高校日本史、昭和時代(1937年まで)の練習問題を無料で公開しています。
昭和時代は内容が多いので、戦前・戦中・戦後に分けます。
問題は教科書にあるレベルなので、先取り学習や復習などご自由にお使いください。
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大正時代の練習問題はこちらです。
昭和時代(戦前)の練習問題
歴史は暗記ではない
共通テストでは、単純な語句の暗記で正解できる問題がほとんどありません。
語句を覚えているかより、教科書の内容を説明する力が大事です。
また文章量が多いので、正解につながる情報を整理する力が決め手になります。
昭和前半も明治後半から大正時代と同様、内閣ごとに整理すると分かりやすいです。
- 内閣ごとに経済と外交の出来事を整理する
- 教科書を見ながら問題を解いてOK
- 知識ゼロの人に説明できるレベルが理想
金融恐慌と昭和恐慌の練習問題
ポイントの整理
・金融恐慌の背景
第一次世界大戦後、ヨーロッパの商品がアジア市場で復活して、日本製品が売れなくなり、1920年(① )が起きる。
1923年関東大震災により、銀行は手形Aの決済ができず、日本銀行が(② )を買い取ったが、慢性的な不況で大量の②が未決済B。*A~Eは用語の説明を見てください。
・金融恐慌の展開
1927年第一次若槻礼次郎内閣の蔵相(③ )の失言で、銀行がつぶれると民衆に誤解され、取り付け騒ぎCが発生。
鈴木商店が倒産し、(④ )は貸したお金を回収できず大ピンチに。
若槻内閣は④の救済ができず、総辞職。
(⑤ )内閣が3週間の支払猶予令(⑥ )を出し、日本銀行から一般銀行への融資で終息した。
・金融恐慌の影響
日本銀行は1923年も26年も紙幣を刷って銀行にお金を貸したから、日本円の国際的な価値が下がった。
たくさんの中小銀行が合併して、民衆も大きな銀行にお金を預けたいから、(⑦ )の影響力が増した。
政党(立憲民政党や政友会)と⑦の結びつきも強まる。
震災手形、台湾銀行、朝鮮銀行、
B:手形のとおり現金が支払われることを決済という。日本銀行はいろんな銀行から震災手形を買い取ったが、現金にできていない手形が2億円以上あった。
C:銀行にお金を預けている人が、預金を引き出そうと一斉に集まること。
金融恐慌の流れについては、イラストつきで解説します。
・昭和恐慌の背景
日本の工業は(⑧ )が不足していた。工場などのリストラが進んでおらず、1917年以来の(⑨ )で日本円の価値が低下。
1929年(⑩ )内閣は、蔵相に(⑪ )を起用して⑧の強化を目指したが、政策がすべて裏目に出た。
・昭和恐慌の展開
⑩内閣は(⑫ )で物価の引き下げをはかり、1930年(⑬ )を断行。
実際は100円=46.5ドル前後のところ、( )の100円=49.85ドルで解禁したから、日本製品が割高になったD。
1929年アメリカの株価暴落に始まった(⑭ )と重なり、輸出が停滞した。
工場のリストラが進みすぎて、賃金が下がり、失業者があふれた。
(⑮ )など農産物の価格も暴落し、(⑯ )の輸出も激減。
価格下落を防止するため、1931年( )で指定産業のカルテルEを容認。
東北地方の農村で(⑰ )や(⑱ )が続出した。
民衆は政党に失望し、財閥を憎むようになる。
・昭和恐慌の脱出
1931年から蔵相の(⑲ )は(⑳ )を行い、以後現在まで管理通貨制度となる。
円安(100円=20ドル)を利用して輸出が大幅に増大し、綿織物はイギリスを抜いて世界一位に。
赤字国債を発行して、時局匡救(きょうきゅう)と称する公共事業で農村を救済。32年(㉑ )を開始。
1933年に⑭以前の生産水準に回復し、(㉒ )が発達し、日産・日窒など新興財閥が登場。
しかし、輸入面で(㉓ )への依存度が高まった。
国際競争力、金輸出解禁、金輸出再禁止、金輸出禁止、農業恐慌、世界恐慌、井上準之助、浜口雄幸(おさち)、赤字国債、緊縮財政、娘の身売り、米価、ソ連、アメリカ、中国、
E:企業同士が話し合わせて価格を決めること。現在では独占禁止法により禁止されている。
震災恐慌から農村恐慌までの恐慌シリーズは、イラストつきで解説します。
確認問題
問 大正から昭和初期の経済政策について、次の空欄に適切な語句を入れてください。
内閣 | できごと | 政策 |
原敬 | 1920年( )が始まる | |
第2次山本権兵衛 | 1923年関東大震災が発生 →( )に | ・日本銀行に一般銀行の( )を買い取らせる |
第1次( ) | 1927年蔵相( )の失言で、全国の銀行で預金を引き出す人々が殺到→( )に | 台湾銀行の救済に失敗 |
( ) | 1927年支払猶予令( )を出す 日本銀行から一般銀行に貸付をして、恐慌を終息させる →( )の勢力が増す | |
( ) | 1929年( )が発生 →( )に発展 米価と( )の暴落で ( )が発生 欠食児童・娘の身売り | 蔵相( )が緊縮財政で物価を下げ、1930年( )を断行 為替の安定と輸出強化を図ったが失敗。 1931年( )で企業の話し合いで価格を決めるカルテルを容認 |
犬養毅、斎藤実(まこと)、岡田啓介(けいすけ) | 金輸出再禁止で円安が進み、輸出が飛躍 →日産・日窒など( )が登場 イギリスはソーシャルダンピングと非難し、ブロック経済で対抗 | 蔵相( )が金輸出再禁止を断行し、管理通貨制度に 1932年時局匡救事業として公共事業 ( )運動を始める |
山東出兵から満州事変までの練習問題
ポイントの整理
・山東出兵
協調外交から満蒙拡大へ
1926年(① )の率いる中国国民党が軍閥を排除する(② )を開始。
第1次(③ )内閣の外相(④ )は協調外交の方針から不干渉だった。
(⑤ )内閣は1927年東方会議を開き、(⑥ )の権益を実力で守ると決定。
同年から翌年、3度の山東出兵をし、第2次では国民革命軍と武力衝突した(⑦ )が発生。
1928年満州軍閥の(⑧ )が国民革命軍に敗北すると、(⑨ )が独断で列車ごと爆破・殺害した(⑩ )。⑧の子、張学良は満州を国民政府の支配下と認めた。
一方で⑤はパリで国策で戦争しないと宣言した(⑪ )に調印し、欧米との協調外交を維持した。
・ロンドン海軍軍縮会議
(⑫ )内閣は外相④のもと協調外交を復活させた。
1930年(⑬ )で中国の関税自主権を条件付きで認めた。
ロンドン海軍軍縮会議には、③を全権として派遣し、日本は米英に対して約7割の保有率で条約に調印。
野党(⑭ )や海軍軍令部、右翼などが(⑮ )の干犯と批判し、⑫が右翼に狙撃され退陣。
・満州事変
中国で国権回復運動が高まり、張学良が国民政府に協力したので、日本国内では「⑯ 」が叫ばれた。
⑨は国権回復運動が⑥に及ぶのを武力で阻止しようと考え、⑨参謀(⑰ )が奉天郊外で線路を爆破し、
中国軍のしわざと称して軍事行動を開始(⑱ )。
第2次③内閣は不拡大方針を表明したが、⑨が戦線を拡大し世論・マスコミがこれを支持ししため、事態の収拾に失敗し退陣した。
1932年⑨は清朝最後の皇帝(⑲ )を執政(34年皇帝に)におき、満州国の建国を宣言させた。
中国の提訴と日本の提案により、(⑳ )がイギリスのリットン調査団を派遣。その間、(㉑ )内閣は日満議定書を取り交わし、満州国を承認。
1933年⑳の臨時総会で日本が満州国承認を撤回するよう勧告。日本は⑳からの脱退を通告した。
同年、塘沽停戦協定が日中両軍で結ばれ、日本の満州経営が本格化。
(㉒ )内閣は、ワシントンとロンドンの海軍軍縮条約から撤退。
田中義一、斎藤実、統帥権(とうすいけん)、立憲政友会、関東軍、満州、満州事変、第一次上海事変、
張作霖爆殺事件、済南事件(さいなん)、北伐、日中関税協定、満蒙の危機、国際連盟、石原莞爾(かんじ)
確認問題
問1、昭和12年ごろまでの外交政策について、次の空欄に適切な語句を入れてください。
内閣 | できごと | 外交政策 |
第1次( ) | 1926年中国国民党が( )開始 | |
( ) | 1927ー28年( ) ( )で国民革命軍と衝突 ( )で天皇の不興を買う | 東方会議で( )を実力で守る方針を決定 1928年パリで( )に調印 |
( ) | 張学良が国権回復運動を始め、 「 」が叫ばれる | ( )で中国の関税自主権を条件付きで認める 1930年( )に調印 →統帥権の干犯だと野党・海軍らが批判 |
第2次若槻礼次郎 | 関東軍の( )が線路を爆破 1931年( )が勃発 | 内閣は不拡大方針を声明したが、 ( )が戦線を拡大 |
犬養毅、斎藤実、岡田啓介、 | 1932年( )が来日 1933年塘沽停戦協定で日中が停戦 | 1932年斎藤内閣は( )を承認 1933年対日勧告に松岡洋右が退場 →( )を通告 1934年ワシントン海軍軍縮条約の廃棄 1936年ロンドン海軍軍縮条約の脱退 |
政党内閣から軍部台頭の練習問題
・ポイントの整理
左翼政党の動き
・普通選挙法後、1926年(① )が農民組合、労働組合を基盤に合法的に結成されたが、(② )と日本労農党に分裂。1928年の総選挙では無産政党勢力から当選者を出す。
・選挙後、日本共産党が活発化し、(③ )内閣は(④ )で共産党員を一斉検挙。同年、緊急勅令で(⑤ )を改正し、最高刑を死刑、全国に思想を取締る(⑥ )を設置。
改正後、四・一六事件でも共産党員を一斉検挙した。
・満州事変後はナショナリズムが高揚し、1932年(② )も国家主導で資本主義の弊害を除いて平等社会を実現させる考え(ファシスト党やナチ党も唱えた国家社会主義)に転じた。
・国家権力による暴力・圧迫のため、共産党幹部の(⑦ )・鍋山貞親が(⑧ )を唱え、獄中の大半の党員も転向した。
軍部の台頭
・陸海軍の青年将校と右翼は、昭和恐慌など失策の原因は(⑨ )の無能と腐敗にあると考え、軍部主導で政策転換をはかる。
・1931年陸軍青年将校の(⑩ )と右翼の(⑪ )がクーデタ未遂事件を起こす。同年には満州事変が勃発。
・1932年右翼が起こした(⑫ )により、前蔵相の井上準之助と三井の(⑬ )が殺害され、同年5月、A海軍青年将校が(⑭ )首相を暗殺した。以後、(⑮ )が途絶えた。
・1935年軍出身の貴族院議員菊池武夫が美濃部達吉の(⑯ )説を批判し、政友会の一部・陸軍・右翼なども全国的に排撃運動を展開。岡田内閣はこれに屈して国体明徴声明を出し⑯を否定した。
・陸軍内部では、(⑰ )の影響を受けて軍主導で⑨を排撃し天皇親政をめざす(⑱ )派と、革新官僚と財閥を結んで総力戦体制をめざす(⑲ )派が対立した。1936年⑱派の青年将校がB斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害し、国政の中枢を占拠した。天皇が厳罰を指示し、反乱軍として鎮圧された。
以後、⑲派が主導権を握った。
・1936年海軍軍縮条約が失効し、(⑳ )内閣は帝国国防方針の改定にもとづき、外交ではソ連に対抗してドイツと提携を強め、大規模な(㉑ )を推進した。1937年⑳の後、陸軍は首相任命に不満があると陸軍大臣の指名を拒み、⑲派の(㉒ )内閣では軍財抱合をはかったが、短命に終わった。
6月、貴族院議長だった(㉓ )が首相となり、元老、軍部、一般民衆の支持を集めた。
労働農民党、治安警察法、治安維持法、政党・財閥、井上日召、橋本欽五郎、永田鉄山、相沢三郎、
林銑十郎、田中義一、近衛文麿、犬養毅、広田弘毅、天皇機関、転向、政党内閣、軍備拡張計画、
確認問題
問1 下線部AとBの事件をそれぞれ何というか。
問2 「天皇機関説」とは、どのような学説か、次のア~エから選べ。
ア 天皇は国家の最高機関であるため、憲法を守らなくてよい。
イ 大日本帝国憲法は天皇が臣民に与えたものだから、天皇の権力を制限しない。
ウ 天皇は国家の最高機関だが、憲法を守ることになっている。
エ 天皇は憲法を停止して、腐敗した官僚・政治家を超法規的に処罰できる。
昭和時代(戦前)の年表問題
各内閣のできごと政策について、空欄に適切な語句を入れてください。
内閣 | 所属 | できごと |
第1次( ) | 憲政会 | 1926年中国国民党が( )を開始 1927年( )が発生し、鈴木商店が倒産 |
( ) | 政友会 | 1927年( )の実施で沈静化 1927ー28年3度の( )、東方会議 1928年第1回( ) 三・一五事件の後、( )を改正し、 ( )を全国の警察に設置 パリ( )に調印 張作霖爆殺事件が発生 |
( ) | 立憲民政党 | ・緊縮財政、1930年( ) 円高と世界恐慌で( )が発生 ( ):農村が困窮化し、娘の身売り、欠食児童 1930年日中関税協定で中国(国民政府)と融和 ( )に調印→統帥権の干犯と批判 1931年( )で不況カルテルを容認 |
第2次( ) | 立憲民政党 | 1931年柳条湖事件から( )が勃発 |
( ) | 立憲政友会 | ( )蔵相は金輸出再禁止を実施 円安が進み、恐慌から脱出 満州国が建国、リットン調査団が来日 ( )事件で井上準之助と団琢磨が暗殺される ( )事件で首相が射殺される |
( ) | 海軍 | 1932年農山漁村経済更生運動を開始 1933年( )脱退を通告 生産力が恐慌以前に回復 共産党幹部が( )を表明 |
( ) | 海軍 | 1934年陸軍のパンフレットで政治・経済への関与に意欲を示す 1935年( )が批判され、内閣も国体明徴声明を出す 1936年( )、陸軍皇道派のクーデタ未遂 |
( ) | 官僚 | 1936年帝国国防方針の改定、南進とソ連への対抗を併記 ( )に調印し、共産主義運動に対抗 ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約が失効 |
林銑十郎 | 陸軍 | |
( ) | 貴族院 | 1937年盧溝橋事件より( )へ |
昭和恐慌、金融恐慌、農業恐慌、五・一五事件、二・ニ六事件、国際連盟、満州事変、山東出兵、
重要産業統制法、治安維持法、ロンドン海軍軍縮条約、不戦条約、特別高等課、転向、北伐、
血盟団事件、日中戦争、金輸出解禁、モラトリアム、普通選挙、天皇機関説、日独防共協定、
昭和時代(戦前)の解答
金融恐慌と昭和恐慌の解答
ポイントの整理
・金融恐慌の背景
第一次世界大戦後、ヨーロッパの商品がアジア市場で復活して、日本製品が売れなくなり、1920年(①戦後恐慌)が起きる。
1923年関東大震災により、銀行は手形Aの決済ができず、日本銀行が(②震災手形)を買い取ったが、慢性的な不況で大量の②が未決済B。*A~Eは用語の説明を見てください。
・金融恐慌の展開
1927年第一次若槻礼次郎内閣の蔵相(③片岡直温)の失言で、銀行がつぶれると民衆に誤解され、取り付け騒ぎCが発生。
鈴木商店が倒産し、(④台湾銀行)は貸したお金を回収できず大ピンチに。
若槻内閣は④の救済ができず、総辞職。
(⑤田中義一)内閣が3週間の支払猶予令(⑥モラトリアム)を出し、日本銀行から一般銀行への融資で終息した。
・金融恐慌の影響
日本銀行は1923年も26年も紙幣を刷って銀行にお金を貸したから、日本円の国際的な価値が下がった。
たくさんの中小銀行が合併して、民衆も大きな銀行にお金を預けたいから、(⑦財閥)の影響力が増した。
政党(立憲民政党や政友会)と⑦の結びつきも強まる。
B:手形のとおり現金が支払われることを決済という。日本銀行はいろんな銀行から震災手形を買い取ったが、現金にできていない手形が2億円以上あった。
C:銀行にお金を預けている人が、預金を引き出そうと一斉に集まること。
・昭和恐慌の背景
日本の工業は(⑧国際競争力)が不足していた。工場などのリストラが進んでおらず、1917年以来の(⑨円安)で日本円の価値が低下。
1929年(⑩浜口雄幸)内閣は、蔵相に(⑪井上準之助)を起用して⑧の強化を目指したが、政策がすべて裏目に出た。
・昭和恐慌の展開
⑩内閣は(⑫緊縮財政)で物価の引き下げをはかり、1930年(⑬金輸出解禁)を断行。
実際は100円=46.5ドル前後のところ、(円高)の100円=49.85ドルで解禁したから、日本製品が割高になったD。
1929年アメリカの株価暴落に始まった(⑭世界恐慌)と重なり、輸出が停滞した。
工場のリストラが進みすぎて、賃金が下がり、失業者があふれた。
(⑮米価)など農産物の価格も暴落し、(⑯生糸)の輸出も激減。
価格下落を防止するため、1931年(重要産業統制法)で指定産業のカルテルEを容認。
東北地方の農村で(⑰娘の身売り)や(⑱欠食児童)⑰と⑱は逆でもOKが続出した。
民衆は政党に失望し、財閥を憎むようになる。
・昭和恐慌の脱出
1931年から蔵相の(⑲高橋是清)は(⑳金輸出再禁止)を行い、以後現在まで管理通貨制度となる。
円安(100円=20ドル)を利用して輸出が大幅に増大し、綿織物はイギリスを抜いて世界一位に。
赤字国債を発行して、時局匡救(きょうきゅう)と称する公共事業で農村を救済。32年(㉑農山漁村経済厚生運動)を開始。
1933年に⑭以前の生産水準に回復し、(㉒重化学工業)が発達し、日産・日窒など新興財閥が登場。
しかし、輸入面で(㉓アメリカ)への依存度が高まった。
E:企業同士が話し合わせて価格を決めること。現在では独占禁止法により禁止されている。
確認問題
問 大正から昭和初期の経済政策について、次の空欄に適切な語句を入れてください。
内閣 | できごと | 政策 |
原敬 | 1920年(戦後恐慌)が始まる | |
第2次山本権兵衛 | 1923年関東大震災が発生 →(震災恐慌)に | ・日本銀行に一般銀行の(震災手形)を買い取らせる |
第1次(若槻礼次郎) | 1927年蔵相(片岡直温)の失言で、全国の銀行で預金を引き出す人々が殺到→(金融恐慌)に | 台湾銀行の救済に失敗 |
(田中義一) | 1927年支払猶予令(モラトリアム)を出す 日本銀行から一般銀行に貸付をして、恐慌を終息させる →(財閥)の勢力が増す | |
(浜口雄幸) | 1929年(世界恐慌)が発生 →(昭和恐慌)に発展 米価と(生糸)の暴落で (農業恐慌)が発生 欠食児童・娘の身売り | 蔵相(井上準之助)が緊縮財政で物価を下げ、1930年(金輸出解禁)を断行 為替の安定と輸出強化を図ったが失敗。 1931年(重要産業統制法)で企業の話し合いで価格を決めるカルテルを容認 |
犬養毅、斎藤実(まこと)、岡田啓介(けいすけ) | 金輸出再禁止で円安が進み、輸出が飛躍 →日産・日窒など(新興財閥)が登場 イギリスはソーシャルダンピングと非難し、ブロック経済で対抗 | 蔵相(高橋是清)が金輸出再禁止を断行し、管理通貨制度に 1932年時局匡救事業として公共事業 (農山漁村経済更生)運動を始める |
山東出兵から満州事変までの解答
ポイントの整理
・山東出兵
協調外交から満蒙拡大へ
1926年(①蒋介石)の率いる中国国民党が軍閥を排除する(②北伐)を開始。
第1次(③若槻礼次郎)内閣の外相(④幣原喜重郎)は協調外交の方針から不干渉だった。
(⑤田中義一)内閣は1927年東方会議を開き、(⑥満州)の権益を実力で守ると決定。
同年から翌年、3度の山東出兵をし、第2次では国民革命軍と武力衝突した(⑦済南事件)が発生。
1928年満州軍閥の(⑧張作霖)が国民革命軍に敗北すると、(⑨関東軍)が独断で列車ごと爆破・殺害した(⑩張作霖爆殺事件)。⑧の子、張学良は満州を国民政府の支配下と認めた。
一方で⑤はパリで国策で戦争しないと宣言した(⑪不戦条約)に調印し、欧米との協調外交を維持した。
・ロンドン海軍軍縮会議
(⑫浜口雄幸)内閣は外相④のもと協調外交を復活させた。
1930年(⑬日中関税協定)で中国の関税自主権を条件付きで認めた。
ロンドン海軍軍縮会議には、③を全権として派遣し、日本は米英に対して約7割の保有率で条約に調印。
野党(⑭政友会)や海軍軍令部、右翼などが(⑮統帥権)の干犯と批判し、⑫が右翼に狙撃され退陣。
・満州事変
中国で国権回復運動が高まり、張学良が国民政府に協力したので、日本国内では「⑯満蒙の危機」が叫ばれた。
⑨は国権回復運動が⑥に及ぶのを武力で阻止しようと考え、⑨参謀(⑰石原莞爾)が奉天郊外で線路を爆破し、
中国軍のしわざと称して軍事行動を開始(⑱満州事変)。
第2次③内閣は不拡大方針を表明したが、⑨が戦線を拡大し世論・マスコミがこれを支持ししため、事態の収拾に失敗し退陣した。
1932年⑨は清朝最後の皇帝(⑲溥儀)を執政(34年皇帝に)におき、満州国の建国を宣言させた。
中国の提訴と日本の提案により、(⑳国際連盟)がイギリスのリットン調査団を派遣。その間、(㉑斎藤実)内閣は日満議定書を取り交わし、満州国を承認。
1933年⑳の臨時総会で日本が満州国承認を撤回するよう勧告。日本は⑳からの脱退を通告した。
同年、塘沽停戦協定が日中両軍で結ばれ、日本の満州経営が本格化。
(㉒岡田啓介)内閣は、ワシントンとロンドンの海軍軍縮条約から撤退。
確認問題
問1、昭和12年ごろまでの外交政策について、次の空欄に適切な語句を入れてください。
内閣 | できごと | 外交政策 |
第1次(若槻礼次郎) | 1926年中国国民党が(北伐)開始 | |
(田中義一) | 1927ー28年(山東出兵) (済南事件)で国民革命軍と衝突 (張作霖爆殺事件)で天皇の不興を買う | 東方会議で(満州)を実力で守る方針を決定 1928年パリで(不戦条約)に調印 |
(浜口雄幸) | 張学良が国権回復運動を始め、 「満蒙の危機」が叫ばれる | (日中関税協定)で中国の関税自主権を条件付きで認める 1930年(ロンドン海軍軍縮条約)に調印 →統帥権の干犯だと野党・海軍らが批判 |
第2次若槻礼次郎 | 関東軍の(石原莞爾)が線路を爆破 1931年(満州事変)が勃発 | 内閣は不拡大方針を声明したが、 (関東軍)が戦線を拡大 |
犬養毅、斎藤実、岡田啓介、 | 1932年(リットン調査団)が来日 1933年塘沽停戦協定で日中が停戦 | 1932年斎藤内閣は(満州国)を承認 1933年対日勧告に松岡洋右が退場 →(国際連盟脱退)を通告 1934年ワシントン海軍軍縮条約の廃棄 1936年ロンドン海軍軍縮条約の脱退 |
政党内閣から軍部台頭の解答
・ポイントの整理
左翼政党の動き
・普通選挙法後、1926年(①労働農民党)が農民組合、労働組合を基盤に合法的に結成されたが、(②社会民衆党)と日本労農党に分裂。1928年の総選挙では無産政党勢力から当選者を出す。
・選挙後、日本共産党が活発化し、(③田中義一)内閣は(④三・一五事件)で共産党員を一斉検挙。同年、緊急勅令で(⑤治安維持法)を改正し、最高刑を死刑、全国に思想を取締る(⑥特別高等課)を設置。
改正後、四・一六事件でも共産党員を一斉検挙した。
・満州事変後はナショナリズムが高揚し、1932年(②社会民衆党)も国家主導で資本主義の弊害を除いて平等社会を実現させる考え(ファシスト党やナチ党も唱えた国家社会主義)に転じた。
・国家権力による暴力・圧迫のため、共産党幹部の(⑦佐野学)・鍋山貞親が(⑧転向)を唱え、獄中の大半の党員も転向した。
軍部の台頭
・陸海軍の青年将校と右翼は、昭和恐慌など失策の原因は(⑨政党・財閥)の無能と腐敗にあると考え、軍部主導で政策転換をはかる。
・1931年陸軍青年将校の(⑩橋本欽五郎)と右翼の(⑪大川周明)がクーデタ未遂事件を起こす。同年には満州事変が勃発。
・1932年右翼が起こした(⑫血盟団事件)により、前蔵相の井上準之助と三井の(⑬団琢磨)が殺害され、同年5月、A海軍青年将校が(⑭犬養毅)首相を暗殺した。以後、(⑮政党内閣)が途絶えた。
・1935年軍出身の貴族院議員菊池武夫が美濃部達吉の(⑯天皇機関説)説を批判し、政友会の一部・陸軍・右翼なども全国的に排撃運動を展開。岡田内閣はこれに屈して国体明徴声明を出し⑯を否定した。
・陸軍内部では、(⑰北一輝)の影響を受けて軍主導で⑨を排撃し天皇親政をめざす(⑱皇道)派と、革新官僚と財閥を結んで総力戦体制をめざす(⑲統制)派が対立した。1936年⑱派の青年将校がB斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害し、国政の中枢を占拠した。天皇が厳罰を指示し、反乱軍として鎮圧された。
以後、⑲派が主導権を握った。
・1936年海軍軍縮条約が失効し、(⑳広田弘毅)内閣は帝国国防方針の改定にもとづき、外交ではソ連に対抗してドイツと提携を強め、大規模な(㉑軍備拡張計画)を推進した。1937年⑳の後、陸軍は首相任命に不満があると陸軍大臣の指名を拒み、⑲派の(㉒林銑十郎)内閣では軍財抱合をはかったが、短命に終わった。
6月、貴族院議長だった(㉓近衛文麿)が首相となり、元老、軍部、一般民衆の支持を集めた。
確認問題
問1 下線部AとBの事件をそれぞれ何というか。Aの事件:五・一五事件、Bの事件:二・二六事件
問2 「天皇機関説」とは、どのような学説か、次のア~エから選べ。
ウ 天皇は国家の最高機関だが、憲法を守ることになっている。
陸軍皇道派は政党・財閥など勢力を排除して権力を握りたいと思い、
政友会は政権与党を倒して、与党に戻りたいと思ったことも背景にある。
昭和時代(戦中)の問題はこちら