )という連帯責任がとられた。
・1643年幕府は( )で田畑の売買を禁じ、1645年( )では、商品作物の自由な栽培が制限された。1675年( )は20石未満の百姓の零細化を防ぐため、分割相続を禁じた。
・城下町は政治の中枢の城を中心に、( )・( )・( )からなっていた。
・町人は、城下町に暮らし手工業に携わる( )と商業に携わるごく少数の( )がいた。百姓と同様、( )の権限が強く、家督は( )が基本だった。
・町人は職種ごとに仲間・組合・講とよばれる集団をつくり、町奉行は有力な町人から( )や( )を選んで行政の一部を委託した。
・町の自治は( )に発言権があり、( )・( )のもと( )に基づいて運営し、町人足(ちょうにんそく)という夫役があったが、貨幣で支払った。
・狭義の町人以外に、商家に住み込みで働く奉公人、( )など裏長屋に住んで( )など日用の仕事に就く者もいた。
・被差別民の( )は、動物の死体処理や皮革業、死罪の執行役などに従事し、居住場所や服装など制限され賤視された。
・( )は、飢饉・貧困・刑罰で村・町から排除された人の集団で、町や村の番人、芸能(人形遣い、旅芸人など)、清掃など行った。
確認問題
問1、江戸時代の村落について、誤っているものを1つ選べ。
ア、村落でも戸主である男性の権限が強く、女性の権利は認められなかった。
イ、検見法(けみほう)はその年の収穫に応じて年貢の徴収率を決めた方法である。
ウ、漁村では網元と網子という漁業経営にもとづく上下関係があった。
エ、村落には商人や職人、僧侶なども住んでいた。
オ、街道沿いの定期市が自然に都市化した在郷町も、年貢を負担した。
問2、江戸時代の町について、誤っているものを1つ選べ。
ア、町方の監督について、幕府や藩は町年寄を中心とする町人自治に依存した。
イ、江戸時代、町とよばれた都市は城下町のみである。
ウ、店借や振売は家賃を負担したが、町政には参加できなかった。
エ、町にも村掟に相当する町掟が自主的に取り決められた。
オ、町人にも町人足など税負担があった。
江戸初期の産業についての練習問題
ポイントの整理
・農業は小規模で高収益が基本で、箱根用水・見沼代用水 など用水路が作られ、椿海・備前鹿児島湾・有明海なの( )がされた。また米・野菜以外に( )を都市部に売ることもあった。入会地の管理など人手を要するときは( )という共同作業があった。
・林業は( )や( )は藩が管理をし、杣(そま)という職人がいた。ほとんどの山はいくつかの村の( )で、肥料、炭、まぐさなど作られた。
・漁業は( )で商業化が進み、網元から都市の魚問屋が買取り、干しアワビやかつおぶしが全国に広まった。
・手工業は年貢が免除された分、都市の建築、鉱山経営、武器生産において( )があった。17世紀職種ごとに( )・( )をつくり、( )として城下町に定住した。
・農村部では女性が( )で麻や木綿の織物をつくり、楮(こうぞ)を原料とした( )による和紙の生産は学問・文化の発展に貢献した。
・百姓の農閑期に行う仕事を農閑渡世(のうかんとせい)といい、問屋制家内工業、( )の原点になる。
・鉱業では精錬技術が発達し、長崎貿易では17世紀後半から( )が最大の輸出品になり、掘削の技術は大規模な土木工事を可能にした。( )によって砂鉄から玉鋼をつくり、農具や様々な道具の原料になった。
・商業では、堺・京都・長崎・博多・敦賀に豊富な資金や船など輸送手段をもつ( )が現れ、京都の( )はその一例で、( )や地域間の価格格差で利益を得たが、鎖国や交通の発達で衰退した。17C後半から( )が三都(京都・大坂・江戸)や城下町で発達し仲買ともに、( )・( )をつくり( )を定め、営業権の独占をしようとした。
確認問題
問1,江戸時代に新田開発が進んだ理由を、「年貢」「道具」「測量」の観点から説明せよ。
問2、米は米は大半が年貢で取られたので、百姓はどのようにして生計を立てたか。
問3,中世の「座」と江戸時代の「仲間」の違いは何か。
徳川綱吉の時代についての練習問題
ポイントの整理
・1662年( )が中国統一以来、日本も平和な時代が始まる。将軍( )の時代、叔父で会津藩主の( )が支えるも、1651年( )で牢人・かぶき者対策がとられた。
・まず( )を緩和し、1663年の武家諸法度では( )が禁じられ、武家での下剋上はなくなった。翌年( )を全国の大名に出し、幕府の権威を確認させ、幕領の( )を行った。
・1657年( )では江戸城・市街に甚大な被害をもたらし、寛永の飢饉をきっかけに領主に農政改革、藩政の安定のため、顧問に儒学者をまねいた。
・岡山藩の( )は陽明学者の( )を招き、郷校の( )、また蕃山も私塾の花畠教場を開いた。会津藩の( )は朱子学者の( )を招き朱子学を学んだ。水戸藩の( )は明から亡命した( )を招き、江戸( )で( )の編纂を漢文体(紀伝体)で始めた。加賀藩の( )は朱子学者の( )を招き学問の振興を図った。
・五代将軍( )の補佐をしたのは側用人( )で、武家諸法度で( )を明示した。
・( )は主君に仕える道徳、( )は父祖を敬う道徳、( )は身分の上下による道徳である。( )から朱子学を学び、( )を移築し、林家の( )を( )に置いた。
・礼儀秩序の重視から朝廷への政策を改め、( )など朝廷儀式が復活し、幕府と朝廷のつながりから、天皇の使いが江戸へ赴く幕府下向の儀が行われ、その最中に起きたのが( )である。
・また、( )を出し殺生の一切を禁じ、特に犬を大事にしたことから犬公方とも呼ばれ、( )から喪に服すこと死を忌む習慣がうまれ、武力重視から礼儀知識重視へと方向転換したが、動物の死体処理、皮革業への差別が増した。
・幕府の財政が悪くなると、( )の提案により、質の悪い小判に改鋳させ、物価の上昇をまねいた。また、1707年に( )がおこり関東一円に甚大な被害があり、幕府は諸大名に高役金を課し、復興に用いた。
確認問題
問1、幕府が諸大名に禁じた末期養子の禁とはなにか説明せよ。
問2、家綱が1663年に出した武家諸法度では何を禁じ、結果武家社会はどうなったか説明せよ。
問3、綱吉が朱子学重視の文治主義に政策を転換させた理由は何か。
問4、林家の私塾を幕府の学校に変えた際、その長官を務めた人物はだれで、何の役職に就いたか。
問5、皮革業などあつかう人々を「えた」と呼び差別意識を広める結果になった法令を二つ挙げよ。
問6、綱吉の時代、幕府の財政が悪化した原因として、誤っているものを1つ選べ。
ア、佐渡金山など金銀の産出量が減少した。
イ、明暦の大火で江戸の再建に、多額の費用がかかった。
ウ、新田開発で印旛沼の干拓に失敗した。
エ、寺社の建築を続けた。
江戸初期の文化についての練習問題
寛永期の文化
ポイントの整理
・建築は寺社の( )が多く、家康を祭った日光東照宮の陽明門などは( )という。また、書院造に草庵の茶室を組み合わせた( )の代表に桂離宮がある。
・絵画では( )が幕府の御用絵師となり、( )は風神雷神図屏風を描き、元禄期の琳派のさきがけとなった。
・京都の上層町衆の( )は書・蒔絵・絵・楽焼の茶碗ですぐれた作品を残した。
・文芸では( )が広まり、松永貞徳の( )が流行した。
元禄文化
ポイントの整理
・( )は上方の町人などの小説を書き、( )は幽玄閑寂に重んじた俳諧を確立した。
・( )は浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書き、人形遣いに辰松八郎兵衛が演じ、( )の義太夫節が人気となった。
・大坂や江戸などでは常設の( )で野郎歌舞伎が演じられ、江戸では( )、上方では( )が人気を集めた。
・幕政が安定すると、幕府や各藩では身分の上下や忠孝、礼儀を重んじる( )がさかんに学ばれた。
・建築では戦国期に再び燃やされた( )が再建され、幕府は松本藩に命じて( )を作らせた。
・絵画では、( )の( )が朝廷に抱えられ、そこから分かれた( )如慶と具慶の父子は( )と呼ばれ、狩野派とともに幕府の御用絵師になった。
・俵屋宗達の装飾的技法を取り入れた( ) は様々な作品を残し、彼の系統を受け継ぐ一派を( )という。
・また、( )が( )をはじめ、安価で庶民に広がった。
・廻遊式庭園では水戸藩邸の( )と柳沢吉保が自ら設計した( )がある。
確認問題
問1,寛永期の文化と元禄文化について、誤っているものを1つ選べ。
ア、元禄文化の担い手は、町人や地方の商人・有力百姓に拡大した。
イ、野々村仁清の京焼や宮崎友禅の友禅染は元禄時代に始まった。
ウ、書院造に草庵風の茶室を合わせたのを権現造といい、代表例に桂離宮がある。
エ、酒井田柿右衛門が赤絵を完成させたのは寛永期である。
オ、徳川家光は延暦寺根本中堂を再建し、日光東照宮を創建した。
日本史(江戸初期)の年表問題
江戸初期の外交
次の空欄に適切な語句を書いてください。
政権 | 禁教 | 貿易と外交 |
秀吉(ー1598) | 1587、( ):宣教師に国外追放を命じる 1596、サン=フェリペ号事件⇒26聖人殉教 | 1588、海賊取締令 |
家康(1599‐1605) | 1599、蠣崎氏が( )に改称 1600、オランダ船が豊後に漂着 1601、( )を開始 1604、( )を創設 同年、アイヌとの交易権を認められ、 商場知行制を始める | |
秀忠(1606‐23) | 1612、京都所司代にキリスト教禁止・南蛮寺の破壊を命じる ⇒幕府領に( )を出す 1613、全国に出す 1614、( )らマニラ・マカオに追放 1622、( ):長崎でキリスト教徒55人を処刑 | 1607、朝鮮使節が来日 1609、薩摩藩が( )を侵略 同年、朝鮮と( )を結ぶ 同年、オランダが( )に商館 1610、田中勝介を( )に派遣 1611、明の商人に( )での貿易を許可 1613、イギリス、平戸に商館 同年、仙台藩が支倉常長をスペインに派遣 ( ) 1616、中国以外の外国船の来航を ( )・( )に制限 |
家光(1623‐ | 1629、長崎で( )が始まる 1630、キリスト教関係の書物輸入禁止 1635、( )が始まる 1637、( )が起きる 1640、幕府領で宗門改役を設置。宗門改帳を作成 1644、諸藩に宗門改役を設置 | 1623、イギリス、平戸の商館閉鎖 1624、( )の来航禁止 1631、( )制度が始まる 1633、朱印船の往来を禁止 1634、( )を建設 同年、琉球の( ・ )が始まる 1635、日本人の渡航帰国を禁止 1636、ポルトガル人を( )に移す 同年、朝鮮使節を( )と称す 1639、ポルトガル船の来航禁止 1641、オランダ商館を( )に移す ( )を提出 |
語句
家綱・綱吉の時代
次の空欄に適切な語句を入れてください。
1705
将軍 | 西暦 | できごと |
家綱 | 1641 1651 1657 1663 1664 1665 1673 | 寛永の飢饉 由井正雪の乱(慶安の変)⇒大名の( )を緩和 ( )⇒江戸に定火消を設置 武家諸法度で( )の禁止 領地宛行状を発給⇒将軍と諸大名の主従関係を確認 諸宗寺院法度と諸社禰宜神主法度を出す ( )を出し、土地の分割相続を制限 |
綱吉 | 1683 1684 1685 1686 1687 1690 1691 1695 1702 1705 1707 | 武家諸法度で文治主義を導入 ( )を発布・貞享暦を採用 ( )を出す 長崎に唐人屋敷を建設 朝廷の大嘗祭を再興 ( )が完成 林鳳岡を( )に任命 勘定吟味役( )の建言で、貨幣改鋳する 赤穂事件 天皇領を1万石増やす 富士山の大噴火 |
語句
日本史(江戸時代)の解答
江戸幕府の成立についての解答
ポイントの整理
・徳川家康は北条氏滅亡のあと東国約250万石を与えられ、豊臣政権の五大老筆頭となった。
・秀吉の死後、1600年(関ヶ原の戦い)で(石田三成)ら豊臣方西軍の大名に勝利して政治実権を握り、征夷大将軍に任じられた。
・家康は、諸大名に江戸城下建設の費用を(普請)させ、国絵図と(郷帳)の作成を命じた。
・家康は幕府の正当性を諸大名に示すため将軍職を(徳川秀忠)にゆずり、みずからは(大御所)として実権を握った。
・1615年(大坂夏の陣)で(豊臣秀頼)を滅ぼした。
・家康から幕府の世襲と諸大名の統制をはかるため、1615年(一国一城令)、(武家諸法度)(元和令)を出した。
・秀忠は大名を(親藩)・(譜代)・(外様)に決め、特に(水戸)・(尾張)・(紀伊)の三家は、徳川家の徳川親戚筋でも重要であった。
・家光の時代に幕藩体制は完成し、武家諸法度(寛永令)で諸大名に(参勤交代)を義務付け、石高に応じる(普請)・(軍役)を課した。
・幕府の家臣団で一万石未満を(旗本)・御家人といい、(若年寄)が監督した。(老中)は平時に幕府の中枢で政務を担い、大老は臨時の最高職だった。
・三奉行とは、(町奉行)・(勘定奉行)・(寺社奉行)をいい、譜代大名や老中配下の旗本から任じられた。複数の役職にまたがる事項は、老中と三奉行からなる(評定所)の合議で決めた。
・幕領には(郡代)・(代官)を置き、(勘定奉行)が指揮した。
・(京都所司代)は朝廷の統制、西国大名の監視のために置かれ、大坂・京都・駿府には(城代)と(町奉行)が置かれた。
・大名の領地と支配機構を(藩)と呼び、はじめ有力武士に領知を与える(地方知行制)をとったが、しだいに家臣団を城下に住まわせ、郡奉行・代官らが徴収した年貢から蔵米を支給する(俸禄制度)に変わった。
確認問題
問1、例:関ヶ原の戦いで家康に敗北した大名を処罰し、国絵図と郷帳を出させた。
問2、将軍を秀忠にゆずり、家康は大御所として権力を握った。
問3、武家諸法度
問4、例:江戸に近い場所や幕府の重要地に親藩・譜代を置き、遠隔地に外様を置いた。
問5、諸大名に参勤交代を義務付けた。
問6、佐渡などの鉱山、長崎の貿易、江戸・大坂・京都の商業、
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江戸幕府と朝廷・寺社についての解答
ポイントの整理
・家康は天皇と公家の統制のため1615年(禁中並公家諸法度)を出し、(京都所司代) の監視を受けることにし、幕府と朝廷の窓口になる摂家を(武家伝奏)に任じ、幕府による朝廷監視を強めた。
・秀忠は娘を(後水尾天皇)に入内させ、官位制度、改元・改暦も幕府の許可を必要とした。また、(紫衣事件)で天皇を交代させる事態になったことに大徳寺の(沢庵)が抗議したが幕府に処分された。
・幕府は1612年まず直轄領、翌年には全国に(禁教令)を出した。キリシタン大名だった(高山右近)らはマニラ・マカオに追放になり、1622年(元和の大殉教)で、宣教師・信者55人が処刑された。
・1637年(島原の乱) は、禁教の弾圧に耐えかねた土豪・百姓が中心となり(益田時貞)を首領とし、幕府側と戦い、幕府側には(オランダ)も加わった。
・幕府は仏教への改宗を強化し、(寺請制度)で仏教徒である証明をする(宗門改め)を行い、武士・神主も(寺檀制度)で檀那寺を持つこと強制した。
・(寺院法度)では、仏教諸宗の地位を保障し、本山と末寺を組織させた。
・1655年(諸宗寺院法度)では僧侶全体の統制、(諸社禰宜神主法度)では神社・神主の統制を定めた。
確認問題
問1、例:朝廷が幕府を無視して、西国大名に倒幕を呼びかけないようにするため。
問2、幕府の命令が天皇の勅許より優位であること。
問3、スペインやポルトガルの侵略に、キリスト教徒が団結して協力することを恐れたから。
問4、隠元
問5,イ、キリスト教や修験道を信仰させないため、神職も寺院の檀家に登録させた。
幕府が禁じたのは、キリスト教と日蓮宗不受不施派です。
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江戸初期の外交についての解答
ポイントの整理
・鎖国までの流れ
・1600年(リーフデ号)が豊後に漂着したことにより、イギリス・オランダとの貿易が始まり、家康はオランダ人の(ヤン=ヨーステン)とイギリス人の(ウイリアム=アダムズ)を江戸に招いて外交顧問にした。1613年イギリスは(平戸)に商館をひらき、彼らは(紅毛人)と呼ばれた。
・スペインは1610年上総に漂着したことで(サン=フェリペ号事件)以来途絶えていた貿易が再開し、(田中勝介)がメキシコに派遣された。仙台藩は支倉常長を中心に(慶長遣欧使節)を派遣したが交渉は失敗に終わった。
・ポルトガルは中国産生糸の輸出で大きな利益を得ていたので、幕府は五ケ所商人による(糸割符制度)で一括購入をした。
・東南アジア各地とは、幕府が(朱印状)を出し、多くの日本人がわたり(日本町)もできた。(山田長政)はタイのアユタヤ朝で重用された。
・しかし、1616年幕府は外国船の寄港地を(長崎)と(平戸)に制限し、1624年(スペイン)船の寄港を禁じ、33年には(奉書船)以外の日本人の海外渡航を禁じ、35年日本人の海外往来を禁じ、島原の乱後、39年には(ポルトガル)船の渡航を禁じ、41年(オランダ)船との交流を(出島)に限り、(鎖国)が完成した。
・鎖国後の4つの窓口
・オランダは(バタヴィア)を拠点に、鎖国後平戸から長崎出島に居館を移されてから貿易利益のみに重視した。居館長は寄港のたびに(オランダ風説書)の幕府への提出を義務づけられ、将軍への(江戸参府)がほぼ毎年行われた。
・中国は明から清に交代後も互市が長崎で続けられたが、幕府は銀の流出を防ぐため相対(あいたい)自由貿易をやめ、1685年(糸割符制度)を復活させ、1689年雑居から清国人居留地を(唐人屋敷)に限定した。
・朝鮮とは(対馬)藩を窓口にし、家臣へは知行がわり(貿易利潤)を与えることが認められた。1609年(己酉条約)により秀吉の時代から途絶えていた国交が復活し、(釜山)に倭館がもうけられた。回答兼刷還使は第四回から(通信使)と呼ばれ、将軍の代替わりごとに派遣された。ただし、幕府と朝鮮双方の建前の違いから、対馬藩による国書の偽造が(柳川一件)で明るみに出た。対馬には五山の僧が監視役で送られることになった。
・琉球王国とは、(薩摩藩)の島津家久が武力で征服し、検地・刀狩を行う一方、中国との(朝貢貿易)は継続させ、(黒砂糖)や中国産物を上納させた。国王の交代には江戸へ(謝恩使)を送らせ、将軍の代替わりには(慶賀使)を送らせた。
・蝦夷地は蠣崎氏が江戸時代から(松前氏)と名乗り、(商場)・(場所)でアイヌと交易をおこない、家臣へ知行の代わりに交易権を与えた。1669年(シャクシャインの戦い)で勝利した和人側はアイヌへ不当な交易を強要し、和人商人が取り仕切る(場所請負制)を始めた。
確認問題
問1、田中勝介
問2、京都・長崎など特定の商人がいっかつで生糸を買う仕組みで、銀の国外流出を減らすためにした。
問3、日本全国に禁教令を出し、幕府が外交権を掌握したから。
問4、江戸後期、オランダ通詞志筑忠雄が訳した本の題を「鎖国論」としたこと。
問5、江戸参府(将軍への朝貢という形式をとった。)
問6、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)
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江戸初期の社会についての解答
ポイントの整理
・支配民分の武士は(名字)・(帯刀)を認められたが、家のつながり、主人への忠誠、上下の秩序などが厳格であった。
・多くの民衆は農村に住む(百姓) であった。太閤検地の際、惣村は(村切)によって分割されたが、江戸時代は(新田開発)がさかんに行われ、石高が1.6倍以上に増加し、村数も6万3000あまりになった。
・百姓の村は(名主)・(組頭)・(百姓代)の村方三役で主に運営を行い、土地持ちで自治で発言権をもつ(本百姓)と小作・日用に従事する(水呑百姓)がいた。(村法)に背くと村八分などの制裁があった。
・幕府や藩は年貢の徴収や治安維持などで村組織に依存したことを(村請制)といい、宿場町などの(在郷町)も運営は百姓の村と同様であった。
・百姓の負担には、米や金銭で納める(本途物成)とそれ以外の山野河海の特産物による(小物成)、臨時に課される土木工事など夫役に(国役)があった。年貢に関しては(五人組)という連帯責任がとられた。
・1643年に幕府から(田畑永代売買の禁止令)で田畑の売買が禁じられ、1645年(田畑勝手作りの禁)では、商品作物の自由な栽培が制限された。1675年(分地制限令)は20石未満の百姓の零細化を防ぐため、分割相続を禁じた。
・城下町は政治の中枢の城を中心に、(武家地)・(寺社地)・(町人地)からなっていた。
・町人は、城下町に暮らし手工業に携わる(職人)と商業に携わるごく少数の(家持町人)がいた。百姓と同様、(戸主)の権限が強く、家督は(長子相続)が基本だった。
・町人は職種ごとに仲間・組合・講とよばれる集団をつくり、町奉行は有力な町人から(問屋)や(町年寄)を選んで行政の一部を委託した。
・町の自治は(家持町人)に発言権があり、(月行事)・(名主)のもと(町法)に基づいて運営し、町人足(ちょうにんそく)という夫役があったが、貨幣で支払った。
・狭義の町人以外に、商家に住み込みで働く奉公人、(店借)など裏長屋に住んで(振売)など日用の仕事に就く者もいた。
・被差別民の(えた)は、動物の死体処理や皮革業、死罪の執行役などに従事し、居住場所や服装など制限され賤視された。
・(非人)は、飢饉・貧困・刑罰で村・町から排除された人の集団で、町や村の番人、芸能(人形遣い、旅芸人など)、清掃など行った。
確認問題
問1、江戸時代の村落について、誤っているものを1つ選べ。
ア、村落でも戸主である男性の権限が強く、女性の権利は認められなかった。
夫を亡くした女性は、本百姓に準じる権利を持っていた。
問2、江戸時代の町について、誤っているものを1つ選べ。
イ、江戸時代、町とよばれた都市は城下町のみである。
町は城下町以外に、門前町・港町・宿場町・鉱山町などがあった。
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江戸初期の産業についての解答
ポイントの整理
・農業は小規模で高収益が基本で、箱根用水・見沼代用水 など用水路が作られ、椿海・備前鹿児島湾・有明海なの(新田開発)がされた。また米・野菜以外に(商品作物)を都市部に売ることもあった。入会地の管理など人手を要するときは(結)という共同作業があった。
・林業は(秋田杉)や(木曾檜)は藩が管理をし、杣(そま)という職人がいた。ほとんどの山はいくつかの村の(入会地)で、肥料、炭、まぐさなど作られた。
・漁業は(網漁)で商業化が進み、網元から都市の魚問屋が買取り、干しアワビやかつおぶしが全国に広まった。
・手工業は年貢が免除された分、都市の建築、鉱山経営、武器生産において(国役)があった。17世紀職種ごとに(仲間)・(組合)をつくり、(借家人)として城下町に定住した。
・農村部では女性が(地機)で麻や木綿の織物をつくり、楮(こうぞ)を原料とした(流漉)による和紙の生産は学問・文化の発展に貢献した。
・百姓の農閑期に行う仕事を農閑渡世(のうかんとせい)といい、問屋制家内工業、(マニュファクチュア)の原点になる。
・鉱業では精錬技術が発達し、長崎貿易では17世紀後半から(銅)が最大の輸出品になり、掘削の技術は大規模な土木工事を可能にした。(たたら製鉄)によって砂鉄から玉鋼をつくり、農具や様々な道具の原料になった。
・商業では、堺・京都・長崎・博多・敦賀に豊富な資金や船など輸送手段をもつ(豪商)が現れ、京都の(角倉了以)はその一例で、(朱印船貿易)や地域間の価格格差で利益を得たが、鎖国や交通の発達で衰退した。17世紀後半から(問屋)が三都(京都・大坂・江戸)や城下町で発達し仲買ともに、(仲間)・(組合)をつくり(仲間掟)を定め、営業権の独占をしようとした。
確認問題
問1,例:幕府と藩の収入は年貢に依存していたため、検地で測量が進み、画期的な道具が発明されたため。
問2、例:商品作物の栽培、農閑期につくる織物・紙・酒など手工業品、地主・商家・武家への年季奉公、など。
問3,例:中世の座は公家や寺社に保護されていたが、江戸時代の仲間は幕府や藩から許可をもらっていた。
問3は中学校の社会科にもありますよ。
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徳川綱吉の時代についての解答
ポイントの整理
・1662年(清)が中国統一以来、日本も平和な時代が始まる。将軍(家綱)の時代、叔父で会津藩主の(保科正之)が支えるも、1651年(慶安の変)で牢人・かぶき者対策がとられた。
・まず(末期養子の禁止)を緩和し、1663年の武家諸法度では(殉職)が禁じられ、武家での下剋上はなくなった。翌年(領知宛行状)を全国の大名に出し、幕府の権威を確認させ、幕領の(検地)を行った。
・1657年(明暦の大火)では江戸城・市街に甚大な被害をもたらし、寛永の飢饉をきっかけに領主に農政改革、藩政の安定のため、顧問に儒学者をまねいた。
・岡山藩の(池田光政)は陽明学者の(熊沢蕃山)を招き、郷校の(閑谷学校)、また蕃山も私塾の花畠教場を開いた。会津藩の(保科正之)は朱子学者の(山崎闇斎)を招き朱子学を学んだ。水戸藩の(徳川光圀)は明から亡命した(朱瞬水)を招き、江戸(彰考館)で(大日本史)の編纂を漢文体(紀伝体)で始めた。加賀藩の(前田綱紀)は朱子学者の(木下順庵)を招き学問の振興を図った。
・五代将軍(綱吉)の補佐をしたのは側用人(柳沢吉保)で、武家諸法度で(文治主義)を明示した。
・(忠)は主君に仕える道徳、(孝)は父祖を敬う道徳、(礼儀)は身分の上下による道徳である。(木下順庵)から朱子学を学び、(湯島聖堂)を移築し、林家の(林鳳岡)を(大学頭)に置いた。
・礼儀秩序の重視から朝廷への政策を改め、(大嘗祭)など朝廷儀式が復活し、幕府と朝廷のつながりから、天皇の使いが江戸へ赴く幕府下向の儀が行われ、その最中に起きたのが(赤穂事件)である。
・また、(生類憐みの令)を出し殺生の一切を禁じ、特に犬を大事にしたことから犬公方とも呼ばれ、(服忌令)から喪に服すこと死を忌む習慣がうまれ、武力重視から礼儀知識重視へと方向転換したが、動物の死体処理、皮革業への差別が増した。
・幕府の財政が悪くなると、(荻原重秀)の提案により、質の悪い小判に改鋳させ、物価の上昇をまねいた。また、1707年に(富士山の大噴火)がおこり関東一円に甚大な被害があり、幕府は諸大名に高役金を課し、復興に用いた。
確認問題
問1、大名が死に際に養子を迎え、後継ぎにすることを禁止したもの。
問2、大名が死んだ際、家臣も一緒に死ぬことを禁止した結果、家臣は大名個人ではなく大名家に代々使えるのものだとされ、下剋上の風潮がなくなった。
問3、諸大名の監視より政治と経済の安定が重要になったから。
問4、林鳳岡、大学頭
問5、生類憐みの令、服忌令、
問6、ウ、新田開発で印旛沼の干拓に失敗した。
印旛沼の干拓に失敗したのは、田沼意次の時代(1782)なので、75年未来の話です。
江戸初期の文化についての解答
寛永期の文化
ポイントの整理
・建築は寺社の(霊廟建築)が多く、家康を祭った日光東照宮の陽明門などは(権現造)という。また、書院造に草庵の茶室を組み合わせた(数寄屋造)の代表に桂離宮がある。
・絵画では(鹿野探幽)が幕府の御用絵師となり、(俵屋宗達)は風神雷神図屏風を描き、元禄期の琳派のさきがけとなった。
・京都の上層町衆の(本阿弥光悦)は書・蒔絵・絵・楽焼の茶碗ですぐれた作品を残した。
・文芸では(仮名草子)が広まり、松永貞徳の(俳諧)が流行した。
元禄文化
ポイントの整理
・(井原西鶴)は上方の町人などの小説を書き、(松尾芭蕉)は幽玄閑寂に重んじた俳諧を確立した。
・(近松門左衛門)は浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書き、人形遣いに辰松八郎兵衛が演じ、(竹本義太夫)の義太夫節が人気となった。
・大坂や江戸などでは常設の(芝居小屋)で野郎歌舞伎が演じられ、江戸では(荒事)、上方では(和事)が人気を集めた。
・幕政が安定すると、幕府や各藩では身分の上下や忠孝、礼儀を重んじる(朱子学)がさかんに学ばれた。
・建築では戦国期に再び燃やされた(東大寺大仏殿)が再建され、幕府は松本藩に命じて(善光寺本堂)を作らせた。
・絵画では、(土佐派)の(土佐光起)が朝廷に抱えられ、そこから分かれた(住吉)如慶と具慶の父子は(住吉派)と呼ばれ、狩野派とともに幕府の御用絵師になった。
・俵屋宗達の装飾的技法を取り入れた(尾形光琳) は様々な作品を残し、彼の系統を受け継ぐ一派を(琳派)という。
・また、(菱川師宣)が(浮世絵)をはじめ、安価で庶民に広がった。
・廻遊式庭園では水戸藩邸の(後楽園)と柳沢吉保が自ら設計した(六義園)がある。
確認問題
問1,ウ、書院造に草庵風の茶室を合わせたのを権現造といい、代表例に桂離宮がある。
正しくは数寄屋造です。
江戸中期の練習問題はこちらです。
江戸後期の練習問題はこちらです。